空だって飛べるよ ~2.実家の子供部屋には父が刺した包丁の跡が今も残っている~

前話: 空だって飛べるよ 〜1.パンの耳を食べて過ごした幼少期〜
次話: 空だって飛べるよ 〜3.カルト宗教〜

私が生まれてから今に至るまで貧困生活にいたというお話は前の章で話した通りだ。「お金が無くても愛があれば」と思われるだろうか?残念ながらそんな綺麗事では片付かない状況に私たち親子は晒されていた。父の暴力だ。



殴る、蹴るは毎日の事。「頭に衝撃が加わると1回で物凄い数の脳細胞が死ぬ」と言うが、であれば私の脳細胞は全て死滅しているだろう。そう思う位1日に何度もゲンコツで殴られた。父が醤油を取ろうと手を伸ばしたり、自分の髪を触ろうと手を上げただけで「殴られる!」っとガクっ!と震える位殴られ慣れていた。



あれだけ怒られてきたのだが、ただの1つもその理由を覚えていない。つまり、何で怒られているかも分からないまま殴られていたのだ。自分で言うのもなんだが私は優等生で怒られるような事はしていなかった。


言われなくても宿題をやり、手伝いをし、親や先生の言う事を守っていた。



小学校に行く前に茶碗洗い、3つの部屋と台所の掃除機と拭き掃除をしないと家を出れなかった。私と弟は毎日「遅刻する」と泣きながら学校まで走っていた。



小学校3年生の時に1番下の弟が生まれた。母は夜中に皿洗いのバイトに出ていたので目を覚まして「お母さん」と泣く弟を抱き、窓のところで「あ、帰ってきた!」、「あ、声がした」、「うーん違ったねー」と時間を稼いで母の帰りを待っていた。弟のオムツからお世話までほとんど私が面倒見ていたと言っても過言ではない。



小学校3年生の時に洗濯物を畳んでいたら突然父が怒鳴り込んできて蹴り上げられた。右スネが硬く大きく腫れ上がりその後窪んだ。つい最近まで手で触るとそれが分かる位に、だ。



弟は嘘をついたからと口の上でもぐさ(お灸)を燃やされた。その時私は「お前も前に悪かったから」と理由も分からないまま親指の上でもぐさを燃やされた。すぐに大きな水ぶくれが出来たが手当てしてもらえず、次の日に弾けて破れた。今でも私の右手親指にはその後が大きく残っている。



何の娯楽もない家だったがテレビが1台だけあった。しかしそれはコンセント部分を切断し、見る時だけ刺すように父が細工した代物だ。父が出かける時は毎回コンセントを持っていった。私たちが唯一許されたのは日曜日の19:30から30分放映される子供アニメだけだった。ある日父がいつまでたってもチャンネルを変えてくれないので恐る恐る聞いてみた。「そんなのやってない」と父。「やってるよ」声を振り絞って言うと「じゃあやってなかったら殴るぞ」と言われた。「……うん。」父がチャンネルを回すとそこでは野球中継が流れていた。「そんなはずはない」と思った。野球で番組が無くなるなんて当時の私は知らなかった。父が手を振り上げる。「来る!」と思ったが、その手は降りてこなかった。しかし次の瞬間「ゴツンっ!」思いっきり拳が振り下ろされた。一瞬躊躇したくせに結局その手を引っ込めなかったのだ。



中学生の時は何を思ったのかタンスの引き出しから両手で私の服を全部抱え込み庭に投げた。「お前に服なんか要らない!」鶏の糞でドロドロの庭に貰い物の数少ない服が捨てられた。結局母がそれを集めて袋に詰め捨てた。私は中学校の間どこに行くのも制服で過ごした。



突然包丁を持って私を襲いに来たこともある。「姉ちゃん逃げて!」弟が必死で父の足にしがみ付いた。私は裸足のまま窓から逃げ出し夜道を彷徨った。


その時に畳に突き刺した包丁の後はガムテープを貼っただけで今も残っている。



女で優等生だった私がこれだけやられたのだ。男でワンパクだった弟にはもっと凄かった。



弟の中指を持って「折るぞ」「折るぞ」と子供全員が見てる前で限界まで反り返したこともある。



廊下の突き当たりには木製の引き戸がある押入れがあるのだか、弟の顔面を片手で掴み思いっきりそこに打ち付けた。引き戸は弟の頭の形に穴が開いた。



母のやってる宗教には「鞭」という制度があった。子供が言う事を聞かなかったら下着をおろしお尻を牛皮の厚くて硬いベルトで叩くのだ。父は母の宗教に反対していたがそれだけは率先して取り入れていた。より硬い鞭にしようと園芸用で緑色をしたスケルトンの硬いホースや、ガスコンロ用のオレンジのホースなどが使われたこともある。1番痛かったのは車のバンパーだ。しかもわざわざ知人に頼んで特注していた。


宗教の集まりがあった帰り道には必ず鞭された。帰省して祖父母の家から通った時は家で出来ないからと車で堤防を降りられた。周りに聞かれないようにアクセルをブンブンとふかしながら何度も鞭された。


弟は文字通り100叩きにあった。「神様!力をください」と叫びながら鞭を振り下ろすのだ。途中母は力つき父に代わった。弱まっていた鞭の力は更に勢いを増して弟の上に降り注いだ。正気の沙汰ではない。


叩かれた後は鞭の形に四角く残り何発殴られたか数えられた。


私のブルマから見える足は鞭の後がはみ出しいつも青くなっていた。弟はアトピーだったのでお尻の出来物が破れパンツは血だらけだった。



平屋で隙間だらけの平屋は夏は暑く、冬は寒かった。エアコンは父の部屋にしかなかった。高校を中退して働き出した弟が初めての給料で各部屋にエアコンを付けてくれた。私たちは嬉しかった。


しかし家に帰ってきてそれを見た父はそれを見て黙り込んだ。「子供の成長に感動している」のかと思ったら、「俺への当てつけか!」と壁からエアコンのホースを引き剥がした。弟は泣いた。



毎日殴られた後で登校し、家に帰ると怒鳴り声と鳴き声が響いていたのに誰も助けてくれなかった。「殺らなければ殺られる」心の中でずっと思ってた。



ここまで読むと暴力を受けたのは子供だけのように思うがそれ以上に母は酷かった。漫画でしか見ないようなちゃぶ台をひっくり返すという事は何度もされた。みんなが揃い、さあこれから食べようかという食卓をひっくり返し、割れた食器にまみれ夕飯が無くなったことは何度もある。



母が殴られ血を噴き出すシーンも何度も見た。頭を持って冷蔵庫に投げつけ角で目を打った母は失明しかけた。



「黒電話」と呼ばれる重たい受話器で頭をかち割られたこともある。母の血は天井まで吹き飛び頭蓋骨は陥没した。私の祖母、つまりは母の実の母と電話してた時の出来事である。



髪を持って引きづられ満たんのお風呂に頭を突っ込んで溺れさせたこともあった。それだけでは飽き足らず椅子を持ってきて暴れる母の頭を四つ足で沈め続けていた。



母の顔はいつも青アザが出来ていて、目は赤黒く腫れていた。旅先で写真撮影しようとする父に母が断ると激怒し、無理やりカメラに収めていた。



思い返せばまだ他にもあるのだろうが長くなったのでこれ位にする。私も思い出して気持ちの良い記憶ではない。



なぜ母は離婚しなかったのか。それは一重に宗教の為だ。宗教が離婚を許していなかった。


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