ダメダメな私が6度の挫折の後、憧れだった国内王大手エアラインと仕事をするまで(私の半生)

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前話: ダメダメな私が6度の挫折の後、憧れだった国内大手エアラインと仕事をするまで(私の半生)その2 自転車での日本縦断旅

「来週からうちで働いて欲しい」

都内でイベントスタッフとしてバイトしていた私のもとに一本の電話が入った。


それは先週面接を受けに行った印刷会社からの就職内定の電話だった。



その2年前。

私は地方のとある印刷会社で働いていた。

新卒で営業として働くこととなった会社だ。

コンビニやスーパーなどで売られている“日配品”と呼ばれる

短くて数時間の賞味期限しかもたない食品のパッケージ。

フィルムにその食品をイメージする印刷を施し、購買を促す。

数ある味のイメージを消費者に的確に伝えると共に、

乾燥や酸化・腐食から守る役割も担っている。


印刷業との出会い  ~私の半生~

特段印刷の知識があったわけでもない学生だった私。

しいて挙げるとすれば年末の年中行事、年賀状を作る作業。

当時は今ほどPCは一般的ではなく、年賀状を作るとすれば

芋や消ゴムで版を作って押印する程度。

機械を使ったとしてもプリントごっこと呼ばれる簡易なスクリーン印刷だった。

中学の時になると

当時気になっていた女の子に“凄い!!”と思ってもらえたらと

その下心から年賀状コンクールで受賞を目指し、

井原西鶴、菱川師宣、喜多川歌麿などの浮世絵を模して

木版を彫刻し版を作り、こだわり抜いた色で印刷。

最終的には手透きの和紙も作るようになっていた。

毎年、大賞を受賞していたが、気になっていた女の子には見向きもされなかった。

それでもすっかりその気になっていて中学卒業時には

伝統工芸士になりたいと思うようになった。

週末になると鎌倉に通い、鎌倉彫りに一生懸命になった。

作ったものは手鏡やお盆、最終的には欄間まで作ろうとしていた。


私がSTORYS.JPで目指すこと。

それは苦労話で同情してもらいたいわけでもなく、

成功体験を誇示したいわけでもない。

読者を意識して簡単・お手軽便利に為になることを示すわけでもない。

多くの方がそうであるように一筋縄では行かない人生の機微、

その時々に何を感じ、思い、考え、行動したのか詳らかにすることによって

ダメダメな私個人のダメダメな経験でなんの役にも立たないかもしれないが

なにかを感じる一人の人でもいれば幸いだ。

*何よりもまたしても人生の分岐点に立つ自分が

歩んできた道の整理とこれからに全てを記さずにはいられなかった事により

以下、長・乱文となることをお許し願いたい。




1度目の挫折 ~高校進学~

「お願いだから高校だけは行って!」

その頃になると彫刻刀も文房具屋で売っているものでは飽きたらず、

鎌倉で購入した柄の長い本格的なものとなり、何種類も持つようになった。

砥石も購入し、自ら研いだ。最終行程の漆に手を出そうかと言うとき、

あまりに熱中する私の背中越しに母親が

「お願いだから高校だけは行って!」と涙なからに懇願してきた。


良い子、良い子で育ってきた私。夜な夜な何度も話し合いの機会をもち

最終的には母親を泣かした事を悔い、伝統工芸士の道に進むことを諦めた。

(それでもなりたければ諦めなければよかっただけの話なのだが。。。)

と同時に夢を失った1度目の挫折。


それでも部活動である陸上に励み県大会にいったり、

1年1学期と空けずクラス役員をやったり、

小学校時クラスの人気者が推し挙げられ生徒会会長をやっていたことが

 中学に知られていたのか中学でも生徒会をやることとなり、

それが基となり県内有数の進学校に進めてしまったのが悲劇の始まりだった。



2度目の挫折~航空大学校への道~

回りで県内でも優秀な人たちがキラキラとした高校生活を送っていた。

一方の私は鳴かず飛ばずの冴えない高校生活。あまりに眩しく

ひとつの輪の中に居ることが耐えられず、あえて群れずに過ごした。

それでも巡ってくるクラス・学年が一丸となって取り組む学校行事。

輪の中に居ることを強要されることから苦痛でしょうがなかった。


そこで思い出したのがクラス・学年よりも小規模な輪=生徒会。

クラス・学年を取り仕切らないとならない生徒会ではあるが

常に集うのは多くて10名足らず。=歩調を合わせる人数も少なくて済む。

チャレンジングなマインドの面々が揃っていた。今から思えば

傍若無人、良い意味での若気のいたりであっちこっちぶつかりながら

不器用なやり方で、行事の内容はもとより制服、体操服、通学カバン、

通学バスの新規購入検討まで目に入るもの入るもの全てに矛先を向け

変えに変えまくった。

(後の生徒会から「何も変えるものがない」と言われるほど)

その忙しさを理由にクラスの・学年行事には最低限の参加で許された。


それでも大学進学が視野に入ってくる頃になると、

改めて夢を探すことを強いられた。

父親の夢だった話も参考に聞いてみると、パイロットになりたかったという。


年相応のエディプスコンプレックスで父親を越えるべく

パイロットになりたいと思うようにし、目指すこととした。

今みたいにインターネットなど簡単に調べられる手段はなく

行きなれない本屋に行って調べた。

航空大学校という学校があり、パイロットの養成をしていることを知る。


航空大学校の願書は羽田空港にある所管官庁に取りに行った。


田舎の高校生がおいそれと出て行くにはあまりに遠く、大冒険だった。

やっとの思いでたどり着くと窓口で話をするまでもなく、簡単に手に入った。

帰りの電車の中、開けてみるとその要領・要項に愕然とした。


身体検査検査基準  不適合状態の中に“椎間板ヘルニア”とあったのだ。


社会人になって現役パイロットでも椎間板ヘルニア持ちはいると知る。

が、当時、(簡単に)手にした夢を(簡単に)手放してしまうのに十分な記述だった。

もう二度とこの駅には降りないだろうと思った当時、

それから10年後足しげく通うことになるとは露程も思えないほど

打ちのめされた気分だった。


それでもいつしか自分の夢になっていた飛行機乗りの夢は

またしても優先枠で推薦を手にした大学で手に入るかのように思われた。



3度目の挫折~友人の自殺~

学業はそこそこでも、その他で尽力した高校生活で手にした大学への推薦枠。

学科はパイロット養成コースでもなく、航空宇宙でもなく、

その近接の機械系の学科だった。

それでも国産初の旅客機を作った人が創設した学部で

メインとなる航空宇宙学科は当時夏になるとテレビで目にしていた

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