フェイスターン ④
それからしばらく経った日の朝、お母さんがダイニングテーブルに二枚の紙を置いた。
「これ、阿部くんと行ってきたら?」とお母さんが言った。プロレスのチケットだった。
「お父さんがね、今やってるタッグリーグでいいところまで行ってるのよ。それ、最終戦のだから優勝するとこ見られるかもよ」
「いいよ別に。阿部はともかく、わたしプロレス興味ないし」
「いいじゃない、興味なくても。結局あれから何も進展ないんでしょ? 初デートだと思って行ってきなさいよ」
「だから何で初デートがプロレスなのよ。だいたいそんなの行ったらわたしがあの人の娘だってばれちゃうかもしれないじゃない」
「まあいいじゃない。このチケットだってお父さんが招待してくれたんだから。特別リングサイドだよ」
「はいはい。とりあえず二枚とも阿部に渡すよ。誰を誘うかは知らない。それでいい?」
「好きにしなさい」
そんな感じで阿部にチケットを渡したら、案の定、阿部はわたしを誘う。
「いいじゃん、せっかくだし。一緒に行こうよ」
「でもわたし、プロレス興味ないし」
「一回観れば変わるって。それとも、俺と行くの、嫌かな?」
そんなこと言って暗い顔をするから断りきれなくなって、お母さんに連れていかれてた以来十年ぶりぐらいでプロレス観戦に行くことになってしまった。
当日、わたしと阿部は駅で待ち合わせて試合会場へ向かう。こうして並んで歩いているとカップルに見えるのだろうか。本当はプロレス観戦という何とも色気のないデートコースなんだけど。
「今日の決勝戦のキーマンはサタンだ」と阿部が言う。
「え? あの人、本当に決勝まで来たの?」
「ああ、相変わらず反則やってるけど、のらりくらり上がってきたよ。しかもパートナーの高野とは変な空気なんだ。面白くなりそうなんだ」
その後も阿部が今日の見どころを丁寧に話してくれたけど、途中から聞くのをやめた。何と言われてもこちらは興味がないのだ。
会場に着くと阿部は慣れた感じでチケットを渡して中に入り、パンフレットを買って席に着いた。
しばらくするとゴングが何回もなって、アナウンサーみたいな人が出てきて、試合開始を告げる。
丸刈りのいかにも若手というレスラー二人が出てきて、特に盛り上がるわけでもなく、試合が進む。威勢よく声を上げながらチョップを打ち合う。盛り上がってないから逆に音がよく響く。ときおり、選手の名前を叫ぶ人もいる。阿部もどっちだかの名前を何度か叫んだ。興奮しているのか阿部の顔が紅潮して見える。こんな阿部の顔を見るのは初めてだったので少し嬉しくなる。
そうこうしている間に試合が終わった。あっけない感じだったけど、誰も不満の声を漏らしたりはしない。
第二、第三試合と進んで、徐々に会場も盛り上がりを見せる。おおー、とか、あー、とか思い思いに声を出して、観客たちも選手を応援する。
わたしはそれをぼんやりと眺めながら、昔のことを思い出す。
お母さんに連れられて、毎週のようにプロレスを見に来ていたあの頃。もちろん父親の試合も何度も見た。でもそのときは父親とは別の覆面をかぶったヒーローみたいな選手を応援していた。軽い身のこなしで相手を翻弄し、鮮やかな空中殺法で試合を決める。
負けるのはいつもわたしの父親だった。
好きなレスラーが勝ち、父親が負ける。とても複雑な気持ちだった。本当はあの人に勝ってほしかった。本当はあの人を応援したかった。
けれど、わたしの父親、つまりサタン鬼塚はそのころから反則ばっかりしていたし、鬼の覆面してるのも気に入らなかった。だからわたしはプロレスを見に行くのがどんどん嫌になっていった。大きくなると、サタン鬼塚が自分の父親であることにすら嫌悪感を抱いたし、お母さんが離婚したのに苗字を戻さないのも嫌だった。それがばれたくなくて、わたしはニット帽なんかを被るようになった。
ふと隣を見ると、阿部の姿がなかった。
わたしがぼんやり座っていると、阿部は息を切らせて帰ってきた。
