国際結婚の顛末・・・

国際結婚の落とし穴は、いたるところに転がってる。安易にあこがれる女子たちにちょっとだけ警告。もっとも、私のような例は、希少かもしれないが。

最近の女子は、結婚にあこがれを抱くことも少なくなったのかもしれない。現実の生活はとても厳しいことをネット情報からいつでもどこでも受信・発信し続けられて、知識だけは詰まってるから。でも、私の適齢期のころは、婚活なんて言葉はなかったなあ。いつでもどこでも出会える時代なのに、人と人の関係性が薄くなったせいで、人生のパートナーを見つけるのは難しいのかもしれない。えらそうに語れるほどの半生ではないのだけど。

女子にとって、年齢の壁は常に厚い。30歳という節目を迎えると一種の脅迫に似た結婚モンスターの襲来を受けることになる。私もそうだった。

30歳で、青年海外協力隊から帰国した私は、のんびりとした南の島での生活から一転、人もモノも秒で動く日本の社会に忙殺される毎日に再び組み込まれていった。ゆっくりとお茶を飲みながら、明日の天気の話をしていた日常は瞬時に彼方へと吹き飛び、日々業務に追われる残業続きの生活となった。週末になると、定年を迎えて暇を持て余し始めた両親から、「結婚」「見合い」の話が繰り広げられ、のんびりと夕食を取ることができたのは、帰国後の数日だけだったなと述懐する。

「今度の人は、公務員やけん、安定しとってええよ。あんたと釣り合うと思うけん、来週あけとってや。」

「仕事が忙しいから、次の行事が終わるまで、ほっといてくれる?」

「そんなんいうて、時間ばかり過ぎるとよ。いい話はのってみんといけんよ。先方さんは、都合がええと言うてるから。それとも、誰かいい人でもおるんね?」

「そんな人はおらんけど、まだ、帰国して数か月やけ、仕事を軌道に乗せたいんよ。」

「まあ、会うだけあってみんね。どうせ、結婚ゆうても、半年以上先のことになるんやから。」

こんな形の話が続き、母に言いくるめられては、数回お見合いをした。相手の方には、甚だ申し訳ないが、私には、親に紹介された相手と「結婚する=一緒に暮らす」ということがイメージできず、回を重ねるごとに無口になっていった。

恋愛経験は人並みにあると思う。大学時代には、交際していた人もいたが、長く続かなかった。就職してからは、男性の少ない職場で出会いはなかったが、高校時代の同級生の誘いや、スポーツクラブで出会った人から声をかけられることもあり、自分が結婚できない、という不安はあまりなかった。まだまだ大丈夫、そんなおごりがあったのは確かだ。

こんな状態で、お見合いがうまくいくはずもなく、帰国後半年を過ぎたころには、母から少々行き遅れてしまった感のある娘に対する哀れみの視線とため息が漏れるようになっていた。

私の心の中にあったのは、次の野望だったのだ。「結婚」したくないわけではなかったが、青年海外協力隊まで行って磨いてきた自分の「行動力」や「コミュニケーション力」をこのまま片田舎で、結婚して普通の主婦になって埋没させていくことに反抗する気持ちが、どうしても消せなかった。同時期に、派遣された仲間たちの多くは、地元に戻って、元の生活に復帰していることはよくわかっていた。しかし、一部の国際志向を持つ仲間から、「留学することにしました」「国際機関で働くために研修しています」「JICAの専門家になります」といった情報が寄せられるたび、私はそちら側の人間ではないかという屈折した自尊心とねじ曲がったプライドだけが私の中にあった。

週末になると、図書館に通い、英語のテキストと格闘した。隊員として派遣された国は、英語圏ではあったが、当然のことながら英語で話す人などほとんどいなかった。結局、現地では現地語を必死で覚え隊員として活動を行った2年間だった。人口数万人の小国の言葉は、当然使い物にならない。帰国してから求められていたのは、英語だった。

