ダメダメな私が6度の挫折の後、憧れだった国内大手エアラインと仕事をするまで(私の半生)その2 自転車での日本縦断旅

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編入した大学で待っていた絶頂期

4月、新たな学校生活が始まると あれも学んでみたいこれも知りたいと年間認められている取得単位(見込み・予定)の単位内に抑えるのに苦労した。


学ぶということがこんなに楽しいものだということを初めて知った。


事前に読んでくる本が3冊あってもインタビューが何件あってもくではなかった。書き渋るレポートはなく、1週間後の次の授業を待たずしてレポートを出したりもした。


そんなんだから夏休み前に課題を全て終えてしまった。有り余った時間で旅に出ることを考えた。夏休みなると昔よくやっていた小学生ぐらいの男の子の自転車旅。それを思い出した。近くのコンビニでMAPLEを購入した。地図を見ているだけでワクワクした。いてもたってもいられず、3日後には水に入っても平気なメッシュ地のくつをはいて中学生の時に購入したマウンテンバイクに買ったばかりのMAPLEを縛り付け、着替えも持たず、郵貯カード1枚をもって無計画な旅に乗り出していた。


無計画の自転車旅

準  備

最初に目指したのは隣町の自転車専門店。グローブやサイクリングパンツ、サングラス、ドリンクホルダー2つ、距離速度計、自転車用のライト、パンク修理キットと替えのチューブ2本1SETで購入した。お金は、先のバイトで貯めたもの。店先で装着した。どこに行くか決めてはいなかったが、長い旅になる予感だけはした。だからLong rideを楽しめる装備をと考えたのだ。


いつもの風景が違って見える。

新宿東口。電車で来て町を歩いたときとは違う人の流れを感じた。今日は自転車で来たのだ。感慨にふけって撮った写真は後から見るとどうでもいい景色だった。


初めての夜

夜の帳が落ちる頃、秋葉原で総武線各駅電車を見た。少し雨も降って来たので高架下でやり過ごそうとした。が、先に進みたくてうずうずしたので多少なら濡れてもいいと再びこぎ出した。


大きな川を越える頃遠くに花火が見えた。花火大会だ。その晩いくつかの花火大会を遠くから眺めた。その下には花火を見上げる人たちがいることを想像しながら。


都会を離れ、辺りは街灯もない真っ暗な田舎道に。薄い月明かりだけでは付けてきた距離速度計も見れない。どれくらい走ったか分からない。今がどこかも分からない。テントや寝袋は持ってこなかった。快適な住環境が良ければ家から出なければいいだけの話。高架橋を見つけてその下で寝た。


家族への連絡

明るくなって目が覚めた。少し走ると田舎道に珍しい渋滞があった。看板を見ると大洗海岸。海へ行く人たち出なければあることを知る。同じように自転車で旅をしている人に出会った。大きな荷物を前輪脇にも後輪脇にも積んでいた。足元はサンダル。準備周到な自転車回りにふさわしくない足元だ。聞けば大洗からフェリーに乗って北海道を目指す、と。北海道か・・・その時はじめて北海道という目標ができた。そこで初めて家に電話した。朝早かったこともあって誰もでなかった。留守番電話に「今大洗海岸。これから北海道行く」とだけ残して切った。そのままフェリーに乗ることも考えたが、もっと自転車で走りたいと思った。勝ちっこない勝負を彼にしかけ、北海道まで競争だ!と自分は陸路で行くこととした。


田舎道、いけどもいけども 田んぼ道

変わらない風景に安堵感を覚えた。つい1年前まで地べたどころか地中を這っているかのような目標のない人生。今は進んでいる!今は(人生の目標はよく分からないけれども)北海道という目標がある!ふつうってこういう変わらない風景みたいことを言うんだろうな・・・と今となってはよく分からないことを思っていた。


頼りは勘

ここまでは地理の授業の時に覚えた地名を頼りに、すべて道路標識で○○まであと何㎞という道路標識を頼りに走ってきて購入したMAPLEは荷台に縛り付けられたままとなっていた。しかし東北圏に入ると知っている地名が少なく、北へ向かっているか定かではなくなっていた。そこで初めてMAPLEを開いて居場所、向かう先を確認した。半分に折れ曲がったMAPLEをまっすぐに正しながら見るのに苦労した。国道なん号線を行くとなん号線にあたるからそこを右に。簡単に手の甲に数字を記した。手帳と名付けた。季節は真夏。気づくと消えていた。それ以後MAPLEは開かなかったが、旅する!と決めて買ったときのドキドキを、暑くて大変な事があっても忘れないように、縛り付けたままにした。


