海外あちこち記 その18  インド・ムンバイの昼時の弁当配達やパーシーのこと  

 昭和50年代中頃、港湾荷役設備の商談で当時のボンベイ、現在のムンバイに何度か出張しました。1)ムンバイでは昼前になると毎日、筒型をしたスズ製の容器の吊り輪に棒に通して、肩に沢山容器を担いだ人達がビルに入ってきます。大きなビルにも小さなビルにも続々とやってきます。これはサラリーマンの弁当です。各人の家で作られたばかりの暖かい弁当を、運び屋が契約した家ごとに回って集め、それをご主人の勤め先の会社まで届けると言う仕組みです。よくはわからないそうですが、ボンベイは人口が1200万人の大都会ですから(そのうちスラムに500万人が住む)沢山のサラリーマンや大きな店の店員がおり、ここに届けるのと食べた後の容器の回収で昼時は大混雑でした。2段重ねの入れ物の一つはライスやナンでもう一つはカレーなどの汁物だとのことでした。何と贅沢な人達でしょう。会社で家と同じ物を毎日食べるなんて・・・その一方、昼食の運び屋という仕事をする人達があんなにいるなんて思いもよりませんでした。

2)ホテルを一歩出るとあっと言う間に30人位の子供の乞食に取り囲まれます。男の子も女の子もいます。口々にテンパイ、テンパイ??と言いながら手を出してきます。とっくに忘れていたけれど、子供の時の自分と同じ年頃の戦災孤児の姿を思い出しました。Hさんから可哀相と思うだろうけど、この乞食集団の一人に一ルピーでも渡すと、明日から集中的に狙われて囲まれるからみんなも困る。絶対に渡さないでくれと言われていたので早足で通りを渡りましたが、私にとっては毎朝のストレスでした。それぞれの集団に親方がいて、朝、乞食衣装を貸して夜鵜匠のように金を取り上げると言っていましたが真偽のほどはわかりません。このカーストの子供は生きるために、五体満足に生まれながら、同情を買う為に親に不具にされることもあるなどという話も聞きましたが、当地にいる間はそうかも知れんなと思っていました。今思い出しても見た瞬間にこちらの身体が固まるような姿の乞食が沢山いましたので。

3)郊外に大きな洗濯場があるというので見に連れていってもらいました。橋の欄干から下を見ると広大な広さのエリアに、段々に水が流れる洗濯場があって、屈強な男達が何百人も、白い布に石鹸をつけて石に叩き付けて洗っていました。こういう場所がいくつもあり、商売は繁昌していると聞き、この暑さだから毎日着替えるとなると膨大な仕事量だろうと納得しました。

4)大きな敷地を取った豪壮な屋敷がいくつも並ぶところを車で通りすぎたので、聞くとそこは「パーシー」が住む住宅街でした。「パーシー」は昔のペルシャ、今のイランから ある時期にインドに移住した当時の貴族階級でいまだにインド人とは通婚せず、純血を維持しているとのことです。インドの有力財閥「タタ」(タタ製鉄などのオーナー)はこのパーシーの一族です。

 ところで日産の社長のゴーンさんの両親はレバノン人でブラジルへ移民で行き、ゴーンさんはブラジル国籍ですが、彼は学校はフランスの最高学府の一つの理工科学院?を出てルノーに入社しました。 レバノン、シリア、イランなどはインドアーリア族で、広くいえばアングロサクソンやラテン系民族と親戚みたいなものです。 インドの最高カーストのバラモンもその一つの集団ですが、ボンベイの町で見かけるずんぐりむっくりの庶民の体つきや顔つきは、原住系の非アーリア系ドラビタ族の血を引いているのか、ボクによく似ており何とも言えない不可思議な思いをしました。

この日本列島では昔のボートピープルで大陸や半島各地から、流れついた当時の先進文化を持ったと言うか、人殺しに効率のいい鉄製の武器を持った連中に、原住系の親玉クラスは蹂躪、虐殺され、大半の原住民は下層に取り込まれましたが、歴史というのは勝者の歴史ですから、いつのまにか血塗られた歴史は人の記憶から消され、古来から単一民族の国という事になってしまいました。(ただ最近、古事記や日本書紀の文間から、抹殺出来なかったもう一つの歴史が沢山見つかってきています。また、埋められた銅鐸が人の住まない谷間から道路工事や造成地工事でブルドーザーの歯先にひっかかって、襲撃されてあわてて隠されたままの形で1500年後にあちこちで見つかったりしていますが)

それに比べ、陸続きの地域というのは、次から次へとニューエントリーして来た連中を止められずに、先祖の生きるか死ぬかの戦いの記憶を持ちながら、いま同じ時空で異民族どうしで折り合いをつけたり、つけられなかったりしながら息をしながら生きているということでしょうか。ほんま大陸に住む連中は、えらいことやと思いませんか。

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