HAYATONY物語9

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何とか高校3年生になり就職するか進学するかとみんなが考える時期が来た。

父は宝石デザイン関係の東京のヒコミズノ宝石専門学校や山梨の甲府に宝飾の専門学校の資料を取り寄せ家業を継いでもらいたかったみたいだ。

カツオ船の船乗りだった父はその後、独学で学び船の機関士の免許を取得し神戸の港内で船のエンジンの整備士として働いていた。

そこにスエズ運河(エジプト)への転勤辞令が出たが母子家庭で育った父は田舎で暮らす、お婆ちゃんを置いて外国へはいけないと思い、会社の辞令を蹴って退社し地元の伊勢志摩に僕が中学3年生の時に戻り、何やら家の敷地内で何かやりだしたなと思ったら半円マベ真珠の加工の仕事を学び試行錯誤を繰り返しながら真珠の仕事を始めた。

脱サラし今まで貯めて来た資金を元手に真珠の事業を始めたのである。

仕事が軌道に少し乗り出すと母親も工場を辞めて父の仕事を手伝う様になった。

僕が高校3年制になり進学の話をする時には好景気にも支えられて僕を跡継ぎにしたいと考えていたようだ。

それで宝石関係の学校に進学して欲しくて資料を取り寄せて僕に進めていた。

今だから思うがもしも家族で外国に転勤で行っていたら、その後の僕の人生は大きく変わっていたことは間違いない。

人生とは選択の連続だ。

まずは親の選択が家族全体の運命をも決めて行くものだと人生の不思議な一面を今なら理解できる。

しかし僕はどうしても東京に行きたかった。

そしてシンガーソングライターになり音楽でアーティストとして成功する事を夢見ていた。

そこで東京に行く口実を作る為に東京の東放学園というメディア関係の専門学校の音響技術課に進みたいと両親に相談し夏休みを利用して学校見学に行くことにした。

僕の同級生のお兄さんが東京の専修大学の大学生だったのでそこに泊めてもらえる事になった。

そこでの滞在期間に僕はそのお兄さんからとんでもない東京の素晴らしい大学生のライフスタイルついてたくさんの事を聞く事が出来た。

帰郷後、東京へ行くための口実に専門学校へ進学を考えていたが友達のお兄さんの影響で僕も東京の大学に行きたいと考えるようになり、進路指導の先生に「僕は東京の青山学院の大学に行きたいです」と相談した。

なぜ青山学院が良いかと言うとまず大学の持つ洗練されたブランド力、綺麗な女子が多い青山短大もあり、音楽活動もサークルと呼ぶ活動でみんな好きな事が出来、サザンオールスターズも青学の音楽サークルから学生で「勝手にシンドバット」で衝撃的にデビューしたこともあり、夜間部から入試すれば成績の悪い僕でも頑張れば入れると考えたからだ。

なんとも動機が不純であるが東京での大学生の生活が僕には輝いて見えた。

もちろん夏休み以後、今までさぼっていた勉強を真剣に取り組まないとテストには受からない事は僕にでも簡単に理解出来ていたし頑張って勉強をこれからしようと言う気になったのだが。。

先生はあっけに取られて僕を諭した。

「田野上、お前、今の成績は13教科中11教科赤点だぞ。それをわかってそんなことを言っているのか?」と聞かれ〝はい″と答えたら無理だから諦めろと言われた。

ひどいことを言う進路指導の先生だとがっかりした。

水産高校は、基本漁業に従事する専門高校なので地元では頭がいいと呼ばれる普通科でも大学に進学する生徒は少なく先生も進学より就職率をあげる事が一番の関心事だ。

今だから言えるが進学校の先生と比べると水産高校の先生たちは見識も低いので生徒に対しての指導力も低いのだと大人になってから思う。

進学校で働く先生はやはり優秀な大学の教育学部出身者の先生達が多い田舎の水産高校にはそんな先生はいなかった。

どうしてやる気になった生徒を後押しする事ぐらい出来ないのだろうと今さら考える。

浪人覚悟で必死に勉強する覚悟があるのだったらとかいろんな人生の選択の道がある事を教えてくれればいいが田舎の先生には浪人や予備校に通うと言う考え方自体がないみたいだ。

