人生3回の転機が教えてくれた最高の生きる理由〜知的障害のある長男の出産、夫の突然死、自身が下半身麻痺に〜(2)他人と違うことが怖い幼少期

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他人と違うことが怖かった幼少期


昭和四十三年九月、私は大阪府大阪市の谷町というところで生まれました。


お寺や神社があちこちにあり、大阪の繁華街のすぐそばにありながらも長屋風の家が立ち並ぶといった、どこか懐かしい街並みでした。


当時、私の家は印刷業の小さな町工場を営んでいました。父親と母親に加え、父方の祖父母が同居していました。


家から歩いてすぐの距離には松屋町という大阪最大の玩具問屋街があり、何かにつけては父親が玩具を買ってくれました。


あまりにも私が欲しいものは何でも買ってくれるので、中学生になるまで自分の家はお金持ちなんだと錯覚していたくらいです。もちろん、実際はそんなことはないのですがとても可愛がってくれたことを覚えています。


しかし、家庭では色々と問題もありました。


私の父親はアルコール依存症で、朝からお酒を飲んで酔っ払うことも日常茶飯事でした。おまけにギャンブルに没頭していたものですから、負けた時などは見ていられないくらいです。


祖母は精神的に不安定で、いつも部屋の隅っこで「つらい、しんどい、死にたい」と、聞いているこちらの気が滅入ってしまうような独り言を呟いていました。祖父は介護が必要な状態でした。


そんな三人の身の回りの世話をしながら、町工場の女将さんとして忙しく働いていたのが、私の母親でした。


「おかあさん、かわいそうや。早く楽にさせてあげないとあかん……」


子供心なりに、私は考えていました。とは言え簡単な家事の手伝いしかできませんでしたし、一人でお金を稼いで家計を助けられるわけもありません。


当時の私にとって、母親を楽にすることとは「できるだけ良い子でいる」ということでした。

  

この頃から私は、大人の顔色ばかりを伺って行動するようになりました。


気性の変化が激しい祖母や父親の機嫌を損ねないよう、常にニコニコしていました。空気が悪くなったら、あの手この手で修復に努めました。実際に、家庭内にとどまらず近所からも、お利口な子供だとちやほやされるようになりました。


「ひろ実はええ子やな。自慢の娘やわ」


もっと母親を喜ばせたい。その一心で身につけた、処世術でした。


良い子に拍車をかけるように、中学生に上がる頃、私は一通りの家事を年齢不相応にこなせるようになっていました。


私に家事を教え込んでくれたのは祖母でした。大正生まれの祖母は、女とは夫の留守を守る存在であり、掃除や料理は完璧であってこそという考え方の持ち主でした。


ですから私は、水周りの掃除から出し汁の取り方まで、寸分の隙も無い厳しい指導を受けました。


今となってはありがたい経験だなとも思うのですが、当時は必死でした。祖母を怒らせてはいけない、母をがっかりさせてはいけないと怯えていたからです。


高校生になると、練習が厳しいことで有名なバレー部に入りました。


当時のチームメイトとの間では、今でも「あの練習を乗り越えたんだから何でもできる」が合言葉です。でも、この練習に耐え、何事も頑張り抜くという癖がついたのも、広い意味で見れば両親のためでした。


そんな私は、周囲の大人から見れば確かに良い子だったと思います。


しかし内心は、失敗したり、他人と違ったりすることがとても怖かったのです。


何をするにも、人目を気にしていました。友達と遊んでいて帰りが遅くなってしまった時は、家に到着する五十メートル以上手前で靴を脱ぎ、裸足で歩いたくらいです。


ヒールのある靴はコツコツと音が鳴ります。近所に聞こえてしまえば、体裁が悪くなると考えたからなんですね。


ずっと後から分かったことですが、母親は私が思うほど苦労はしていなかったそうです。驚いたことに、母親は父親に感謝こそすれ、恨みなど少しも抱えていませんでした。


「ギャンブル好きなんは大変やったけど、勝った時はいつもお寿司の出前を取ってくれる優しい人やってんで」


能天気に笑いながら言う母を見て、大人になった私は肩の力がガクンと抜ける思いでした。むしろそんな母だからこそ、あの家でも心身を壊さずやっていけたのだろうと納得しました。


