HAYATONY物語10

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晴れて東京で東放学園の音響技術課に入学し、アパートも徒歩で行ける京王線の代田橋駅に

2K風呂なし物件を借りて僕の初めての一人暮らし生活が東京でスタートした。

私立大学並みの入学金、学費、アパート代は両親に出してもらったが生活費はバイトで

働き稼ぐ事が親からの条件だった。

まずは東京での生活費を稼ぐためにバイトを探した。そして将来ミュージシャンとしてデビュー出来るように考え音楽関係のバイトを探した。

その当時、学生援護会から発行されているアルバイトニュースと言う

バイト探しの求人広告誌があり、そこの中から新規オープン六本木に平尾昌晃プロディ―ス。

ミュージックライブパブ「スパッツ」DJ,ミキサー照明及びホールスタッフ募集との広告が目に留まり面接に行った。

面接は無事合格しオープニングメンバーとして東京で初めてのバイトが「スパッツ」で始まった。

このお店のメンバーは芸能界を目指す若いスタッフが多く応募200名以上の中からイケメン20名が選ばれた(ちょっとした自慢みたいで申し訳ない笑)。

スパッツは六本木の夜の世界を牛耳るNOVA21グループ傘下のお店だった。

オープン初日には平尾昌晃から1万円のTIPがスタッフ全員に配られた。

とても紳士でカッコ良かった。

平尾昌晃と言えばあの有名な楽曲に畑中洋子とのデュェットソング「カナダからの手紙」が大ヒットした大物音楽プロディ―サーでもある。

平尾昌晃プロデュースと言う事もありマスコミからオープン前にたくさん取材を受け

オープン初日から若い女性客が芸能人の卵のスタッフや新人アーティストライブを目当てに毎日盛況だった。

ジャニーズ事務所からスカウトされて芸能界に入りアイドルを目指した者や、役者志望の卵もたくさんいた。

本当にイケメン揃いのみんな芸能界を目指しているスタッフばかりだった。みんな大きな夢を持って東京に全国から人が集まってきているのだと僕も刺激をたくさん受けた

毎晩の様に今まではTVの画面でしか見たことがない芸能人も連日来店されていた。

夜空の美しい静かな夜しか知らない田舎の少年は東京に来てから夜がこんなに騒々しくキラキラしている場所がある事に驚き人生が衝撃の連続であった。

僕がその当時、仲良くしていた新人アーティストの中には中村あゆみちゃんもいた。

あの「翼の折れたエンジェル」で大ブレークした中村あゆみだ。

平尾昌晃の音楽教室の生徒であったあゆみちゃんは毎晩デビュー前、スパッツのステージで歌っていた。あのハスキー歌声は今でも耳に残ったままだ。

この時のスパッツ主任が成田勝だ。成田はスパッツ主任後バブルの黄金時代の象徴「マハラジャ」の支配人になった。

平尾昌晃プロデュースで「IN TO THE NIGHT」でデビューも果たしバブル期の夜のスーパースターにのし上がっていった。

当時成田は26歳であった。スパッツ時代から成田勝の女性からのモテップリは半端じゃなかった。毎晩毎晩、彼を目当てにバブルなお嬢様が殺到していた。

本当に華やかな夜の世界が東京にはある。

芸能人もいる。文化陣もいる。経済人もいる。

日本を牛耳る人達や一晩で何十万も使う人もゴロゴロいる。高級車も当たり前の様にゴロゴロ走っている。

それが東京の六本木と言う街だ。

かくして僕の人生の第二の故郷は六本木になった。

いつの日かこの街で成功し東京の中心地に住むことが僕の夢の一つにもなった。

そして十数年後、西麻布に家を買い子供たちもほぼ東京の麻布生まれ麻布育ちだ。

麻布は学校環境もいいし地域住人達も各業界の一角の人達が沢山住んでいる。

麻布の学校は公立といってもその内容は私立に近い。

各学年は2クラスか3クラス生徒数は一クラス30人に満たない。

公立は言わずと知れた中学まではそのエリアに住む子供しか通うことができない。

日本でも有数の高級住宅地として地価の高いエリアなのでそこに住める住人は限られてくるのである。

親が住所を借りて住民票をとり越境させて入学させる父兄もいるくらい人気が高い。