「2年も海外に住んでいるんだから、さぞかし語学も堪能でしょうね。」

人は、時に自分と異なる経験を持つ存在を排除し、別の格付けを行うことで自分を守る。とりわけ私の経験に対しては、「すごいね」と「普通の女子は行かないところに行った」というレッテルで語られていたようだ。もともと、周囲の言葉を気にするほうではなかったが、負けず嫌いの性格は、変わることなく息づいていて、それが私の「英語習得」に点火した。


TOEIC、TOEFLと立て続けに受験した。結果は、自分でもどうとらえてよいかわからない程度のものだった。TOEICは、700点を少し下回った。リーディングはよいがリスニングに弱い。典型的な日本人のパターンで、文法訳読式の勉強を続けてきた成果が表れていた。TOEFLは、海外留学の目安得点にやや届かない。これが今の私の実力か・・・

週末だけの勉強では、足りないこともわかっていたし、勉強方法がどうしても自身の受験時のものを繰り返すのみで、苦手分野(リスニング)がおろそかになっていることもわかっていた。何のために英語を勉強しているのか、その目的もまだ明確になっていたなかったことも原因の一つだった。

そんな時だった。青年海外協力隊の訓練所で一緒に勉強した仲間から、「留学する」という連絡を受けたのは。彼は、訓練所時代、よくわからない問題を聞きに私のところに来ていた2つ下の男子。お互い野外活動が好きで、休日に山登りやテニスを楽しむ仲間の一人だった。派遣国は地球の裏側だったため、派遣中の2年間は連絡が途絶えていたが、帰国後再び連絡を取るようになっていた。

「これからはさ、英語とコンピューターの時代だよ。」

彼は、熱くそう語った。もともとPCの専門学校を出ただけあって、PCスキルはかなりのものだったが、2年、彼がアジアの小国で電気回線工事に追われていた間に、日本のPC性能があまりにも変化したことに驚き、帰国して買ったPCをバラバラに分解して数台ダメにしたと言う。彼ならやりかねないと苦笑していたが、あっけらかんと、コンピューターはソフトの時代になるよ、と使い物にならなくなったPCのお葬式を取り行うような人だった。彼は、どこで確信を得たのか、自信たっぷりに、「英語が話せないとだめな時代になるよ。」と言い、「だから、留学する。」と告げた。

私も、密かに英語を学んでいることを話すと、「え、やっちゃんも留学するの?」と聞かれた。確たる予定などなかったが、気づいたら、「うん、そのつもり」と答えていた。おそらく私の内部にくすぶり続けていたものが、にょきにょきと顔を出し始めたのだろう。

そうして、私の留学への模索が始まり、それから半年後に、合格通知を受け取っていた。行先は、クオーター制のある南西部の小さな州立大学。クオーター制を選んだのは、長期休暇がなく、単位履修が通常よりも早く、卒業までの時間が短縮できるからだ。近年、この傾向が薄れ、大学においても、様々な教養や社会活動をすることが推奨され、クオーター制度はほとんど見かけなくなった。私の通った大学も、現在ではセメスター制に移行している。ただ、当時の私としては、最小のコストと時間で単位取得が可能なこの制度は非常にありがたかった。

30歳からの米国留学。今では珍しくないかもしれないし、男子ならむしろ推奨してくれる人も多いだろう。当時、私の両親は、嘆き悲しむというよりは、理解できない、といったほうが当てはまるほどに、言葉少なくなった。周囲の反応は、様々だったが、肯定的でなかったことは肌で感じ取っていた。「外国かぶれ」「落ち着かない」「人生計画が立てられない」そんな視線が飛んできていたのはよく覚えている。「すでに婚期を逃しているのに、30歳を過ぎてまた外国に行くなんて、普通じゃないね。」同僚が、給湯室でこそこそと話をしていたのを思い出す。