寝るときは・・・

東北圏は乾燥しているのか夜涼しく快適で距離が稼げることもあって夜走った。それでも睡魔に襲われたときにはステーションホテルやグランドホテル、スタンドホテルやパークホテルで寝た。ステーションホテルは駅のベンチや改札前にごろんと横になること。グランドホテルは田んぼの畦道や野原で寝ること。スタンドホテルは雨に降られたときに利用したが閉店後のガソリンスタンドに寝ること。店開けるからどいて~と起こされたこともあった。パークホテルは公園。その他橋の下で寝たり、コンビニの駐車場、車止めを枕にして寝ることが多かった。背中に昼間照らされて暖められたアスファルトが放熱する温かさを感じながら、満点の星空を見上げると疲れが吹き飛んだ。それでも寝ていると顔に覆い被さるように何かがついたのを振り払うと普段は見ない大きすぎる蛾であったり、あまりの煙たさに目を冷ますと後輪から荷台後ろまで距離のあるトラックが私に気づかず後進してきたりしたこともあった。そんな身の危険もあったためか身動きせずに寝ることを身に付けていて、狭い防波堤の上、右手を出せば車、左手を出せばテトラポットの上という肩幅ほどのコンクリー壁の上で寝ることもあった。お勧めはしないが、波の音と時々行き交う車の音が似ていることは防波堤の上に寝なくても気づくと思う。


死の恐怖を感じる時

東北といえど昼は暑い。夜走るのに適して寝るのがもったいなくなって夜走ったりもした。この頃になると夜、月明かりでも走れるようになっていた。夜間爆走するトラックに負けじと自分も爆走した。今から思えばいつ跳ねられてもおかしくない状況。本当に今死んでも惜しくないと思えるほどテンションが上がっていた。

それでも死の恐怖を感じる時があった。それはトンネル。お化けとか幽霊とかではなく音と風。

避難口があるほどの長いトンネルは避難口を使うような事態になった時のために歩道があるが避難口がないトンネルにはそれがなく、すぐ横をトラックやらバスやらが過ぎていく。まだ遠くにいるトラックやバスがトンネルに入ってくると音がトンネル内に響く。音がし始めるとすぐに自分のすぐ脇を通っているときのようなけたたましい音だ。それが自分に向かって近づいてくる。

対抗車線にヘッドライトが見えると少し安心する。自分が跳ねられる危険がないからだ。それでもドライバーがそんな田舎道、居るはずのない自転車のりの自分をお化けか幽霊かに見間違え、急ハンドルを切ったらどうしようとも思った。後ろから来るトラックやバスは本当に怖かった。ロシアンルーレットをしているかのようにいつ跳ねられるか分からない恐怖。跳ねるなら一思いに跳ねてくれ!とも思った。振り返るとその方向にハンドルが切れてしまうことを覚え、脇の下から後方を確認することを覚えた。ママチャリに乗っている時にはやったことがない技だ。みるみるヘッドライトが近づいてくる。対向車は来ていない。センターラインをまたぐような挙動を示してもらえた時には自分が見えているということで少し安心した。それでも油断ならない事を後に知る。

場所は同じくトンネル内。2台続けてトラックが来た。自分に気づいたのか若干センターラインよりに寄ってくれている。しかし後方のトラックは右ハンドル、左の路肩にいる自分には気づいていないよう。祈る思いで1台目のトラックに追い抜かれる。と同時に車道側に体が吸い寄せられる。陰圧になるからだ。そのすぐ脇、文字通り肩をかすめるようにセンターライン側に位置取りしていないトラックが過ぎていく。巻き上げられる粉塵。かけているサングラスにバチバチとあたる小石。目は見開いても口は開けず、少しでも幅を取らないように肩肘張らずとも陰圧になる空気に体を持っていかれないように力を入れ、路肩にたまっている粉塵にタイヤを取られないようコントロールする。その繰り返しだった。


