空だって飛べるよ 〜1.パンの耳を食べて過ごした幼少期〜
人に物心が付くのは何歳からなのだろうか。
因みに私は3歳である。
そしてその時にはもう父が作った多額の借金にまみれた家庭の中にいた。
父が借金を負ったのは友人の保証人になり、それを踏み倒されたからだと言う。
当時の価格で1,000万。
だから気づいた時からうちはずっと貧乏だった。
親から何か買ってもらったという記憶が無い。
おもちゃや洋服どころじゃ無い。
市販のおやつ1つ買ってもらった記憶が無いのだ。
服は必ず誰かのお下がりだったし、ランドセルも親から買ってもらってない。
髪は父親に切られていた。
パツンと真っ直ぐに揃えた前髪、ショートカット。
いつも同じデニムとTシャツ。中学校の制服すら私は誰かのお古だった。
みんながピカピカの制服に身を包まれている中に1人、お尻や肘の部分がテカテカに光った制服。
オシャレを楽しむ事を許されない私でもこれは苦痛だった。
朝ごはんはパンの耳だった。
それは近所のスーパーに置いてあった。
私たちもよく買いに行かされた。
3斤用パン袋一杯にパンの耳が詰められ、マジックで無造作に値段が書かれていた。
一袋大体30円〜50円。
食パンや菓子パンがきらびやかに並んでる端に無造作に置かれていた。
一日に一袋しか売られてないのだが買いそびれることはまずなかった。
きっと誰も買う人なんかいなかったのだろう。
たまに無くなっていると母が慌てていた位だから。
袋の中にはサンドイッチ用に耳を落としたスティック状の物や、辛うじて四角を留めている物などが一緒くたになって入っていた。
それをトースター一杯に広げ、カリカリに焼いてマーガリンを付けて食べるのだ。
取れる所のギリギリまでスライスされた耳は中央に大きく穴が開いてた。
穴の周りは生地が薄いので全体をカリカリに焼いて食べようと思うと穴の周囲が黒く焦げた。
たまにふわふわの部分が残ってる耳を見つけるとすごく得した気分になったものだ。
そんな中、父だけは毎日「白いご飯」を食べ、切れ端を寄せ集めたサービス品とはいえ「刺身」を食べ、「瓶ビール」を飲んでいた。
缶ビールより高価な瓶ビールを飲んでいたのは缶ビールには缶の匂いがして美味しくないからだそうだ。
「そんな贅沢なこと言ってられるのか」幼心にいつもそう思ってた。
自宅の庭に鶏が二羽飼われていた。
恐らく父の趣味だと思う。
借家の小さな庭に父の手作りの鶏小屋があった。毎朝卵を産んでくれる貴重な鶏なのだが、その餌がパンの耳だった。
小学生になった私たちは餌作りをさせられた。
パンの耳を細く切り、みじん切り。
大根の葉(スーパーにタダで捨ててある)もみじん切り。
そこに鶏用の飼料を混ぜて小屋の中に入れる。「大根の葉をあげると卵の黄身が盛り上がった良い卵を産む」と父は自慢げに語っていた。
鶏舎独特の匂いと、手を入れると突かれそうにな勢いで向かってくる鶏達に餌を入れるのは苦行だった。
そしていつも
「私達のご飯は鶏と一緒なのか」と思っていた。
加えて実家はゴミ屋敷である。
庭には動かない洗濯機が何台もある。
子供4人が巣立った一軒家なのにいまだ布団を敷くスペースもないくらい物で溢れかえってると言う。
こうやって他人事のように話しているのは今は実家を出て都内に移り、結婚して子供もいるがその間一度も実家に足を入れた事がないからだ。
九州にいる3人の兄妹も皆結婚してるが配偶者やそのご両親、子供すら実家に入れた事がないと言うからこの状況を少しはイメージ出来ると思う。
いま両親はとっくに60歳を超えている。1,000万あった借金は一度完済した。
だが再び借金の肩代わりをする羽目になり、とうとう自己破産した。
家はいまだに賃貸のまま。
年金を払ってなかったので死ぬまで国からお金が支給される事はない。
2人とも定職につかずバイト生活だったが最近では働き口も無くなってきてるらしい。
この歳で「ハローワークにいかないと」だとか、「市営住宅に申し込んだが外れた」と言っているのだ。
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