第1章 留学したい。(当時15歳) ■■★■■ 定員割れ高校で偏差値45以下の私が、17歳の高校1年留学で人生が変わり、10年後にニューヨークでバリバリキャリアウーマンで働いている話。
留学したい。(当時15歳)
早いころから芽生えた気持ち
周りではめずらしく、わたしは5歳から英語を習っていた関係で、
留学は遠い存在じゃぁありませんでした。
子供のころから、海外からホームステイにくる他国の子供たちとよく触れ合ったりして、
12歳では、カナダへホームステイにも行きました。しかもかなり軽い気持ちで!
好きだった英語教室の男の子が行くっていうから(出発日から行先すら違うことになるのをあまり理解しないで)私も行く!ってなりました。ちなみに彼はアメリカに行くことになりました。
(その後、このホームステイ先が、高校生になった私を受け入れてくれることになります。)
ホームステイから帰国と高校留学の夢
私が12歳のホームステイから帰国した夏休みの最後、
ホームステイ報告会では、同じ時期に「高校1年留学」から帰国した、
英語の先生の娘さんも、一緒に留学から帰国した報告をされていました。
とてもキレイな英語で、すごくカッコよかったのを覚えています。
この時から、高校生になったら、行きたければ、海外留学できるのかと思うようになりました。
(実家が、ある程度、裕福だったことに、とても感謝しています。)
中学2年生の修学旅行では、「将来、外国人と結婚する可能性あり」とおみくじに書いてあり、
テンションが上がりました。←単純。笑
留学できないなら自殺したい
15歳のときに、もう17歳になったら、高校留学しようと決めていました。
なぜ早く行きたくなかったかというと、高校生活が楽しすぎたせいです。
高校の友達もそうですが、英語教室を通してであった友達と夏休み、冬休み、週末、、、
いつも何かしていました。私の友達の幅はもう高校を飛び越えて、東京から九州まで繋がりあって、すごいことになっていました。
キャンプのリーダーをしたり、本当にいろいろやりましたが、
時期にこれらの経験がすべて役に立つので、本当によかったと思っています。
高校留学は、お母さんは2秒でOKを出したけど、お父さんは最後まで反対でした。
(ちなみに私が渡米したかったのは、ニューヨークのテロがあった翌年でした。)
最終的に、行かせてくれなければ「自殺」したいと言ったか、思ったのを、
今でも覚えています。
それぐらい行きたかったけど、お父さんはそれぐらい行かせたくなかったんですね。
それでOKが出たのが、12歳に時にいった田舎のホームステイ先です。
酪農家で、のどかな北海道よりも田舎の人口600人程度の町でした。
(というか、私からしたら村でしたが。)
そこなら行ってもいいといわれて、英語の先生にお願いして、
ホームステイしたときと、同じ家庭を希望する手続きを始めました。
高校留学の申請とテスト
留学するためのテストが第三次試験まであったのを覚えています。
筆記、面接、それから英語小説丸暗記朗読、、、みたいな感じです。
このときは私は、「ハメルンの笛吹」の話を英語で覚えました。
これは、この英語教室が出版しているバージョンですが、
私の英語の習い事では、こうゆうお話の丸暗記を5歳ぐらいから始めます。
私は、学校の勉強ができなさすぎて英語が読めない!ので、
16歳になった当時も、5歳のころから変わらない方法で、
ひたすらCDで耳から聞いて、英語を暗記しました。
しかも、本一冊すべてです。(よく考えたら普通じゃないですが、私には普通でした。)
結果は、C判定。
受け入れ先のカナダの公立高校の校長先生がOKと言えば行けますという
手紙が届きました。
うれしかったです。
私の運命の道が開けたようでした。
この頃の私は、もう日本の教育について疑問ばかりでした。
勉強ができないというだけで、「たいした人間」じゃないみたいな見方が、どうしても嫌だった。
わたしは絶対に、成功してビックになる人間だとひそかに信じていましたので(笑)
ただ、間違えて日本に生まれちゃったから、他国に行けばいいだけだわ~ほほほ~
とかって、思ってました。
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