『イラスト奮闘録。イラストレーターになりたい、と走り続けた日々の物語』第10章「花開く、ポスターのお仕事」

前話: 『イラスト奮闘録。イラストレーターになりたい、と走り続けた日々の物語』第9章「パレットの年」
次話: 『イラスト奮闘録。イラストレーターになりたい、と走り続けた日々の物語』第11章「イラスト活動、なぜかまたふりだしに戻る」

その1「初めてのグループ展」

気がつくと迷い悩みながらも、イラスト活動は
10年目に突入しました。この年の4月に入ってすぐ、
通っていたパレットクラブの卒展が行われました。

私にとっての初めてのグループ展は、約40人ほどが
参加した大規模な物となりました。
個展経験はあったものの、同じ展示会でも
グループ展となると、また全然勝手が違いました。

初めてのグループ展では、周囲の作品が必要以上に
気になってしまい、結果的に肩に力が入った作品を
描いてしまう事に…。それは後々まで苦い思い出。
お陰で当分の間「私はグループ展が苦手だ」という
レッテルを、自分自身に貼る事になりました。

しかしみんなで力を出し合って行った
卒展自体は、とっても楽しい物でした。
また色々な展示方法や、オリジナルグッズ作成など、
この展示を通じて、友人達から教わる事も沢山ありました。
学校を離れて10年以上が経った今でも、繋がっている
人はたくさんいます。
なので「イラストの世界で、横のつながりが出来たこと」が
やはり学校に通った一番の収穫だったように思います。


その2「絵を描く事、そう言う生活が出来る事」

仕事や卒展が終わり「また1から新しい生活が始まる」と
思っていた矢先に、今度は両親が相次いで倒れました。
どちらも一歩間違えれば命に関わる、重い病いでした。
半年間に及ぶ双方の入院生活の間に、私自身も
無理がたたって、利き手がガングリオンと関節炎を
患ってしまい、病院で「右手使用禁止令」が
出される事になりました。

今まで自由に描いたり、行動してきたのに。
いきなり「朝から晩まで家に縛り付けられて
家族の介助をし、都心に展示会を見に行く事も
描く事もできない。絵に関われる時間が全くない」と言う
不自由な状況に陥りました。

さらに追い打ちをかけるように、そうやって落ち込んでいる
時を狙って「あなたの作品が気に入らない」と言う様な
同業者からのねたみの声が、私を潰しにかかりました。

その後、幸いにして両親は共に回復し、
私も利き手と、上手につき合えるようになりましたが、
あの時の先の見えない、介護生活と痛みと不安に
「もしかしたらもう二度と、思うままに描く事は出来ない
かも知れない」と、思い詰めるまで落ち込んでいました。

日常生活に於いて、絵を描く事はとても贅沢な事です。
私は絵の仕事に何とかここまで、しがみついて
来たけれど、第一線で活躍出来るほどの実力は
まだありませんでした。
また、多くの人から必要とされるような絵が
描けるわけでもありませんでした。

それでもここまで、続けてこられたのは
「絶対に絵の仕事がしたい。描きたい」と、無我夢中で
必死だったからに過ぎません。
でもこの時初めて、立ち止まると同時に
「もしかしたら、この辺りが限界なのかな」と、意識しました。

自分や家族が生きるために、絵よりも生活を
重視しなくてはいけないのかもしれない。
もっと上に行けると信じていたけれど
結局この10年間は、地に足の着いた現実では
なくて、ただ憧れを抱いていたに過ぎない
夢の中の日々だったのではないか。

でもそんな酷く落ち込んでいた私に、思いがけず
助け船を出してくれたのは他でもない、パレットの
友人の一人でした。
「夏祭りのイベントで、似顔絵描きをしてみない?」と
声をかけられて「1日だけなら家を空けても
大丈夫かもしれない」と、引き受けたその仕事は
初めて人前で描く作業でした。

簡単なパステル画での似顔絵でしたが、
描くたびに集まった人々が、歓声と笑顔を
見せてくれました。そして気がついたら
私の周りに人垣が出来て、口々に「早いね」とか
「すごいね」とか、ワイワイ楽しそうな声が聞こえてきました。
「絵を描いて人に喜んで貰えるって、すごく
嬉しい事なんだな」と、この出来事を通じて
改めて思いました。絵を見てくれた人たちから、
元気をもらえた気がしました。

いつか本当の限界が来る時まで、頑張れるなら
もう少し描き続けてみよう。楽しんで貰えればそれでいい。

思えば、いきなり前に立ちはだかった今回の試練は
「本当にこの先も、描き続ける気があるのか」を
試す試金石だったのかもしれません。
そして何のために描くのか、逆境に陥って
それに気がつく事が出来たなら、辛い思いも
無駄ではなかったように思います。

(余談ですが、この先歩みを進めると共に
この時の試金石の何倍も大変な事態が、私を
待ち受けていました。もしかしたら、この時期の事は
「本当にそれらに耐えられるかどうか」の仮修行
だったのかもしれません。そして当然この時点で
私はそんな事に、露ほども気付いてはいませんでした…)

また時には開き直る事も、大切かもしれません。
「よし、ここまで来たら行ける所まで行こうじゃないか」と、
一念発起して、更に士気を高めるためにこの時
3度目の個展の開催を決めました。

そうやって目線が下から前に向き直ると、
自然と明るい話題も出始めるものです。
似顔絵イベントから3日後、残暑厳しい折に
一本の電話を入りました。
それはあるポスター依頼のお仕事でした。


その3「運命の転換期、描いたポスターが街を彩る」

某デザイン会社から「(パレット卒展時に作成した冊子で)
あなたの作品を見ました」と、ポスター制作依頼の
電話を頂いた時、なぜか私は「町内で配る様な、簡単な
チラシみたいな物だろうな」と、勝手に思っていました。