安定した仕事を辞めて、新しい世界に飛び込む恐怖は、自分自身が一番よくわかっていた。今後の自分がどうなるかなんて、自分自身が全く分からない。勢いと負けず嫌いと向上心、そして奥底に横たわる自分への根拠のない自信が、結合した結果だ。「英語は必ず必要になる。」と信じることで、自分を正当化した。

出発は、誰にも知らせなかった。スーツケース一つで、成田空港から飛び立った。自分の決断に自分でエールを送り、その後の人生がどう転ぶかなんて何も考える余裕もなかった。

日本人の少ない都市、大学を選んだにもかかわらず、やはり日本人はいた。だが、日本という国を超えた場所でつながる「お国連帯感」は、異国で生きてく上では時として必要なことも多々味わった。合格ラインぎりぎりのTOEFLで渡米した私のリスニング力は、今思うと自殺行為に等しいほどひどかったと思う。電話の受け答えもできない、大学の案内所で相手のいっていることが分からないことはしょっちゅうで、何とか契約できたアパートに帰っては、落ち込み、留学など大それたことをしたことを後悔した。そんな時、一足先に留学生として基盤を作っていた10名足らずの日本人留学生たちは、オアシスのような存在だった。もっとも、一癖二癖あるような人たちの集まりでもある。いい大人が、学びに来ておいて「助けてください」を連呼したのでは情けない。負けず嫌いの性格はどこに行ってもやっかいだ。心のよりどころにしつつも、特に裏表の激しい女子には近づかないようにした。

30歳の留学と失恋

履修登録はすべて、コンピューターを通して行った。日本の国立大学を卒業してはいたが、英語力に自信がなくて、学部生に編入する形で授業を登録した。もっとも、当時の私の語学力では、中学生にだって編入することすら覚束なかったかもしれないが。ともあれ、全ての事柄を日本語に置き換えていく毎日だった。日本語で思考する脳、日本語で発信する脳は、今更変えられない。隣に座っている学生のワンテンポ後に理解していることのつらさは、数か月続く。教授のジョークも、全くジョークには聞こえてこない。「この世の中で、一番馬鹿なのかもしれない」と思えてくるほど、90分の授業がさっぱり理解できなかったこともある。

授業が始まって1週間後、私は、リコーダーを用意した。このままではどうにもならないと考えた末、毎回、教室の前の席に座り、授業をすべて録音することにした。90分の録音をアパートに帰ってから、何度も聞いた。ディクテーションして点と点、線と線をつなぐように教授の話を組み立てた。そして、ようやく授業の内容を把握する。内容が分かると、「え、そんなことだったのか」ということが多かった。一通りそれなりの教養は持ち合わせていたつもりが、言葉が変わっただけで、こんなにも苦労することが、滑稽であり情けなかった。理解できなければ教養などではない。私がこれまで身につけていると思っていたことは、環境が変わっただけで役に立たないものだということを思い知らされた。

それでも、日本に帰ろうという気持ちは起こらなかった。というより、帰れないという気持ちが大きかった。誰に強制されたのでもなく、自分が選んでここまで来た手前、「もうや~めた」と白旗を振ることなどできるはずがない。漠然たる自分の今後を案じながらも、今目の前にある課題をこなすことが、私にとっての最優先事項だったから。

留学2年先輩にあたる大阪出身のあつし君は、2度目の留学らしく流暢に英語を話していた。留学生のアドバイザーボランティアをしていた彼は、学部が同じだったこともあり、時折声をかけてくれた。一人でこもって、録音テープを聞いてばかりの私に向かって、「生で会話せんとあかんで。」と言い放つと、無理やり食事に連れ出されたこともある。「なんや、お前、年下やと思うてたら同じやんか。」最初から、ため口全開だったが、その後ますます言葉の壁は薄くなり、周りで聞いていたら、兄妹かと思うような言葉遣いになっていた。英語に疲れていた私には、あつし君の大阪弁は、とても心地よく響いていたのだ。

