英語の仕事をするという目標を10年かけて叶えた私が、英語で仕事をしたいと考えているあなたへ伝えたいこと
どうして英語で仕事をしたいと思い始めたのか、今ではほんとうによくわからない。なんとなく興味があった外国文化のおしゃれな感じを、将来の日常生活に取り入れたいというようなぼんやりとした想いがあったのは事実だと思う。さほど努力をしなくても、英語の成績だけはわりよよかったこともあり、流れで英語英文学科のある大学へ入学して、卒業した。
当時は、英語英文科を卒業したし、語学留学の経験もあるから、せっかく学んだことを仕事で活かせなければ、それはこれまでの歩みの正しい結果ではないと考えていた。元来、まじめな性格。手相にもそう出ている(らしい)。
というのは表向きの話。ただ単に私は、平凡さを捨て、自由でおしゃれなキャリアウーマンになりたかったのであった。地味な制服を着て自宅と会社の往復、結婚したら家族のためにキッチンと居間の往復、そんな人生はつまらなくて価値がないと思った。だから唯一、ほんの少しだけ、人よりも優れている(と自分が思い込んでいる)英語の能力を活かす仕事に就ければ、キラキラと活躍し続けることができるはずだと確信するようになった。実におめでたい。
私は、英語に関連する仕事を求めて、20代を派遣社員として模索した。派遣社員なので、立場的に補助的な仕事しか与えられず、本当にやりたい仕事に人生を捧げられていないという不完全燃焼感がずっとあった。しかし実際は、派遣社員だからとかそういう理由ではない。オフィスワークの経験値や能力が圧倒的に不足しているがゆえ、高度で複雑な仕事を任されなかっただけだった。それもそのはず、エクセルの勉強でもすればいいのに、いまだ英語や英会話の勉強を場違いにも続けている始末だった。
とうぜん収入も伸びなかった。新卒で企業に入社した友達たちが少しずつステップアップしていくのを横目に、焦りを感じていた。
そんなことを悶々と考えてしまい、ひとりで勝手に悩んでいた。
大学職員として留学生や国際交流に携わる仕事をしていたこともある。将来留学したいという学生にアドバイスをしたり、海外提携大学とのコーディネート業務をしたりと、一年ほどそこで楽しく過ごしたけれど、本来イメージしていたやりたい仕事は、「外国人と一緒にチームで仕事をし、大きなプロジェクトを動かす」といったような仕事。そんなことが自分にできるはずだと信じていたのは、本当に無知がゆえ。これだと思う求人があれば華やかな履歴書を書いて面接を受け、ことごとく落ちていたのに、その理由が自分の魅了性のなさにあるとは気がつかず、経験不足や適性不足なのだと置き換えて納得していた。人は、自分の見たいものだけを見るというけれど、まさにそのとおり。他人からみれば、ずい分と「こじらせている」面倒な子に見えたに違いない。
とある地元企業の面接では、面接官に、
「あなたはすでに英語の仕事に就いているんでしょ?だったらどうしてうちにきたいの?その仕事を続ければいいんじゃないの?あなたは、正社員になりたいだけなんじゃないの?」と、志望動機の甘さを指摘されたりした。おっしゃる通りです。
そもそも仕事をするってことの意味を全然わかっていなかった。プライドの高い私は、英語の仕事を「賢く、有能な人にしかできない」要するに「かっこいい」仕事だと位置づけ、それこそが自分に向いた仕事だから優秀にこなせるはずと思いたかっただけで、仕事を通して自分が何を貢献したり実現したりしたいのかを全く考えていなかった。変なプライドを捨て、素直に謙虚な気持ちで面接を受ければ、若さとまじめさが評価されて、妥当な能力の一般事務職に落ち着いていたのではないかな、とも思う。
それでも私の勘違いは続くことになった。それは、働きだして数年目を迎える友人たちが女子会で一斉に「仕事を辞めたい。結婚したい。」と言い出したからだ。今にして思うと、彼女たちは王道の生き方を選択した結果、まっとうな女の一生というものにいち早く乗っただけにすぎない。それを私はやっぱり自分の都合の良いように解釈した。
(いくら良いお給料の正社員でも、好きな仕事をしなければ意味がないんだ!)