初めての宿泊施設

身寄も心もへとへとになった。それでもしっかりした宿泊施設に泊まることは気が咎めた。それでもどうしようもないときは次、スーパー銭湯を見つけたら、次、温泉宿を見つけたらと思いながら走っていつも通りコンビニ駐車場に寝たことも少なくない。

O脚の足が悲鳴をあげた時は仕方なくスーパー銭湯によった。まっすぐの上下運動でペダルを漕いでいるつもりがO脚の為、力が外に外に逃げていた。それに気づく頃には膝は倍ほどに膨れ上がっていた。途中で購入したサポーターも役に立たない。どうしようもなくなってスーパー銭湯に転がり込んマッサージを受けることにしたのだ。

今ほど町のあちこちにマッサージ屋さんがない時。田舎となればなおのこと。体のこりや張りは精神的なものを起因としていることから客パイの多さから都会に多いというだけではないことをこの時は知らなかった。

マッサージを受ける前、思いの外冷えていた体を温めるために風呂に入った。久しぶりに脱いだタンクトップは脱いでもなお着ているように肌の焼けているところ、焼けていないところがくっきりしていた。それを見た人が「にいちゃんよく焼けているね」と声をかけてきた。頭を洗っていた私は軽く会釈をすると背中をさすってきた。トンネルでトラックに追い抜かれたときのような、それでいて全然違う身の毛のよだつ思いがした。その人はサウナに入っても、サウナから出て水風呂に入っても、薬草湯につかっても露天風呂に出てもついてきた。男好きな人?初めてそう疑うそういう人(であろう)と対面した時だった。

気分の良いものではなかったので出てマッサージを受けに行った。真っ黒な顔、パンパンの足を見た施術者は時間を超過してやってくれた。幾分よくなったが早々簡単には良くならない。どうせスーパー銭湯に入ったのだからと先の人がいないことを確認しながらミストサウナに入りに戻り、そのまま掃除の人に起こされる深夜までその中で寝てしまった。

翌日幾分腫れのひいた足で再び自転車でこぎだした。研いでいた牙が丸くなるようにへたれになっていた。ちょっとした暑さ、ちょっとした坂でふーふー言うようになっているように感じ、距離が稼げなくなっていた。また快調に走れるようになるまでスーパー銭湯は禁止とし、違う怖さも避けようと心に決めた。


食事

食事は基本コンビニで賄った。一日に何食(厳密には5食)食べても痩せていく。ペットボトルのスポーツ飲料も一旅で応募券が何枚もたまるほど飲み干した。涼しいコンビニに入ると生き返る思いをする人は少なくないが、その時の私には身の細る思いだった。それはコンビニのクーラーの効きの良さ。あっという間に体を冷やし、芯まで冷やしてしまうのだ。旅を終わった頃の体脂肪は5%。一日中体の中で一番大きな筋肉を使い続けているのだから脂肪という脂肪はなくなっており、冷えやすい体となっていたも冷えやすくなっていた原因。よって冷やさないようにコンビニに入る前に買うものを決めて、他のお客さんがいない時で、レジの人がレジ前に立っている時を狙ってダッシュで買い物をした。幸いコンビニは同じような商品配列となっていたことから慣れれば1分かからずに出てこられるようになり、お腹や筋肉を冷やすことはなくなっていった。


そんな身も心も旅に順応し始めた頃、迎えた4号線最高到達点。


雪の坂道となった時やブレーキが焼ききれて、Uncontroleとなった車が突っ込む用のスペースで休憩しながら上がっていった。気づくと雨が降ってきていつしか雷も鳴り響くほどの大雨に。シャッターのしまった店先で雨宿りをしてやりすごした。どのくらい時間が経っただろうか気づくと辺りは暗くなってきた。すっかり冷えた筋肉では馬力がでない。山からは先程までの雨水が岩肌をなめて滝のように落ちてくる。反対側は谷。谷底の川も増水しているのか山肌に反響する音はゴウゴウと鳴り響く。路面は滑る。なにかを踏んだ。プシュー。聞いたことがない音がする。すぐにパンクと分かる。辺りは人里ない山道。そう言うときに限って行き交う車もない。パンク修理ができる平らで明るいところまでO脚でふくれた膝にむちうって押しながら移動するしかなかった。