とにもかくにも、私は「他人と違うことを恐れる」子供でした。


幼少期に培われたこの性格のおかげで、この後の私は心底苦労することになるのです。


自分に持っていないものを持っていた人


主人と出会ったのは、短期大学を卒業後、大手航空会社系列の不動産会社に就職した時でした。


私より二つ歳上でしたが同期入社である主人は、数日に渡って実施された新入社員研修でも毎回チームリーダーを務め、目立った存在でした。


出身も学歴もバラバラな同期の社員の先頭に立ち、交流会やイベントごとも率先して企画していました。


みんなが言いづらいことも、正しいことであればズバズバと言ったり注意したりする人でした。


でも非情というわけではなく、周囲に馴染めない社員がいれば声をかけ、丸一日、相談に付き合っていた人情味溢れる人でした。


聞けば、小学生高学年から高校生までの九年間、野球チームのレギュラーとして活躍しキャプテンだったそうで、なるほどと頷けました。


強い意思と自信を持って、自分の意見を言える人。


それは当時の私とは正反対の存在で、いつの間にか主人に対し尊敬の念を持っていました。


ある日、主人が自分の生い立ちについて話してくれました。


主人には兄が一人いるのですが、その兄はいわゆる優等生でした。


何をやっても兄には勝てず、どれだけ主人が野球チームで活躍しても両親は兄ばかりを目にかけるので、主人は日に日にコンプレックスを募らせていたそうです。自宅でも反抗ばかりしていると言っていました。


主人にとっての夢は、べたですが円満な家庭を築くことでした。


そんな主人にとっては、若いのに周囲の同期に比べると、落ち着いていて家事もそつなくこなす私が目立って見えたようです。


ネガティブな理由から鍛えていた私の女子力が功を奏しました。


主人からプロポーズを受け、結局会社は一年半で寿退社しました。



その一年後、長女(岸田奈美)が生まれました。生まれた瞬間、笑ってしまうくらい主人と似ている女の子でした。


二十三歳での出産でしたので、周囲の友人たちの間では私が一番早くママとなりました。


もちろんそれ故に大変なこともありましたが、そんなことはすぐに吹っ飛ぶくらい、幸せな毎日でした。


震災と主人の使命


結婚して四年目の冬、阪神大震災が起こりました。


当時、新居は兵庫県神戸市の中でも震源地から遠い北にあったため、幸いにも命に別状はありませんでしたが、西宮市にあった主人の実家は倒壊してしまいました。


主人は交通機関が麻痺している中、何時間もかけて義父と義母を迎えに行きました。しかし義父は三日もしない内に、西宮市に帰ると言い出したのです。


「皆、家が壊れて困ってる。わしはこんなところにいる場合じゃない」


そう言う六十歳の義父の仕事は、大工でした。


危ないからと止めても、義父は工具を持って出て行ってしまいました。まだ瓦礫だらけの西宮市に帰り、義父は倒壊してしまった家々の解体作業に全力を尽くしたそうです。


主人はと言うと、会社から自宅待機を命じられていました。


大工と不動産会社。同じ住宅を扱う仕事なのに、困っている人々を前にして何もできない自分。そんな主人の目に、義父がどう映ったのかはわかりません。


しかし、次の日から主人は義父の作業を手伝うようになりました。腱鞘炎になっても、工具を握り続けていました。


 それからしばらくして瓦礫も片付いた頃、主人が「俺、会社を辞めて起業しようと思う」と言った時は驚いたものの、心のどこかで私はやっぱりな、と思いました。


自分の考えを信じて、新しいことにどんどん挑戦する主人が、保守的な大企業系列の会社で浮き始めていることにはなんとなく気づいていました。


でも、起業となると話は別です。


実家の町工場経営の過酷さを間近で見ていた私だったので、最初は戸惑いと迷いを抱えながら尋ねました。


「起業って、なんの会社にするん?」

「建築の会社や。震災で家が壊れてしまった人も、今までみたいに笑って新生活を送れる家を作りたいねん」


主人らしい理由だと思いました。どんなに無茶でも無謀でも、一度言い出したら聞かない性格の主人です。


この性格は娘にも見事に遺伝していることを、私は数年後に知りました。


「わかった。私は経営のことは分からんけど、家のことは任せて」


尋常じゃない忙しさが待っていることは、目に見えていました。


この時私が意固地でも反対していれば、主人はあんな運命を辿ることは無かったのかもしれません。


本当は、今でもあの日に戻れるなら、と迷うことがあります。


しかし私は、スーツから一転して泥だらけの作業着に身を包み、楽しそうに仕事に打ち込む主人の背中を見守れたことを、心から誇りに思うのです。


続き:(3)可哀想なお母さんになった日

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