東京で一番古い居酒屋「神田 みますや」で会った横浜の人

1974年(昭和49年)の12月に大阪から東京に転勤になった。勤める事務所は神田美土代町にあった。会社には食堂がないので昼食時は同じ課の人たちについて、彼らが行く店をあちこち覚えていった。その中の一つが「みますや」だった。事務所から5分くらいの場所に店があった。鯖の焼き魚定食や煮魚定食があってちょっと高めだが旨かった。

そして夜は夜でまた「みますや」に行く。今度は居酒屋の「みますや」だ。名物の煮込みは定番だった。先輩に聞くとこの店は明治時代に神田で土木工事が多かった時に、土方に昼飯を出す店としてスタートしたそうだ。「だから味が濃いんだよ。汗をかく連中に合わせた味付けだからね」と先輩が解説してくれた。確かに関西の店より塩辛い品が多かったが、それはそれで慣れていきおいしく食べた。

よく通った昭和50年代はそこらにある普通の居酒屋の一つという感じで会社から近いこともあって通った回数は多かった。1987年に13年間の東京神田勤務を終えてまた大阪勤務になって「みますや」とは縁遠くなった。そして大阪から広島勤務になり、そのあと第2の勤務先に移った。

 2002年6月26日、出張で朝から東京に行った。夜はいつもの神田のホテルに泊まった。東京出張のおりは、夜は大抵むかしからの知り合いのどなたかに一杯お付き合い願っているのだが、この夜は飲んでも早く切り上げようと思いどなたにも声をかけず一人で居酒屋の「みますや」に行った。 「みますや」は一年半ぶりくらいだが店の中が何となく綺麗っぽくなっていた。客は殆どが50歳代の勤め人が2、3人連れで、2人ずれの組でも女性は30代以上に見え、相変わらずチエーンの居酒屋とは客層がかなり違う。

入って左側の大きな板卓の3人ずれの客の横に案内された。目の前にはやはり一人客がいたが暫くして帰った。生中を飲んでいると頼んでいたこの店の定番の牛の(にこみ)が来た。すぐ近くの神田美土代町に勤務していた昭和50年代の、週に数回は来ていた頃は、確か一皿350円くらいだったと思う。相変わらず独特の風味で、関東風の濃い味付けの旨さは変わっていない。経てきた年数を考えると仕方がないと思いながらも、関西が長くなったせいか、量もしっかりあるのについ(にこみ)が一皿600円もするのかと思ってしまう。

定年前に見える横の3人ずれは近くの勤め人たちらしく誰か同僚の噂話に余念がない。関東弁も歯切れのいい江戸っ子弁だと耳に心地よく、いまや東京でも希少価値の方言、江戸っ子弁だなと思いながらBGMとして何となく聞いていた。壁には前にはなかった日本各地の銘酒のあれこれ、田酒、久保田などの名前が張り出され、日本酒だけのメニューが出来ていて驚いた。しかも料理も、前と同じく壁にそれぞれ小さな板に書いて上げてあるが、メニューも板卓においてある。

普通の熱燗一合と「きんぴら」を追加で頼み、これで引き上げようと思っていたら一人客が目の前に案内されて座った。三十四、五のさっぱりした感じの男だった。座ってから何となく嬉しそうに店の真っ黒な天井、柱や畳の上がりがまちなどを見廻した。無言でいるのも気詰まりなので、彼が生中を飲み干し「にこみ」を食べ、またメニューを見て私と同じ熱燗、彼は2合だったがを頼んで暫くして、「この店は初めてですか」と声をかけてみた。

外で一人で飲む時、相手を見て目の前の人に声をかけるのだが、迷惑そうなら必ずその一言で止める。自分も喋らないで飲みたい時もあるから。この日の彼は飲む人間に共通の雰囲気で「いや、今日が初めてなんですよ」と自然体で返してきた。

桂米丸の切符を知り合いからもらったので今日は公休で東京へ出てきてそれを聞き、終ってから前から来てみたかった「みますや」にようやく来れたという横浜の人間だった。この「みますや」が近頃の居酒屋ブームで雑誌やテレビに取り上げられていることを彼から初めて教えてもらった。明治38年の開業で始めは近くの工事現場の土方相手の店だったことも彼は知っていた。そうか、だから綺麗ぽっくなって前にはなかった新規の客相手のメニューが出来、とっくりがみますやの名前入りになって店員の数も増え、次々年配の客が店の中を覗きながら入ってくるわけがわかったと疑問が晴れた。

ただ店の雰囲気が前と変わらないのは有り難く、それも建物が戦前のそのままのせいもあるかも知れない。しかし次の震災ではおそらく即ぺちゃんこではある古い木造の建物だ。この横浜人は母親が京都、父親が栃木という組み合わせで、仕事で各地に行くと居酒屋を楽しむという仁であった。会話は楽しく続き、銚子が沢山並んでしまい翌朝二日酔いで目が覚めた。

今も東京へ行くことがあれば「みますや」を覗いてみたいと思っている。















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