子連れでオーストラリアに留学してみた~小学校編~
小学校は学区制ではない。自分で下見をして選ぶことになる。
最初に電話したのは家から一番近いと思われるM小学校。
見学の日程とかうまくあわず、つぎに大学近くのK小学校に問い合わせ。
とんとんと見学日も決まり早速行ってみる。
なんだかいろいろ面倒見てくれるおばちゃんがいて、はじめ用務員さんだとおもっていたら、
じつは校長先生だとわかり、、。しかしオーストラリアは大学の教授さえもファーストネームで呼ぶ、ってくらいフレンドリーなので、その後も校長先生はとても校長先生っぽくなかった(のちによく児童を叱るこわ~い校長先生であることが発覚)
で、
ここに決定!
上の子は「1,2-S」というクラスに入ることになった。オーストラリアに多いのが複合学級。つまり上の子は2年生なんだけど、1年2年の複合クラスでS先生のクラスに入ることに。S先生は私と同じ大学の大学院を首席で卒業し、この学校に採用されたインド出身の女の先生。先生のお子さんもこの学校の5年生として通っていた。この先生のおかげで上の子はめきめきと英単語を覚えることができた。「名前をかろうじてローマ字で書けるだけ」という英語の準備ゼロから2年でどのくらい英語を話したり読めたり書いたりできるようになるのか。やはり遊んでいるだけでは読めたり書いたりはできない。先生のおかげで「マジック100words」をとりあえずマスターし、おかげで簡単な絵本を自分で読めるようになり、帰国直前に入っていた4,5-Mクラス(4,5年複合クラスですね)では結構分厚い本を読めるようになっていた。このクラスのM先生は男の先生でかなりバリバリネイティブのため結構な速さで話をしていた。二者面談(1年に2度あった)のときなんて、私はかなり神経集中して聞かないと???となっていたくらいだ。しかし子供の能力はすごい!と感じたのは、授業参観で指名されて答えるわが子を見たとき。
「なんて聞かれ、なんて答えたんだ?」
一瞬の出来事でよくわからなかったが、算数の時間だったのでなにか数字で答えていて、「正解!」みたいに言われていたと記憶している(私が見に行っているのを知って、先生が指名してくれたんだとおもう~)。
「うちの子、天才か!」
と思っていたが、帰国してしばらくたって
「オーストラリアの授業まったくわからなかったんだよね~」
と告白された。。
それは大変だったね、、、、、、、。授業参観ではそうは見えなかったけど、算数とかチョー簡単な感じだったしね。。国・数は習熟度別になっていたようで、数学は4,5,6年まとめての上のほうのクラスに入っていたにもかかわらず、すごい簡単なことをやっていたと記憶している。。だからすらすら答えられていただけなのね。。日本に戻ってきたらあまりのレベルの高さについていけてなかったし。。
下の子はプレップクラスに途中入学。日本では保育園の年長クラスにいたのだが、オーストラリアでは1学年の一歳下のクラスから小学生となるため、K小学校のプレップ生になった。担任はネイティブの女性教師だったが、間もなく産休育休にはいてしまったため、すぐにカナダ人の女性教師が担任となった。この先生は鼻にピアスをしていたが、特に問題なくといったら失礼な感じですが、お世話になった先生の一人だ。韓国で英語を教えたこともあるのよ~とか話していて、オーストラリアの教師もやってみようと思って~と話していた。最初の2週間は毎朝ギャン泣きしていたが、先生に引っ張られて教室に入っていき、帰りはけっろっとしているというパターンが繰り返された。とりあえずみんなと一緒のことをしていた、といったところか。みんなが絵を描けば絵を描く、ランチ食べていれば食べてみる、外に行ったら外に行く、踊ったら踊る。。そうするうちに友達もできて楽しそうだった。
下の子は日本に戻ってきたとき2年生の途中で、オーストラリアと違って日本ではシューズに履き替えたり、自分のロッカーが決まっていたり、掃除をしたり、歯磨きしたり、集会のときに一ミリ動いただけで注意されたり、、することに驚いたはずだ。つまりオーストラリアはそれらすべてがないわけで、子供だけでなく親も楽ちんだった。3週間に一回くらいまわってくる給食着の洗濯とアイロンがけがない、毎週末のシューズ洗いがない、体操着の洗濯もない(制服が体操着みたいになっていて学校で着替えたりはなかった)、清潔検査がないからハンカチもった?の声掛けしなくてよし、爪を毎週1回必ず切らなくても大丈夫、身体測定がなく内科検診もなく歯科検診も視力検査もないので、お便りがきて「あ~、病院行かなくちゃ、、」ってのがない。つまり!すべて親の責任。学校は勉強をするところ、と割り切っている感じが、ある意味うらやましい。。。先生たちは朝は結構早く来て準備をしていたが(といっても八時ちょいまえくらい)、9時まで児童は校舎内に入れないので実質9時から3時半までの6時間半子供たちの面倒を見ることになる。先生のなかには3時半すぐに帰宅している人もいた。4時にもなればほとんど先生たちは帰っていた。。小学校だけのはなしで中学校とかの先生は受験の準備とか大変だ~と、向こうで中学の先生をやっている日本人から聞いたことはある。それでも長期休暇中はまったく出勤はしない。だからまるまる2週間日本に帰国したりしている、らしい。日本で教員やっている私からみたら、本当にうらやましい話だ。
しかし、とうの本人たちは(全員ではないだろうが)給料や待遇面でもっとよくしてほしいと思っているらしく、向こうにいた2年間のあいだで2回ほど「ストライキ」の日があった。ビクトリア州は一つの教員組合?があるらしく、その日はみんながMCG(大きなクリケットの試合会場)に集まって集会をしていた。平日のため、「学校にはお子さんを来させないでください。先生たちはストライキです。どうしてもって場合はとりあえず来てもいいけど授業はないよ」てきな文書が配布されていた。そういう場合、組合に入っていない先生方が学校に勤務して面倒をみることになるらしく、DVDとか見せていたようだ。
子供たちは現地の小学校に通わせる、と決めていたが(日本人学校は遠すぎて所詮無理だったのだが)、ここでの出会いも一生ものになった。もうコンタクトをとっている人は少ないけど、ママ友もたくさんできた。キャンティーン(購買部があり、ホットドッグとか作って売る)でお手伝いもできた。たくさんの校内外行事にでることができた。ボランティアで日本語や日本文化を教えることもできた。ここには書ききれない出会いがたくさんあった。私が予想していた以上の学びがたくさんあった。
学校の校庭に「創立50周年記念」でレンガのプレートを埋めた。いつの日か子供たちが見に行ってくれるだろうか。そしてそこで学んでいたんだってことを思い出してくれたらいいな。忘れちゃっていることもたくさんあるだろうけど、あの場所にいたんだっってことをしっかり刻んだプレートをまた見る日はいつだろう。
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