そんな時、後ろから車のヘッドライトが近づいてきた。音から大きなトラックであることが分かった。跳ねられないように車道とは反対側に身を傾けやり過ごした。すると少し先でブレーキランプが赤く光りとまった。エアサスペンションのエアーを抜いてドライバーが降りてきた。


「どうかしましたか?」


真っ暗でよく見えなかったがトラックドライバー=荒くれ者の勝手なイメージとは異なる声。女性だ。事情を話すと町まで乗っけていってくれることとなった。その目は捨て犬を見るような目で、私は捨てられたわけではないが拾う神に思えた。ご飯までごちそうになった。


人  

温泉街ではまだ掃除中、開店準備中のお風呂に無料でいれてもらえたこともあった。とあるサービスエリアでは観光客のおばちゃんからアメリカンドックとかき氷ををごちそうになった。北海道では広い広い道路の対向車線から自分に向かって斜めに接近して来た車に驚いた。聞けば追い抜いていった時に気づき、家でおにぎりを握ってくれたとのこと。巨大なおにぎりも大盛り札幌ラーメンバターのせと共に消えた。福井では同じ自転車旅をしている理数系MENSに旅の面白さは2のX-1乗分の1となる自説を聞いた。一人旅ならではの痩せ我慢感は否めなかったが、旅の全工程感じること、とる行動の結果は全て自分が享受するには1人旅に尽きるとのことだった。そんな中でも一番覚えているのがとある都市のとある公園で出会った女性だった。


その日、その場はとても暑く、かといってクーラーが効いた場所には入れない体になっていた私は木々がうっそうと茂る公園に日陰を求めていった。暑さが落ち着くまでパークホテルで・・・と決め込んで、適当な場所を探していると物憂げな女性が一人、何をするわけでもないただ斜め上をみつめてボーッとしていた。私と同じく暑さをしのいでいるだけの地元民?それにしてはもっている荷物が多すぎる。季節は夏、服もそんなにいらないだろうに大きめのボストンバック2つ。

声をかけ話を聞くと家出中とのこと。年のころは20代後半から30代前半。大人の女性が家出?かれこれ9ヶ月ほど家出していて、おそらく捜索願いも出ているだろう。。。と。どこの誰で、なんで女性一人9ヶ月もの間家族と連絡も取らず家出しているのか、このまま家出し続けていればいつかは最悪な結果を自ら招きかねないと考えた。一緒に警察署に行って捜索願いが出ているか確認しようと提案したが、拒絶された。どうせ出てない、と。先ほどとは違う答えをしたことからもアンビバレントな感情が入り乱れ、一人では整理がつかないのだろうと心理専行学生魂がむくむくと顔をもたげた。

私だけで近くの警察本署まで行って確認してくることにして、その場を離れないように言った。素性が少しでも分かれば・・・と。間違いなく出ていた。彼女はそこから700kmほど離れたところに住んでいた。彼女の言う通り昨年末に家を出てきたことが分かった。

戻ると先の場所に彼女は居なかった。自転車に乗って探すと公園の反対側にいた。私が警察官を連れてきたらいつでも逃げれるようにしていたのだという。無理矢理戻されることを拒絶しているのが分かった。それでもなんとかして戻さないといけない、そんな使命感に勝手に燃えていた。

時間はたっぷりある。お腹を満たすと心も幾分やわらぐこと、お互い小汚なくなっていたこともあってスーパー銭湯に行くことを提案した。

スーパー銭湯では時間を決めてお風呂からあがり、時間を決めて落ち合い、好きなものを好きなだけ食べた。食べるだけ食べて眠くなったら仮眠室で寝て、起きたらまた風呂に入って過ごした。その間ポツリポツリと彼女ペースで出てきた情報で彼女の人となりを理解しようとした。有名な大学を卒業後、地元に戻って就職した彼女は実母との折り合いが悪く、家に居場所が無いように感じていたことや雪山に突っ込んで自殺しようとしたこと、久しく人と話していなかったこと、そろそろ帰らないとなぁと考えていたことなど話してくれた。2日ほど経つと どこか似ている者どうしと互いに思えるまでに心開いてくれているのが分かった。

