10ヶ月児とのアイコンタクト
電車の中に入っていくと二人席の一つが空いていたが、窓際の席には若い男が大きく足を 広げていた。もう少し先を見ると女性の横が空いていたのでそちらに座った。
座って気がつくと彼女は赤ちゃんを膝に乗せている。足元には大きなカバンとリュックが 置いてあり、隣の席にはみ出さないようにつつましく縦に積んである。
彼女の足がようやく 下におろせるくらいの大きな荷物だった。 そんな荷物なので、孫を見せに実家に里帰りした帰りかなと思いながら座っていると、窓の外を見ながら子供に小声でひっきりなしに話し掛けている。
「あっ、チョコレートの看板や、お菓子の工場かなあ。反対側の電車が来たよ、あれに乗るとオジイチャンの家に帰るんや けどね」 赤ちゃんはおとなしく膝の上に抱かれて立とうとしているが、まだつっぱるだけで立つことは 出来ない。
冷房は入っているが汗かきの私には利きが悪いので、夏の必需品の扇子を後ろの ポケットから出して扇いだ。
しばらくすると「あれ扇子やよ。ウチワと違う動きが面白いんかしら」という声が聞こえた。 横を見ると赤ちゃんがこちらに向き直って扇子の動きをじいっと見ている。つい「パタパタ」 「パタパタ」と言いながら赤ちゃんの顔にも風が行くように扇いでみた。
真っ黒な前髪が風に あおられて少し動いた。そして赤ちゃんがニッコリ笑った。 「ごきげんさんやね。ぐっすり眠ったあとかな」とお母さんに言うと「そうなんです」と言った。 「何ヶ月ですか」「十ヶ月です」「うちも娘が二人いて、こんな時もあったはずやけど、おおきなると そんな時代があったこと、忘れてしもて」「そんなもんなんですか」。
赤ちゃんは二人の話を静かに聞いている。何回もパタパタをしてあげるとその都度私の目を じっと見上げてうれしそうに笑う。 黒い瞳の可愛い男の子だった。しばらくこの子と目を合わせていた。彼はまったく視線を外さない。 気持ちよさそうに風を受けて私をじっと見つめる。
生まれて十ヶ月の赤ちゃんと昨日東京の本社で退職の行事をすませたばかりの六一歳の男の 二人がお互いじっと目を合わせる。涼しい風って気持ちいいねえ。ほんとやねえ、おじさん、と 言っているように思えた。
新大阪から乗った電車が芦屋に近づき、普通電車に乗り換えようと準備を始めたら 「おじさん降りられるみたいやねえ」と母親が子供に話し掛けた。 「丈夫な子オに育ちや~」と言って席を立つと「ありがとうございます」と彼女が言った。
先に動き出したこちらの普通電車をすぐに新快速が追い越しかけたが、向こうの窓からこちらに 気がついた彼女が、軽く会釈したのが見えて私もあわてて頭を下げた。 親子の乗った電車は速度を上げて普通電車を追い越していった。
生まれて十ヶ月の赤ちゃんと、思いがけない出合いがあって、明日からの退職の日々に 新しいスタートを切れたような気がして,少し弾んだ気持ちで下車駅の改札を出た。
'04.2.11の神戸新聞[文芸欄]エッセ-・ノンフィクション部門に入選・掲載されたエッセイです。男の子に出会ったのは'03.7月の第一週でした。
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