日本人男性には全くウケない透明人間だった私が自分を売るマーケットを変えて国外で婚活をしたところあっさりと婚約に至った話
思えば独身の時の私はいつでも崖っぷちという感じでした。
子供の頃から自殺を企てたり、家族と縁を切ったり
都会で貧乏したり、定職を持たずフリーターでいたり。
でも、25歳のジャンプで海外に出る機会を得て
英語を話し、いろんな国で働くこともできるようになりました。
しかし日本社会でまともに働けなかったことが私の自信の壁になり
それで新たなるチャレンジとして
30歳になる年にもう一度日本社会への復帰を試みました。
どんなに辛いことがあっても最低1年は同じ会社で働く、と
自分自身に約束をして。
英語ができたことが幸いして、見知らぬ土地の2週間の就活で
一番先に返事をくれたところに職を決めました。
条件は悪くありませんでしたが、生活はカツカツでした。
それこそ1年目は泣きながら仕事をしていたようなものですが
それでも2年目になると少し余裕も出てきたのです。
男にとっては透明人間な私
海外に住んでいたという経験で日本人男性から敬遠されたのか
それとも私自身の魅力のなさだったのかともかく
日本に住んでいた3年間、恋人ができることはありませんでした。
自分が彼らから女性として見てもらっていないというのは
露骨にわかりました。
今でこそ30代なんてまだ若いと思えますが
当時は30過ぎは会社ではもう「おばさん」と呼ばれてました。
最初、一瞬誰のことを呼んでいるのかわからなくて
キョロキョロしてしまいましたよね。
すごくショックでした。
ならば日本に滞在している外国人ならばとアタックしてみるものの
日本に来ている外国人男性は
やはり日本人らしく可愛らしい若い女性を選ぶのでした。
ならばマーケットを変えよう!
それで日本社会で全く自分を売ることができないのなら
マーケットを変えるしかない、そう思ったのです。
今振り返っても、これはベストなひらめきでした。
スペインに3ヶ月住んで苦労した経験があるので
英語圏以外の場所に定住するつもりはなく
理想としたらアメリカ西海岸が妥当だと思ってはいました。
というのも当時
それも、家の中で飼いたい!
というビジョンがあったからなのです。
そうなると日本でそれをするのはハードルが高い
というのも わかっていました。
そして、私は英字新聞にアドを載せることにしたのです。
当時は今現在のような出会い系サイトも
もちろん電子メールもありませんでした。
そしてそこから『ペンパル募集』の雑誌に繋がり
海外に住む男性100人以上からの手書きの手紙が
どこどこ届くようになったのです。
たまたま私は外資系の就活に使えるビジネス系のプロファイルを
プロのカメラマンに撮ってもらっていてそれを使用したのですが
それが海外ではウケたようでした。
自分が選んだ男性
ハワイや西海岸から多く手紙をもらい
まさしく私が『選ぶ側』になっていました。
私がハワイにお見合いに行ったり
何人かは私に会いに日本にやってきたりしました。
そのうちに私はサウジアラビアの石油会社の広報部で働く
アメリカ人男性が気になりました。
彼の手書きの手紙と写真にとてつもない頭の良さを感じたのです。
そして、1年間の海外放浪の時に中近東に長く滞在した私は
まだ知らぬサウジという国に強く惹かれました。
彼は行動的で次の休暇では日本に会いに来てくれて
どこかお互いの陰に強く惹かれ遠距離が辛くなり
2度目のデートで即婚約をしました。

もともとはLA出身のアメリカ人の彼でもあり
将来はそちらに住むことにして
数年は彼は外国人が多く住むバーレーンから
サウジの会社に通うと言うのです。
お互いの将来は割とすんなり描くことができました。
3度目の彼の来日には私の親に会ってもらうつもりで
遠距離をしていましたが
その前になんと私の父親が急死したのです。
私は父親っ子だったので
ショックですぐにサウジに行く気になれず
婚約者に結婚を1年延期したいと願いいれました。
が、そこでなんと彼は心の支えどころか
私が家族と関係を復活させたことに嫉妬をし
拗ねた態度をとったのです。
それで急速に冷めた私はあっさり婚約を破棄
会社にも寿退社を届け出ていた後だったので
とても恥ずかしかったのですが、やむをえないことでした。
やはりこれは運命?
実は父親がなくなる3週間前に私は彼が死ぬ予知夢を見ていました。
夜中に悲しさのあまり母親に電話してしまったくらいでしたが
その3週間後に夢で見た光景が目の前に存在することが
信じられなく、本当に気がふれてしまいそうでした。
そして婚約者の豹変した態度に驚くも
もしかしたら、父が私に間違いを起こさないようにと
彼の本質を知るようにタイミング良く救ってくれたのかな
とかいろいろ考えていました。
それでも一時ではあっても婚約するくらい好きになった相手です。
自分にも落ち度はあったかもしれない
これはカルチャーの違いのすれ違いかもしれない
そう思い悩む中、私は手紙を頂いた中のもう一人の男性と
連絡を取り合い相談するようになりました。
最初から気になる人ではあったのですが
年が17歳離れているので、結婚の対象とは見ていなかったのです。
その彼も、恐ろしく頭の良い人でありました。
そして、この喪失感の中ですっかり弱っていた私は
彼をメンター(賢者)として頼るのですが
その彼こそ、それから20年連れ添うことになる夫となる人でした。

と彼に言われた時には即それに乗ってしまい
結局は居着いてしまうことになるのです。
ドラマはまだここから続くのですけれど
この後はしばらくめちゃくちゃ可愛がられ
私の生活は『プリティーウーマン』のごとくでした。
が、サバイバルする必要のない緊張が緩んだ時
母に対する怒りが爆発して
私は鬱に突入してしまうのでした。
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