幸福を追求するためには、世界をどう見るかによって全く正反対の方法論があって、そして、それは案外両方とも正解であるという話

ヴェトナム戦争報道にのめり込み、ひょんなことからヴェトナム人の妻と娘を持つことになった近藤紘一のルポやら小説を一通り読んだあと、司馬遼太郎の「人間の集団について」を再読している。司馬はこのエッセイ集を戦時下の南ヴェトナムを取材した後に書いた。

ところで、僕が際限のない成長を永久運動のごとく宿命づけられた資本主義システムに対する強い違和感を感じたきっかけについては、自分自身の金融機関勤務の経験からこれまで散々書いてきた。

この世界から足を洗って、日本語教育の世界に入ってからも、このような際限のない永久運動の匂いがする「成長する教師論」や「自律学習論」に立脚する教育実践については、言いようもない違和感を感じてきた。

司馬がこのエッセイ集で江戸幕府について評した一文に「この時代の日本は、技術の発展を頓挫させることで社会の安定を図ってきた」という一文がある。

世界史的に考えれば、中国の明朝の海禁政策なども、あえて巨大な貿易船の開発を禁じ、朝貢貿易以上の海上貿易を厳禁することによって社会の安定を図っていたといえ、江戸幕府と共通するものがある。

現代社会に生きる我々からすれば、「技術の発展を頓挫させることで社会の安定を図る」などということは、無知蒙昧の極みで、さらに言えば狂気の沙汰でしかないとすら思える。

それでいて、私たちはおそらく虚構であると言われる「江戸しぐさ」なるものを道徳の教科書に登場させ、その是非をめぐる論争を行う一方で、その虚構にノスタルジーを感じる。

このような成長や発展を人間の集団が全面的に拒否するという現象はどのように理解したらよいだろうか。この点を明らかにしなければ、自分自身の違和感についても説明ができないと思う。

私たちは、今ある「考え方」が有史以来ずっと連綿と続いてきたのだろうと錯覚しがちだが、それは案外ここ数百年のうちに形成されてきたものであるということをともすれば忘れがちである。

際限ない成長や発展の追求とその拒絶。全く対極にある両者がめざすのは実は人間社会の安寧と幸福なのだろう。だとすれば、目的としては同じ価値を追求しつつ、その方法論については正反対の道を行く両者はどのような前提によって成り立っているのだろうか?と考える。

その根本的な世界観は、明日は今日よりもっと良くなっていくという楽観主義にあるか、その反対に悪くなっていくと考える悲観主義に基づくかの違いかと思う。

言うまでもなく、儒教的な世界観は、古代の聖帝の時代を至上として、以降、世界はどんどん悪くなっていくという一種の悲観論によって成り立っている。また、セム教的世界観においては、人間はエデンの園を追われた堕落した存在だと考えられている。

有史以来、世界はこのような「昔は良かった」的な悲観主義によって駆動していたのではないかと思われる。それがいつ、「明日はもっと良くなる」式の楽観主義にスイッチしていったのかについては、ウェーバーの『プロ倫』を読んでもらうしかないが、この神経衰弱気味のぺシミストはこの転換を「倒錯的」であると評している。

そう考えれば、つまり、明日の世界は今日よりも悪くなっていくという世界に対するまなざしからすれば、人間があくせくと動き回って小細工をすることを思い切ってやめてしまおう、という江戸幕府や明朝の政策もそれなり筋が通ったものであると言えるのかもしれない。

世界はどんどん悪くなり、人間はそれに抗しがたいのであるから、無為な努力を重ねることはやめてはどうか、ということである。それで案外江戸幕府や明朝もうまく行った部分はあるのかもしれない。

翻って、日本語教育の世界で考えれば、「明日はもっと良くなる」式の楽観主義は、人々に無限の努力や際限のない成長を強要していないだろうかと不安になってしまう。正反対の世界から眺めれば、無限の努力によって人間が際限なく成長していくということこそが、それこそ狂気の沙汰のように見えるのかもしれない。

そして、あのバベルの塔の寓話も、「昔は良かった」的な悲観主義によって駆動しており、神話とは元来そういうものなのだろう。

それで、現代社会に生きる私たちが心に留めておきたいことは、だから闇雲に成長や発展を白眼視せよということではなくて、人間社会の安寧と幸福を追求するためには、世界をどう見るかによって全く正反対の方法論があって、そして、それは案外両方とも正解であるということではないだろうか。

一つだけの正解を信じ、その正論を声高に叫ぶ者に正面きって抗することもできずに不本意ながら引きずられてしまうことの方が人間社会の安寧と幸福にとっては害をなすものなのかもしれない。

司馬はこのような一つだけの正解の例として、南ヴェトナムで充満している反共主義と唯物論という政治的なイデオロギーを挙げ、それを人間集団に注入される「圧縮空気」と表現した。

そのうえで、この「圧縮空気」に翻弄される集団としての人間と、「食って、寝て、愛する」ことで生活が成り立っている「ナマ人間」としてのメコンデルタ農民の個々としての人間生活を観察し、この両者が交錯したときに飛散する血と汗と涙のありさまを、自らの旧陸軍軍人としての経験を通過させて理解しようと試みた。

それで、自分はどうかと考えれば、脳髄の中に必死に「圧縮空気」を注入しようと試みるものの、どうもこれを収めている髄膜には無数の穴があいているようで、それは耳の穴から抜け出てしまって充満させることができないようになっているらしい。

ふと気がつくと、「ナマ人間」そのものになりきって世界を無為にただぼんやりと眺めている自分に気づく。まあ、それはまんざら悪いことではないと思っているのだが。

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