進学よりも就職率を優先している高校なのでほとんどの生徒は進学しないし志摩は日本では有名な真珠の養殖産地でもあり真珠関連の家業の子供が多く、漁師も多いので家の仕事を継ぐか、親に金銭的な負担をかける進学などせず優良企業に早く就職する事が親孝行な子供だと田舎では大部分の大人達がそのように考えていた。

もしも僕が東京出身者だったら映画のビリギャルじゃないけど全く成績が悪い高校生の少女を現役で慶応大学に入学させるような優秀な予備校の先生も東京にはたくさんいる。

東京の高校生であれば大学がどんなところかも知っている。

生まれ育った地域によって世の中の仕組みは大きく違っている事が今の僕には解るが高校生ぐらいまでは自分の人生の選択はほぼ両親と親戚や先生の見識とその地域で暮らす人達の考え方でほぼ決められている。

僕は大学とは高校の延長みたいに退屈な勉強するところだと田舎高校生の僕は考えていたのでこれ以上つまらない勉強などしたくはないと思い、大学には進学するつもりはまったくなかった。

高校時代は学校の環境の悪さも相まって全く勉強をせず、作詞作曲の楽曲制作とライブと音楽三昧だった為、高校の成績はクラスで後ろから数えた方が早かった。

両親も二人とも中卒なので大学の事など考えてもいなかったみたいだ。

それよりも家業の真珠屋を継がせたいと考えていた。

東京に学校見学に行った夏休み以降、高校生の僕は自分の今後の少ない選択技からやはり東京で音楽活動しアーティストとして大成する事を心に決めて、まずは両親が納得する東京に行くための口実を考えた。

両親を一番に説得する為には「僕は音楽をやる為に東京へ行きたい」ではまず両親は理解してくれないと考え、万が一ミュージシャンになれなくても音楽関係の仕事につきたいと考えた。

そのことを両親に話したが初めは猛烈に反対された。

僕の音楽への夢も話したが音楽で食べていける才能のある人は一握りの人間だけだから自分の才能を考えもっと他の子供達と同じように自分のやりたいことがあっても堅実な道を選ぶよう諭された。

僕の東京行の夢が消えかけてしょげていたところ、ホワイトナイトが僕に現れた。

親戚の新聞専売所の南海堂のおじさんに相談したらそのおじさんが僕の味方をしてくれ、僕の両親を説得してくれた。

僕は以前にも話したが小学生の時に小遣いが少ないことが嫌で子供でも出来る仕事は無いかと考え新聞配達を考え地元の専売所に雇ってもらえるように自分で行った事があった。

その時、母はその専売所の社長から僕について注意を受けたが母は親戚に隣町で新聞専売所を営む南海堂に中学になったら新聞配達として雇ってもらえるように頼んでくれたのである。

そして僕は中学から高校卒業するまでの6年間、雨の日も風の日も嵐の時も寒い日も暑い日も休まず辞めず高校を卒業するまでやり遂げたのである。

そのことを南海堂のおじさんは僕をたたえ、「勇人の根性があればきっとやり遂げるからこの子を東京の学校に行かせてはあげてくれ」と僕の両親を説得してくれたのである。

新聞配達を続けながら学校に進むと入学金や授業料を新聞専所か新聞社が出してくれる奨学金制度もあると即されたが、さすがにこれ以上は夏休みも春休みも正月休みもない新聞配達を東京に行ってまで毎日働く気持ちはなかった。

もしもその道に進んでいたら僕の青春はきっとかなり違った物になっていただろう。

僕の両親もようやく諦めたのかしぶしぶ僕の進路を認めてくれるようになり最終的に夏休みに見学に行った東放学園の音響技術課に推薦入学でテストなしで入学が決まった。

11教科も赤点がある高校生の僕には面接だけで入れる推薦入学とは不思議な制度であった。

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