説得に応じて警察署まで一緒に行ってくれることとなった。警察署から電話をかけてもらった。母親が出たようでまた頑なになっていくのが分かったので代わってもらい、これまでの経緯を話し、最後に責任をもって彼女を帰します!と口走っていた。700kmの道のりを2人が軽自動車で帰ってこれるように幾らか送金してくれることとなった。

車に戻ると「帰るよ?!いい?」と帰ることを告げた。安心したのか彼女は眠いといい始めたので助手席に座らせた。寝て起きるのをただ待つことはできなかった。起きたらまた頑なになって気が変わって「帰らない!」と言われたらどうしよう、理解を示さなかったら今度は車を置いてどこかに行ってしまうかもしれない。寝ている間に行けるところまで行くしかないと考え、自分の自転車を後部座席に積み込むと自分が運転して車を出した。途中銀行ATMやガソリンスタンドに寄ったときも彼女を起こさないように気を付けた。うっすら目を覚ました時も「まだまだだよ~寝てて~」と安心させつつ進んだ距離をごまかして車を走らせた。

しっかり目を覚ます空腹時にそなえてコンビニで食料を大量購入し車中に用意した。それまでに築いた関係性の空気感を保つように心がけつつ、自分の自転車旅同様、夜も車を走らせ着実に彼女の実家に向かった。

次の日、彼女の家のすぐ近くまで来ていた。再度「帰るよ!」と確認と言うよりも念押しした。「家まではいいよ」と落ち着いたトーンで応えた彼女に安心した。が、油断は禁物。最後に一人旅卒業記念でパーティーしよう!とコンビニによった。コンビニ横の駐車場に車を停めて買いに行く振りをして彼女の家に電話した。近くまで来ているので偶然を装って来てほしいと。ただし、コンビニまで来られては困ること、家から出てコンビにまでの間くらいの彼女が帰ることを躊躇しそうな時引き返しそうなところで迎えてほしいことを伝えた。

スイーツを買って車まで戻り、お互いに食べさせあってご苦労様~とパーティーを終えた。彼女が落ち着いていることを確認して後部座席から自転車を引き出して、見送った。

*後日お礼の電話があった。家の中の状況は変わらないけれどもなんとかやっていると。そのままお母さんにも変わってもらって一緒に居ることを確認した。そして彼女は強いこと、あれやこれや言わなくても賢いこと、それでいて繊細なことを他人(私)の目を通して感じたことを聞かせた。だからあれやこれや言ってあげるな、とも付け加えたかったが、十分分かってくれたと感じた。


そうして私はまた目の前で人が死ぬのを見ずに済んだ。安堵感だけが残った。


そんなんで私の自転車旅は途中700kmほど車での移動というTVだったらやらせ問題になるような経緯を経て北は北海道北見、南は九州は門司港で、北は冷えから来る膝の限界、南は夏休み時間切れで幕をとじた。


家に帰ると母親がおらず、聞けば祖父が危ないことを知った。

旅に出る前特段、そんな話は聞いていなかった。軍隊上がりで病院嫌いの祖父は検査と簡単な手術のために少しの間入院する予定が、病院のベッドに横になったときから急激に弱り始め、死ぬような病気ではなかったもののみるみる衰弱していったとのこと。最期は意識も朦朧として自分の娘なのか死んでしまった嫁なのかも分からない位になったけれども孫の私は覚えているようで「今日はどこまで行ったんだ?連絡はないかん?」と気にしてくれていたとのこと。おじいちゃんの最期には会えなかったけれども、好きな自転車旅をして図らずも最後のおじいちゃん孝行ができていたことを嬉しく思った旅の思い出です。


そうして編入し入り直した大学1年目大学3年生の夏休みは終わった。


その勢いはそのまま卒論提出の4年冬まで続いた。

今となっては何ら珍しくないインターネットを利用したカウンセリングの可能性を先の学術論文などほとんど無く、大学の教授にはそんなことできるはずないと全否定、猛反対される中、書き上げ無事卒業した。


勢いはここまで。短くもはかない人生の春 第1章だった。それでも自力でなんとかできること、Happyになることもさせることもできることを知った大切な期でもあった。


過去と他人は変えられない。

変えることができのは未来の自分の行動のみ。


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ダメダメな私が6度の挫折の後、憧れだった国内王大手エアラインと仕事をするまで(私の半生)

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