具体と根本 第1回

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スピリチュアルケア



 人は重い病にかかり死を予感するようになると、生死に関する問題が、自分の深いものから問われることがあります。

 かりに今、自分が未来に向かって生きられる立場にあるとすれば、その問題の答えが分からなくても、明日を生きることができます。しかし、死にゆく立場にかわると、意味の喪失感はスピリチュアルペイン(霊的な痛み)として自覚されることがあるそうです。

スピリチュアルペインに対する哲学、精神、宗教など多岐にわたる援助をスピリチュアルケアとよびます。日本における第一人者の窪寺俊之先生は、自身の経験をもとに『スピリチュアルケア入門』を上梓されました。その中に、次の文章があります。


自然界に繰り広げられる生と死のドラマは、人間においても起きることです。それに気づくとき、患者はむしろ安らぎを感じます。そのようになったとき、自然の一部として自分を見ることができるようになり、死に直面しているありのままの自分を受け入れることができるようになっていきます。


窪寺先生の精神的な支柱はキリスト教にあります。そのため、スピリチュアルケアの対象が霊的、宗教的なものにおよんだときには、キリスト教からのアプローチを得意とされます。しかし、上の文章からはその特色が感じられません。キリスト教への信仰が芽生えたから心境が変化したと読むのは正しくありません。心の変化は、何かに気づくことによって訪れているのです。



 『スピリチュアルケア入門』の一文と闘病記の解決の記述はよく似ています。ただ、順番が若干異なりますので、ためにしに闘病記の順になるようにならびかえてみましょう。


 ②自然の一部として自分を見ることができると、①自然界に繰り広げられる生と死のドラマは、人間においても起きることだと気づきます。そのとき、③死に直面しているありのままの自分を受け入れることができます。


闘病記は体験から気づきを得ていますので「②体験→①気づき→③結果」の順です。それを①→②→③にすると『スピリチュアルケア入門』になります。『スピリチュアルケア入門』からは、こころの流れを追うことができますが、闘病記は心と無関係ですから、それができません。

2つの文章の違いは、文章構成上の理由に原因があるかもしれませんので、記述から別の体験と判断することはできません。もしかすると同じ体験かもしれません。しかし、結論はどちらであっても良く、重要なのはそこから展開できる仮説のほうです。

Ⅰ.2つは同じ体験である

Ⅱ.2つは異なる体験であるが、同じ認識にいたっている

 もし、Ⅰ.が正しいとすれば、同じ体験をしたのが複数人いるということです。さきほどは著名人の例をあげましたが、彼らでなくても起こるということです。

おしらく、悟る体験とは「ひらめき」のように、人間本来のはたらきだと思います。条件さえととのえば誰でも経験できるはずです。そのため、前例は無数にあり、闘病記は無数の前例+1回目の出来事にすぎないと考えるのが妥当です。しかし、簡単に経験できないことも事実だと思いますので、そうならないほうが多いはずです。

 もし、仮説Ⅱ.が正しいとすれば、さきほどの図1の条件がそろわなくても、死の問題は解決できるということです。たとえば、花の香りをかぐ体験は「闘病記の再構築」を考えているときに起こりました。もし、この体験が「死の問題」を考えているときに起きていれば、結果はどうなるのでしょう。「私≠正しい、自然=正しい」の気づきによって、もしかすると、死の問題は解決できるかもしれません。ちなみに、花の香りをかぐ体験は図1の環境ではなく、駅から徒歩5分の街中での出来事なのです。



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