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16/5/2

人生3回の転機が教えてくれた最高の生きる理由〜知的障害のある長男の出産、夫の突然死、自身が下半身麻痺に〜(1)それから始まる人生

Image by Olia Gozha


「死にたいなら、死んでもいいよ」

 

娘が放った一言に、私は言葉を失いました。

それは2008年、夏のことでした。


その日、私は絶望の淵に立たされていました。


突然、大動脈解離という心臓の病気によって胸から下が麻痺し、車いす生活になって入院を続けていたのです。


歩くことはもちろん、当時は寝返りを打つことも、ベッドから起き上がることもできません。生きていくために当たり前のことが、一人では当たり前にできない状況。


来る日も来る日も、病院のベッドで泣いていました。


「ごめんなさい」を繰り返した日


入院6ヶ月目にしてようやく外出許可がおりました。

医師から告げられた時の私の喜びは、今でも書き表すことはできません。


しかし、私を待っていたのは厳しい現実でした。


自分の足で歩いていた頃は、神戸三宮駅を降り、改札から街へと出るまでたった数十秒でした。特に意識することも無かったでしょう。


しかしそこには、車いすでは越えられない階段がありました。


お手洗いに行きたくても、車いすで普通のトイレには入れません。


十六歳の娘に車いすを押してもらい、散々迷ってたどり着いた行きつけのカフェの通路は狭く、入り口で入店を断られてしまいました。

 

「すみません」

「ごめんなさい」

「通らせてください……」

 

気がつけば私は、あんなに憧れた街の人混みで一日中、誰かに謝ってばかりいました。


どれもこれも、歩いていた頃には、気にも留めなかったことばかりです。


やっと車いすでも入れるレストランを見つけた時、私は疲れ切っていました。車いすで外出をすることが、こんなに苦しいとは思わなかったからです。 


口をついた言葉の応酬


「なぜ私は生きてるんだろう。死んだ方がマシだったのかも……」

 

思わず、口にしてしまいました。

終わらない入院生活、辛いリハビリ、惨めになる外出。

私はもう、限界だったのだと思います。


すぐに、しまったと後悔しました。なんてことを言ってしまったのだろう。

私は、怖くて情けなくて、娘の顔を見ることができませんでした。

 

しかし、娘から返ってきたのは思いもがけない言葉だったのです。

 

娘の名誉のために伝えると、彼女は私の一番の理解者でした。


病気で倒れる前もしょっちゅう二人でショッピングや映画に出かけていましたし、親子でありながら友達のように仲も良かったのです。


だからこそ、私はてっきり、娘は私に「死なないで」「なんでそんなこと言うの」と泣いて言うだろうと思っていました。


 

「死にたいなら、死んでもいいよ」と娘は静かに告げました。

 


皆さんの中には、ビックリしてしまう人もいるでしょう。


親に向かってなんてことを、と憤る人もいるかもしれません。


しかし、娘の言葉は、それまで受け取ってきたどんな言葉よりも、私を救いました。


自分の足で歩けず絶望していた私は、その日をきっかけに再び前に進もうと決めました。


「死んでもいいよ」から、私の新しい人生が始まったのです。


この物語について

この物語は、私・岸田ひろ実の人生が大きく変わった3つの転機と、娘が「死んでも良いよ」と私に言ってくれた理由を綴るものです。

原作は岸田ひろ実(母)、ライターを岸田奈美(娘)が務めています。


続き:(2)他人と違うことが怖い幼少期


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