「やっべえ。ブラック・モモタローの体さわっちゃったよ」と興奮冷めやらぬ顔で席に座る。
ブラック・モモタロー、という名前を聞いてわたしはリングに目を向ける。
そこにいたのはわたしが小さいころ応援していた、あの覆面レスラーだった。
「あれ? マスクの色が違う」。わたしは思わず口に出してしまう。昔は桃色のマスクだったはずだ。
「よく知ってるね。昔はマスクド・モモタローっていうヒーローだったんだけど、フェイスターンしたんだ。だから黒いマスクになってる」
フェイスターン、こないだお母さんに言われた言葉だ。
試合が始まると、モモタローは十年近く前となんら変わらない、身軽な動きで相手を翻弄する。悪役らしく反則を交えながら華麗な技を決める。わたしはなんだか嬉しくなって、モモタローの繰り出す技に拍手なんかをしている。
「よかった」と阿部が言った。
「え?」
「やっと楽しそうな顔してくれたね。さっきまでこの世の終わりみたいな顔してたから」
前半戦が終わって休憩になり、阿部がトイレに行くといって席を立つと、わたしの携帯電話が鳴りだした。お母さんからだった。
「もしもし」
「みゆき? なんだかんだ言って楽しんでるみたいね、よかったよかった」
「別にそんなんじゃ、ってお母さんどっかにいるの?」
わたしは会場を見渡す。するとわたしの向かい側の最前列にお母さんはいた。わたしに向かってにやにやと手を振っている。
「どういうつもり?」
「どうもこうもないわよ。お母さんも招待されたんだから、お父さんに」
阿部が席に帰ってくる。
「とにかく、あんまりいやらしい目でこっち見ないで」と言ってわたしは電話を切ろうとする。
「あ、ちょっとみゆき」
「なに?」
「今日のお父さんの試合、ちゃんと見てなさいよ」と急に真面目な声でお母さんは言った。
「わかったわかった」と言ってわたしは電話を切った。間もなく再開のゴングが鳴った。
後半戦が始まると、わたしは阿部と一緒になって観戦に熱中した。
選手の名前を叫び、試合が終わると花道に走って選手の体を触り、会場と一体となって「ワン、ツー、スリー」とカウントして、試合が終わると心から拍手をした。
阿部の心底たのしそうな顔を見るうち、何というか楽しまないと損な気がしてきたのだ。
一緒になってこの楽しい時間を共有できたら、二人はもっと深いところで結びつけるような気がした。きっと阿部もそう思っているはずだ。
残す試合は一試合。メインイベント。タッグリーグの決勝戦だ。
バイオレンス高野のテーマ曲が流れて、会場はさらにヒートアップする。
「ほら、鬼塚。行こう」と言って阿部が駆け出してしまったので、わたしも慌ててそれについていく。
高野とサタン鬼塚が観客を弾き飛ばしながら入場してくる。わたしの父親が近づいてくる。胸が高鳴るのがわかる。
本当は応援したかったけど、素直になれなかったあの頃。小さなころの気持ちが蘇る。今日なら、今日ならサタン鬼塚を応援してもいいような気がした。
わたしは一歩足を踏み出して、サタンに手を伸ばした。
でも私の目の前に現れたのはバイオレンス高野だった。高野は、わたしの手を払いのける。わたしは体勢を崩してその場に倒れこむ。
すると阿部がすかさずわたしの手を引いて立ち上がらせてくれる。
「大丈夫?」
「うん。ありがとう」
わたしは彼の優しさにほっこりしながら彼の顔を見つめる。
阿部は目を合わすのが恥ずかしいのか、目線を上に、わたしの頭のほうに逸らして「ほら、これ」と言ってわたしのニット帽を返してくれた。
ニット帽を返してくる。わたしの、ニット帽。ということはいまわたしは帽子を被っていなくて、頭はもちろん剥き出しで。角も丸出しで……。
「見ないでー!」
声にならない声を上げながら、わたしは会場の外に駆け出した。
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