麻布に住める住人は親も高学歴で社会的にも成功者の御子息が多い。

学校の先生も私立並みにかなり優秀な人材を採用してるように思える

周りは大使館だらけで警察官が24時間街を警備してくれている。

防犯面でも日本でも有数の住宅エリアの一つだ

麻布の自慢話になったがだが本当に素晴らしいエリアに今、自分や子供たちが住める事は僕の幼少期の経験がそのようにさせている事は間違いない。

その後の話を続けよう。

僕のバイトの時間は夕方6時PMから翌朝5時までのバイトだ。

学校もある為、週4日ぐらいのシフトで生活費を稼ぐのと学校の授業、そして将来ミュージシャンとしてデビュー出来るように道を探していた。

学校の授業は退屈で勉強にもついて行けず夜勤明けで学校も休みがちになった。

南海堂(志摩の新聞販売所)のおじさんから親戚にミュージシャンで西岡恭蔵さんが

東京にいるから彼を訪ねなさいと紹介されていた。

僕はそれまで知らなかったが西岡恭蔵と言えばフォークソング全盛の時代、フォークの神様と

呼ばれた岡林信康と並ぶフォークシンガーとして名を関西で成していた方で「ぷかぷか」と

言う代表作品もある。

それにだ!なんと僕が東京に行った頃にはあの矢沢永吉の楽曲の作詞をほぼ恭蔵さんが書いていたのである。

僕は昇天した。

僕らにとっての神的な存在の矢沢永吉の曲の詩を恭蔵さんが手がけていたのである。

そんな人が親戚にいたなんて知る由もなかったが恭蔵さんに会える事が楽しみであった。。

なんと僕は幸せ者で幸運なのだと思った。

会ったら弟子にしてもらおうと考えていた。

そして恭三さんに会える時が遂に来た。

恭蔵さんは僕に話しかけてくれた。

「南海堂のおじさんから聞いているけど勇人君はレコーディングミキサーを目指しているんだって?」と開口一番に尋ねられ「はいそうです」と南海堂のおじさんに紹介された手前そう言わざるをえなかった。

本当はあの時に僕はシンガーソングライターを目指しています。

恭蔵さんに言えたなら今の僕の人生は変わっていたのかもしれない。

僕の人生で一番後悔しているとしたらこの時の一瞬だ。

なんで本当の事を言えなかったのだろう?

なぜ恭蔵さんに弟子にしてくださいと言わなかったのだろう?

と今も後悔している。

人生はいつも日常の生活の何気ないところで自分自身が選択した道に向かって進んで行く。

人生後悔しない為には自分の心にウソをついてはダメだと今になって思う。

その後、恭蔵さんは僕をビクターの持つ青山レコーディングスタジオに連れて行ってくれた。

このスタジオは日本では最高峰の音楽レコーディングスタジオとして有名なスタジオであった。

スタジオに到着するとすぐにある派手目なサングラスをかけた女性が恭三さんに話しかけてきた.「あら恭ちゃん。久しぶり元気」甘ったるい話し方である。

なんとその人はその当時、トップスターで時の人「アンルイス」だった

僕は感動し焦った。

目の前にあのアンルイスがいて恭蔵さんは何やら親しげに話していた。

恭蔵さんはあらためて音楽業界で凄い人なのだと理解した。

その後、青山スタジオのチーフレコーディングエンジニアの方に時間をいただきどのようにすればレコーディングエンジニアになれるのか話を伺った。

青山スタジオには18人弟子入り希望者が順番待ちでいてすぐに入るのは無理だといわれたのを記憶している。

次に向かった所は赤坂にある北島音楽出版が運営するスタジオだった。

そう名前にある様にあの演歌歌手の北島三郎が所有するスタジオだ。

このスタジオは主に音楽デモテープやラジオ番組の収録、や映画のなどの音声全般を編集するスタジオであった。

このスタジオのエンジニアさんたちと話が出来て給料はでないけどでいつでもスタジオのお手伝いをしながら勉強させてもらえる事に話が進んだ。

嬉しかったが半面どんどん僕の本当にしたいシンガーソングライターの方向とは違った方向に僕の人生は走りだした。

東京に来て親から半分自立しての第2幕とも言える僕の人生は始まったのである。

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