すべてのコーヒーにストーリーがある ④ ~プロファイル~
夫がダイニングテーブルに座ってコーヒー豆を挽いている。彼お気に入りの手挽きミルだ。ゆっくりゆっくりできるだけ豆の繊維を壊さないように。夫はいつもそう言っている。
私はそんな夫の背中をキッチンから眺めている。
今日は結婚記念日だ。25周年、いわゆる銀婚式というやつ。
夫は仕事人間なので、こんな記念日にうまく休みがとれることは非常に珍しい。無理を言って休みをもらったのか、それともたまたま今日が休みだったのか。夫の性格からすると後者だろうけど。
それなのに、夫は朝から私に背を向けたままミルの清掃を念入りにして、コーヒー豆をチェック(形の悪い豆があったら取り除いたりする)したりして、いま豆を挽いている。
もうすぐ記念のランチに行く時間なのに。その予定すら覚えていないんじゃないかと心配になってくる。
53歳にもなって夫とのデート(と呼ぶのも恥ずかしいぐらいだ)でこんなにそわそわしている私も私だが、せっかくいい店の予約を取ったのだからいい気分で食事がしたいとは思わないのだろうか。
「ねえ、あなた。そろそろお店行く時間よ」と耐えきれずに私が言うと、夫はああ、と振り向きもせずにうなずく。
そして時計を見て「もうこんな時間か」と言った。
彼はコーヒーのことになるといつもこうだ。昔から喫茶店に通ったり、家でもこうして自分で挽いた豆を飲んではいたけど、最近になってまたブームが来たようだ。
なにやらシングルオリジンとか言っていつもいろいろとうんちくを語っているけどほとんど頭に入っていない。「ワインみたいね」とたまに私が調子を合わせると、まさにそうなんだ、コーヒーも豆によって品種が云々、という具合に講釈が始まるので、最近はなるべく相づちを打つだけにしている。
「さあ、行こう」
そう言うと、夫はさっさと支度をすまして玄関の方へ出て行ってしまった。こっちは今日のために準備して置いた服も着ていないのに。
慌てて私が着替えて玄関につくと、夫はもうドアノブに手をかけている。
「ねえ、ちょっと靴箱の上の段見てくれない? この服にぴったりの赤い靴があるはずなんだけど」と私は言った。
「なんだ。靴なんかなんでもいいじゃないか」とぶつぶつ言いながら靴箱を開ける。夫は何だかんだ言いながら嫌とは決して言わない。
「ほら、あったぞ。年甲斐もない赤い靴」と言って靴を取り出してぞんざいな態度で三和土に置く。
「女は足下が老けると終わりなの」などと言いつつ、私が靴を履き終えた頃にはもう夫は玄関を出ていた。
夫は歩くのが早いので道中もずっと彼の後ろ姿ばかり見て歩いていた。そういえばだいぶ背中が丸くなってきたかもしれない。私は夫の肉体的な衰えを垣間見て少しさびしい気分のまま店に着いた。
私たちはフランス料理のランチコースを食べた。でもなぜかデザートは出てこない。そのことを私が夫に告げると、「ああ、デザートは持って帰ることになってる」と言った。予約を夫に任せた私が悪かったのだろうが、デザートを持って帰るなんて少し恥ずかしい。それに夫は知らないかもしれないけど、私はこの店のデザートで出てくるバニラ風味のプリンが大好物なのだ。そのためにこの店にしてもらったと言ってもいいぐらいだ。私は溜め息をついて席を立った。
食事を終えるとどこにも寄り道をせず、まっすぐ家に帰った。私としてはせっかくだから一緒に買い物でもと思ったけど、そんなことを言うとまた「年甲斐もない」などと言って切り捨てられるのがオチなので言わないでおいた。
夫も久しぶりの一日オフだ。ゆっくりしたいのかもしれない。
家に着くと、夫はすぐにキッチンへ行ってお湯を沸かし始めた。
「コーヒー淹れるの? 私やろうか?」と私は言った。
「いいよ。さっき挽いた豆があるから。座って待っててくれ、持っていくから」と言って夫はコーヒーの器具をセットし始めた。
夫が使うのは金属のフィルターがついたドリッパーだ。ペーパーフィルターは紙のにおいがするし、コーヒーがサラサラになる、と言っていたが正直私にはよくわからない。
しばらくすると夫はさっきの店で持ち帰ったデザートの箱と自分用には大きなマグカップと、私用に始めてみる銀色のメッキで縁取ったきれいなコーヒーカップに入れたコーヒーを持って来た。
「きれいな器。これ、あなたが買ったの?」
「当たり前だろう。他に誰が買うんだよ」
夫は照れ笑いして私の横に座った。
かわいいとこもあるんだなと思いながら私は夫が淹れてくれたコーヒーを口に運ぶ。でもその前に鼻先にふわっと香りが漂う。
「バニラの香り」と私は言う。
夫はうれしそうに微笑んで自分も一口飲んで、これで納得という顔を浮かべて言う。
「ニカラグアのリモンシリョ農園の豆だ。このコーヒーのフレーバープロファイルはバニラやジャスミンの香りと赤ワインのようにとろっとした質感が特徴なんだ。うまいだろ」
「ええ。とっても」
「先に食べられたらわからなくなると思ってな」と言って夫はデザートの箱を開ける。
そこには例のバニラ風味のプリンが二つ入っていた。
「あなた、私がこのプリン好きなの知ってたの?」と私が言う。
「このプリンっていうかお前は昔からバニラ味のものには目がないじゃないか」と言って夫は笑った。
私はスプーンでプリンを一口食べる。やっぱりおいしい。それからコーヒーを一口。
私が目を見開いているのをみて夫は笑う。
「一緒に食べると、よりバニラが際だつだろう」
彼の笑ったときにできる目尻のしわが、横から見ると思ったより深くなっているのに気づく。彼の横顔を見たのはいつぶりだろうか。頬が少しこけてきたせいか、頬骨が強調されている。おでこも少し広くなったかもしれない。でもしわでくしゃっとなるからか、いつも眉間に寄せていたしわが隠れて昔よりも顔つきが穏やかになった気もする。
「たまには横から見てみないとだめね」と私はつぶやく。
すると夫はなぜか嬉しそうな顔をして「そうだよ。それが大事なんだ。プロファイルって言うのは横顔っていう意味だろ。だからコーヒーを客観視するっていうのが大事なんだよ。おいしいとかいう抽象的な表現では・・・」とまた講釈が始まる。
私は耳を傾けずに適当に相づちを打つ。
やがて私に興味がないとわかると、夫はひとつ咳払いをする。そして「まあ、なんだ。これからもひとつ頼むよ」と言ってコーヒーを一口飲んだ。
「もう冷めてるんじゃないの?」と私が言うと夫はしたり顔をしてまた言い出す。
「わかってないな、お前は。おいしいコーヒーというのはだな、冷めてもおいしいんだ。むしろ通になるとその温度変化を楽しんだりして・・・」
やれやれ、これはもうちょっと付き合ってやらなきゃいかんのかなと思いながら私はうんうん、と相づちを打ち続けた。
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