挫折という名の希望

こんなに大声で泣いたのは、子供のとき以来、初めてだった。

父が教師、母が保育士という教育家庭で育った私は、小学校の頃から真面目に勉強に取り組む子供だった。宿題は期限に遅れることなく提出し、テストに出ると言われる漢字は完璧に暗記した。良い成績や良い点を取って、周囲からほめられる事が喜びにもなっていた。

そんな私は順調に教育課程を歩み、高校にも無事に合格できた。特に大きな挫折も味わうことなく人生を歩み、これからもなんなく生きていけるような気がしていた。

その思い込みが一気に覆されたのが、大学受験だった。私は、2つの大学を受けることにした。富山県で一般的な受験の受け方は、第一志望として国立の大学を受験し、滑り止めとして私立大学をいくつか受験するというものである。私も周囲と同じように、志願する国立大学を一つ決め、恐らく受かるであろうと思われる私立大学を一つ受験することにした。

大学受験に向けても、私は必死で毎日勉強していた。努力は裏切らないと信じ、ただ無我夢中で机に向かって格闘していた。しかし、実際はどれほど努力しても思うように成績は伸びず、その現実を受け入れることができないでいた。模試の判定がCでも、「運が悪かっただけだ。実力を出せばできるはず。」と自分と向き合うことから逃げてもいた。

プライドも邪魔し、大学のレベルを下げることなく、初めに定めた大学を受験することにした。初めは、滑り止めの私立大学。

手応えがあったわけではないが、これまで順調に生きてきすぎた私は、受験に失敗するはずはないと思っていた。受験から数日経って、結果発表の通知が届き、ドキドキしながらも封を開ける。

結果は、「不合格」だった。

滑り止めの大学に落ちたということは、第一志望に合格しない限りは浪人ということになり、心の安定剤をなくすということになる。浪人することを人生の選択しとして全く考慮していなかった私は、頭の中が真っ白になった。

そして、ただひたすら涙が溢れ出してきた。

絶望感のような、恐怖感のような、喪失感のような。いろんな気持ちが入り混じりすぎて、自分でも自分の気持ちが良く分からなかったが、ただただ涙は溢れてきた。泣いても現実は変わらないと分かっていながらも、涙は止まらなかった。

そんな私を見て、母親は、「千紘なら大丈夫だよ。」と、優しく抱きしめてくれた。なんの根拠もない慰めであることは分かっていながらも、そのときはただ、自分の感情を全て吐き出し、誰かに受けとめてもらい、慰めてもらうことを求めていた。

そして、無口な父親も、そのときは私に慰めの言葉をくれた。それは、父親の大学受験のときの話だった。父は、東京大学を受験していた。父は地元でも噂になるほどの優秀な人材で、東大合格も間違いないと言われていた。実際、第一試験にはなんなく合格した。しかし、第二試験で落ちてしまった。祖父と一緒に受験のために東京に行ったのだが、受験に向かう途中で祖父とはぐれてしまい、パニックになってしまったのだという。

今までなにも自分について語ることのなかった父が、初めて語ったストーリーだった。そして、そのときの私の心に突き刺さる、ぴったりのストーリーでもあった。

これまで順調に優等生の道を歩んできたと思われる父にも、挫折があったことを知った。きっと、もっと様々な苦悩を経験して生きてきたのだろうとも感じた。表には見えないが、皆それぞれ何かしらの辛い思いを抱えて生きている。

その瞬間、自分は一人ではないように感じられた。

そして1時間後。

「勉強しよう。」と、再び机に向かい始めていた。

私の良いところ、好きなところは、ひたすら努力し続けられることである。母親の愛情と父親の生き方に励まされ、本来の自分らしく、再び前に進む勇気が沸き始めていた。

結局私は第一志望の国立大学にも落ち、後期受験でやっと、ある大学に入ることができた。そして、その大学に受験するための資料は、母が集めていたものだった。母なりに自分のできることを考え、私が第一志望に落ちた場合に備えて、後期に受けられる大学を調べていてくれていたのだ。そのことを知ったのは、私が第一志望に落ちたときで、そっと、たくさんの大学のパンフレットを渡してくれた。

こうして、たくさんの人に支えられて、私は無事に大学に進むことができた。そして、その大学に入ったことで、たくさんの私のストーリーも生まれ、今では私の人生の中でかけがえのない一部とも言える。そして、無駄にはしたくないという思いで、今を懸命に生きようとしている。

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