そんな私を変えるきっかけになった、こんな出来事があった。とあるエネルギー系会社でのこと。
「このデータ、マクロで処理してもらえますか?」
と社員さんに頼まれた。この人は現場の仕事が多いので、オフィス内でもたいてい作業着を着ている。40代の男性だ。
「マクロ…?できません。やり方を教えていただけますか。」
と私は言った。こんな会社(←失礼)で能力発揮のステージが準備されていない状態でも、できないことを教えてもうらう姿勢は大事だと思っていた。
社員さんはものすごく怪訝な顔をして言った。
「あなた事務員さんですよね。事務員のエキスパートとして雇われているんですよね。でもできないって…。だったらいいです。自分でやりますので。」
どうして教えてくれないのだろう、バカにされたと思い、悲しくなり私は家に帰ってちょっと泣いた。
悲しい理由は明白だった。やりたくない仕事だからといって、向上心を捨て、わからなければ教えてもらおうなんて甘すぎるのだ。私の同級生たちも含め、職場ではみんな、やりたい仕事だけをやりたいなんてふざけた夢を語る時間なんかない。みんな、プロフェッショナルの現場で、そこにある以上は誰かがやらなくてはならない仕事に、真摯に向き合っている。
やればその人に信頼と学びがついてくる。この出来事は、私がその成長のチャンスを失ったというだけの話だし、私がそれを乗り越えていかない限りは、おめでたい少女が痛いおばさんになっていくだけという話なのだ。
このようにして20代の私は、少しずついろいろなことを理解していった。
2008年に結婚した私は、その翌年夫が広島に転勤になりそうだという話を受け、思い立って仕事を辞めた。製造業の大手会社で、社員の方々のちょっとしたプレゼン資料などの翻訳をお手伝いするような事務職だった。私にとっては3回目の転職先、残業なし、休みたいときに休め、日々ゆるい翻訳をするだけで月20万円ほどのお給料がもらえるなんて、悪くない話ではないか…と思いきやもちろんいまだ私は納得していなかった。ある意味では、この無職期間、いったん自分の限界を受け入れた時期ともいえるかもしれない。30歳になっていた。
ただ、おそらく結婚の幸福感も後押ししたのだろう、広島で再生できるだろうという思いもあった。広島は外国人の人口も多いし、国際的な街だから、英語の仕事の求人も多くあるのではないかと思った。そういえば私は大器晩成型なのだ。手相にそう書いてある(らしい)。
引っ越しまでの数か月、みっちり英語の勉強をして、英検準1級とTOEIC925点、そして小学校英語指導者資格を取得した。子どもに英語を教えることはあまりピンとこなかったけれど、短期間で比較的簡単にとれる資格なのでとっておいた。
いま、振り返って思うと、要するに私は英語が「趣味」なのかもしれない。趣味でやめておけばよかったのに、変にプライドを持って続けてしまったがために、どうにかしてそれを稼ぎに変えなくては、すべて人生のほかのこともひっくるめて「無駄な経験になるかもしれない」という呪縛となってしまったパターン。もしかしたら私のように、英語をはじめとした語学系だけではなく、ほかのジャンルでも同じ呪縛にとらわれてしまっている人がたくさんいるのかもしれないなと思ったりする。
優しい性格の夫は、そんな私を見ても特に意見することもなく、やりたいことをやってるみたいだしいっか、ぐらいに思ってたのかな。感謝。
TOEICに関しては自分でも信じられないくらい没頭できた。スコアが安定して900点を超えるようになると、リスニングは毎回「満点」だった。良いスコアをとることは、意識の高い社会人になりすますひとつの手段でもあり、自己満足の世界に浸れる慰めでもあった。30歳にもなって学生時代の評価基準で生きているなんて、すごくはずかしいことなのに、私はそれを無理やり向上心と呼んで正当化していた。
だってとにかく今は充電期間。引っ越し先で必ず良いことがあるはずと信じてせっせと勉学に励んだ。
(ちなみに、TOEICの勉強法やテクニックは、また別の機会で詳しく書きたいと思っています。)
そして、2009年、結婚1年目にして、いざ広島へ。
結論から言うと、方向性は間違っていなかった。派遣会社に登録してすぐに仕事のオファーが来た。外国人が従業員の半数以上を占める、公教育や企業の外国語学習事業に関わる企業だ。紹介予定派遣というシステムで、半年後には正社員になれるという話だった。
履歴書の語学関係の資格や、これまでの職歴が、広島支店の管理職の目にふれ、派遣会社の担当者の方にも「ぴったりのお仕事ですね。」と言われた。とんとん拍子に話が進んだ。
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