なので割と気軽な気持ちで、打ち合わせに行ったら
実はその作品が関東から東北一帯と言うかなり
広範囲の、ほぼ東日本各駅に張り出される
大型ポスターであると知った時は、思わず絶句しました。
これは未だかってない、と言うかイラストレーターを
この先長く続けていたとしても、 一生に一度、
頂けるかどうかわからない規模の大舞台です。
但し、プレゼンで私の絵が選ばれれば、の話でした。

イラストの仕事は、依頼が来た時点で
「あなたの絵でお願いします」と決まっている時もあれば、
今回の様に「他に数名の候補者がいるので
作品をプレゼンさせて下さい」と言われる場合の
2通りがあります。
このお仕事は後者でした。

実を言うと私はプレゼンに弱く、いつも残念な結果に
終わります。でもこの時は、どうしてもこの仕事が欲しかった。
恐らくものすごい鬼気迫る勢いで「採用されますように!」
と念じていたと思います。そのせいあってか運よく
選んでいただき、2005~06年の冬、作品が
街中に張り出され、私は嬉しくて各地にカメラを
持って行っては、掲載されたポスターの写真を
撮り続けていました。

さすがに今回は規模が大きな仕事だったので、
見て下さった方の反響も大きく、知人は
もちろんの事、初対面の方まで、様々な方面から
声をかけていただきました。
「イラストレーターの仕事って、すごいんだなぁ!」
と、清々しく感じた瞬間です。

更に嬉しい事に、このお仕事によって憧れの
『イラストレーション』誌にも、作品と名前を
掲載していただけました。
このイラスト専門雑誌に、自分の作品を載せる事は
イラストレーターになる前からの夢だったので、
嬉しさもひとしおです。
だから「こんなに大きなお仕事を頂けて、専門誌に
名前まで載せて貰えたのなら、今後のイラスト人生は
もう安泰だろうな。これでようやく仕事も沢山来る」と、
楽観的な予測に浸っていました。

が、しかし。世の中はやっぱり全然甘くない。
結論から言うと、その後この作品を見た人からの
仕事依頼なんて、一件も来ませんでした。
そう言うと、必ず「ウソでしょ!」と言われますが
本当に一件も来ないのです。
絵描きの友人曰く「ポスターには名前も住所も書いて
あるわけじゃないんだから、自分から作品を持って
売り込みに行かなくちゃ!」と言われ、実際に
営業にも数件行きましたが、やはり仕事には
繋がりませんでした。

ようやく10年目にして、大きく花開いたかの様に
見えたのに、現実は相変わらず情け容赦なく厳しい。
「次の仕事につながらない」と言う事は、「今の作品では
まだ力不足だ」と言う事なのかもしれません。

しかし難しい事を考えていても、始まりません。
気分を切り変えて、今度は喫茶店の壁をお借りして
初めてのカフェ展を開催しました。
会場は沢山の絵本を読みながら、美味しい
お茶が飲める、くつろぎの空間でした。
カフェでの展示は、通常のギャラリーと違って
料金が安い点が魅力です。幅広く不特定の方に
作品を見ていただける事も、色々なチャンスを感じさせます。
但し食べ物のにおいや、たばこの煙のように、
作品に対しては完璧な展示空間でない面もありました。

通常のギャラリーでの展示も、カフェ展も、
それぞれに良い所、悪い所がありますが、どれも
やはり自分で実際にやってみないとわからないな、
と思います。一つ一つの経験が、より適した
イラスト活動への糧になりました。


その4「初心に戻る仕事をする」

大きなお仕事をいただいても、何度個展を開催しても
なかなか次の仕事や活動にスムーズには繋がりません。
再び初心に戻って、営業活動に専念する事にしました。

元々私は子供の頃、ノーマン・ロックウェルと言う
アメリカのイラストレーターさんの作品を見て
「こう言う職業があるんだ。こういう世界観の絵を
描いてみたいなぁ」と憧れて、絵描きになりました。
なので仕事に於いての究極の目標は、当時の
ロックウェルが手掛けて、一世を風靡した
『サタデー・イヴニング・ポスト』誌の様な表紙絵でした。

今でいうなら本の装丁でしょうか?
少し違う気もしなくはないですが、それならば今度は
「装丁の仕事をしてみよう」と、各出版社のデザイン室や、
個人のデザイナーさんに連絡を取り、作品ファイルを
郵送したり、実際に打ち合わせ場所に足を運ぶこと
約30件。
相変わらず「あと一息の絵」とか「ぬるい絵だね」とか、
見て下さった方から、手厳しい判断が下されます。

10年頑張って来たけれど、イラスト道は
やはり厳しいの一言に尽きます。
頑張っても頑張っても、きちんとした答が
出るとは限らないし。でもその分、やり甲斐も
あるのも事実です。

例えば「何処をどう治せば、もっと面白い絵になるんだろう」とか
「もっと良い絵にするには、何処で何を学べばいいんだろう」とか
色々考えながら、進化を試みます。
そしてきっと、そんな事の繰り返しかもしれないと思うのです。

恐らく他の人なら、10年もあればもっと効率のよい
仕事や活動が出来るし、良い作品をもっと沢山
描けると思います。
でも私のペースはこれで精一杯だったから、仕方ない。

逆に効率は悪くても、地道に自分の足を使って活動し
コツコツ築き上げてきた事は、容易には崩れないと信じています。
少しずつの歩みだけど、これからも色々な人に出会って
沢山の事を経験して、学んで、自分の絵をもっと良くして
いきたいと思います。

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