新卒で入社した一部上場会社が民事再生法適用になった話 その1

次話: 新卒で入社した一部上場企業が民事再生法適用になった話 その2

日経一面にその記事は出ていた。「東証一部上場の中堅海運会社XXXXXXが、本日民事再生法の申請を行う方針を決め最終調整中。負債額は約2000億円。今年最大の倒産となる。」

遂にという気持ちと、まさかという気持ちが交錯していた。

「中堅」とは言うが業界では日本郵船、商船三井、川崎汽船の大手3社に次ぐ4番手グループ。

売上高もピーク時には2000億円近くに達していた。

起源は住友3ミルの1つであった住友金属鉱山の別子銅山での貨物と乗客の輸送で1892年だというから創業120年以上の老舗。

実際にはこの住友系の東京を基盤としていた会社と、別の住友金属(現新日鐡住友金属)の砂鉄輸送に従事してた神戸を拠点としていた不定期船会社が1960年に新設合併したもの。

日本の高度成長が始まる頃で住友金属、住友化学、住友金属鉱山の旺盛な原材料需要に応える為の、住友銀行(現三井住友銀行)と住友金属の主導であったと言われている。

消費者の目に直接触れない原料輸送という分野である為、知名度は極めて低い。

入社した自分のが言うのも何であるが就職活動をする迄全く知らなかった。


入社した頃(1983年)の主要株主は住友金属、大阪商船三井(現商船三井)が2割強、その後に住友各社が続いている。

よって社長は代々、住友金属、商船三井から交互から選任されて来たが、その後、一旦プロパー社長が2人出たが、信用不安、住金の影響力の低下から再度、商船三井から派遣されるようになっていた。


入社した時の同期は男子7名、女子13名。

郵船、商船三井でも男子30名位だったので規模を考えると多い。

出身大学も早稲田3、慶応2、法政1、筑波院1と粒ぞろいではあった。

先輩たちも早慶が圧倒的に多く、一つの部の二つの課のメンバーが片方は全て早稲田、もう一方は全て慶応ということもあった。

人数が少ないこともあって車内の風通しは良く、野球、サッカー、テニス、バトミントンなどの同好会や冬のスキーツアーも盛んだった。

仕事も先輩社員が面倒を見てくれるOJT。仕事帰りにはほぼ毎日のように飲みに行った。

今だから言えるが昼から結構飲んでいて、昼食時も部長が真っ先に中華店に行き座敷を確保。

「取り敢えず餃子と瓶ビール。」という感じだった。


給料も組合が強く船員の全日海との連携が強かった為に、当初は商船三井が決まるとほぼ連動して決まる。企業規模を考えると「おいしい」仕組みだったが、段々と見直しが入ったのは仕方ない事。


会社の業務は「不定期船」と言って、これに対する概念は「定期船」。

「定期船」はコンテナ船で予め決められたスケジュールで港の間を運行。荷主は電機メーカーや機械メーカーなど比較的高付加価値な貨物を運ぶ。

イメージとしては「バス」。乗り合いで決まった停留所(港)に寄港して行く。

一方で「不定期船」は「ダンプカー」に近いイメージ。

お客様の指示で色々な貨物を色々な港の間で運ぶ。荷物は石炭、鉄鉱石、ボーキサイト、木材、塩、鋼材、雑貨とまさに様々。

この「不定期船」の中でも「専用船」と呼ばれる住友金属向けの原料輸送が商売の根幹。

売上高では2割位だったと思うが利益では100%以上がこの「専用船」が稼いでいた。

住友金属の増産が続く中で原材料の安定確保の重要性が増し、大型船をコスト+利潤で提供していたのだ。

だから住友金属の増産が続く限り業績は安泰、そんな会社だった。


様相が変わり始めたのは2つの要因による。

一つは三光汽船によるばら積み船の大量発注。商社などと組み100隻以上を船価の上昇を目論んで発注。一部は追随した他の船社に船台のまま転売したものの、次々に竣工してくる新造船が市場にあふれ出た事。

二つめは進行する円高だった。1985年の「プラザ合意」を機に一気に円高が進行した。


続きのストーリーはこちら!

新卒で入社した一部上場企業が民事再生法適用になった話 その2

著者のTachibana Toshiyukiさんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。