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ヘルシンキのお婆さんとエストニアについて話す。
僕はヘルシンキのお婆さんにエストニアについてどう思っているのか聞いてみた。
お婆さん「タリンにはソ連からの独立直後よく行ったわよ〜。物価が安いからみんなでこぞって行って両手に抱えきれないほどたくさんの買い物袋を持って帰ったの。」
僕「へえ〜そうなんだ。今もそうなの?」
お婆さん「今はもうほとんど物価は変わらないわよ。往復のフェリー代と労力を考えたら完全に赤字ね。」
僕「ソ連時代のエストニアってどんな感じだったの?」
お婆さん「一言でいうと"depression(憂鬱・暗く沈んだ)"って感じだったわね・・・」
僕「そんなに鬱屈した雰囲気だったの?」
お婆さん「そうよ。とても雰囲気が暗かったわ。」
僕「じゃあ独立できて本当に良かったね。」
お婆さん「そうね。今は経済もずいぶん成長してね。」
お婆さん「今はフェリーでタリンに行ったら、旧市街の隣に摩天楼が見えるんだものね。目覚ましい発展よ。」
末期のソ連の悲惨さを知ると、僕もエストニアはソ連から独立できて本当に良かったと思う。
エストニアが独立したのは1991年のこと。僕が産まれたあとの事だ。とても最近の出来事だ。
もちろんソ連側は独立なんてしてほしくはないので、あの手この手で妨害をしてくる。だからエストニアの人々は様々な手段で独立をアピールした。
最も印象的なのは1989年にラトビア・リトアニアと協働で行われた「バルトの道」だ。エストニアからラトビア・リトアニアにまでの600kmにもわたって、人々は手をつなぎ、人間の鎖を作った。
リトアニアでは1991年の独立間際、ソ連の妨害に合い、一般市民13人が死亡するなどした。
そんな悲劇を乗り越えて、バルト三国はソ連から独立した。その後の経済発展や社会が健全になっていく様を見るとエストニアがソ連から独立して良かったのは明らかだ。

エストニアで見つけたストリートの標識。外れかけのエストニア語の標識の下にソ連時代のロシア語表記の標識が見える。歴史を感じさせる光景だ。
ーーーそして今僕は、そんな悲劇からちょうど25年後のエストニア・フィンランドにいるのだ。
これを感慨深いと言わずしてなんと言おうか。
そして別れの時
4泊5日の長きにわたって僕を滞在させてくれたお婆さんとも今日でお別れだ。少しの間だったけど、僕にはとても長い時間に感じ、去り際は少し寂しかった。
僕「本当にありがとう!」
お婆さん「ありがとう!タリンでも元気に過ごしてね!」
僕はそのままヘルシンキのフェリー乗り場へ直行した。

フェリー乗り場から見た景色

そして帰りも雰囲気ぶち壊しで見送ってくれるこの男。ヘルシンキらしいと言えばらしい。
乗船を待っていると、お婆さんから僕のカウチサーフィンのアカウントに今回の旅のレビューが来た。
お婆さん「” 彼は幅広い文化に興味を持っていて、礼儀正しくマナーの良いゲストでした。なので私にはとてもマッチしました。驚いたのは、彼はたった数日の間に主要な美術館を全て周ったことです。アートやデザイン、軍事博物館に至るまでです。彼の英語力は楽しい会話をするのに十分でした。遅れずきちんと連絡を取ってくれる信頼のおけるカウチサーファーだと思います。"」
初めての好評価が一つ僕のカウチサーフィンのアカウントについた。内心どんな評価が来るかドキドキしていたけど安心したぞ。
そんな訳で、僕の初めてのフィンランド&初めてのカウチサーフィンは無事、良い旅の思い出となって記憶に刻まれることとなった。




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