そんなあつし君にどうして私が惚れられずにいようか。

食べることが大好きなあつし君は、近隣のレストランにとても詳しかった。「おい、やすっち、夕飯まだやろ。うまい魚介いこか。」そういうと、もう前をすたすたと歩き始める。会話のテンポはアメリカ並みだ。「どうや?うまいやろ。もうほんまに幸せや。やすっちも幸せやろ。」そう、彼は、幸せの押し売りまでしてくれるのだ。そして、人の2倍は軽く食べる。支払いも豪快?だった。「店長。ほんまにうまかった。大々的に宣伝しとくし、人連れて必ず来るから、端数はまけてや。」彼の熱意ある英語は、妙に自尊心をくすぐる効果があり、たいていの店長は、まけてくれた。逆に、手持ちの多い時には、かなりのチップをはずむこともあった。

あつし君に心が傾くのはどうしたって止めようがないではないか。いつしか私は、あつし君に追いつくために勉強し、あつし君に胸を張れるように人と接するようになっていった。30歳からの恋愛で、こんなにも一喜一憂する自分の立ち位置が笑えてくる。自立した女子を気取っていたのに、一人の男子との出会いが、こんなにも大きいことが逆に怖かった。そして、この出会いが、私を崖から突き落とすまでにそう時間はかからなかった。

あつし君は、留学生の間では有名だった。持ち前の豪快さと巧みな会話術は、日本人離れしていて、身長180センチもの長身ともなれば、どうしても目立ってしまう。あつし君と私が急接近していることは間違いなかったが、男女の仲になったあたりからあつし君は、私と一緒にキャンパスを歩かなくなった。私が渡米してから4か月目のことだった。

秋休みに差し掛かっときのことだ。大学の中にある留学生会館で、国際イベントが開かれていた。あつし君がイベントのスタッフをしていることもあって、私も手伝いに参加した。そこでは、久しぶりに日本人留学生同士が顔をそろえ、久しぶりの日本語会話に花を咲かせていた。あつし君と同じころに留学してきたひとみさんは、芸術を専攻している小柄でややぽっちゃりした、話し方に特徴のある女子だった。おそらく私より少しばかり年下だろうか。日本語の話しぶりにはどこか幼さが感じられたが、意志のはっきりしていることは、文末の言い切り表現から十分伝わってきた。

「やすこさんさあ、あつしと仲いいって聞いてるけど、あいつには気を付けたほうがいいよ。」

ひとみさんは、テーブルセッティングを一緒にしながら、淡々と話しかけてきた。「来たばかりで、友達いなかったからご飯に誘ってもらっただけですよ。でもそれ、どういうこと?」私は、内心バクバクしていたが、人ごとのように聞き返した。

「あいつさあ、彼女いるくせに、手えだしてくるから。」私の手が一瞬止まった。「いいやつだとは思うけど、女にはだらしないよ。私も騙されたよなあ。」そういって、ひとみさんは次のテーブルを取りに倉庫に入っていった。

彼女がいる。ひとみさんにも手を出した。女にだらしがない・・・頭の中でぐるぐる言葉が回転する。確かに、あつし君が私のアパートを時折訪れるようになって、2か月になるが、最近はもっぱら夜半に部屋に来て、することして朝帰るというのが続いていた。都合のいいセフレ・・・ということか。いや、そんなはずはない。

恋は盲目というが、自分がそんなもの=セフレなんかにされているかもしれない、なんて考えたくなかった。腕枕をしながら耳元でささやいてくれるあつし君の言葉は、本物だと信じ切っていた。「オレ、やすっちみたいな美人とできるなんて、幸せや。」そうして、「オレ、卒業したらアメリカで一旗揚げたいってずっと思ってんや。オヤジがダメ男でオフクロしょっちゅう泣かせとんの、子どものころなんもできへんで悔しかったわ。」そんな思い出話を語ってくれた。心を許している証拠だと思わないほうがおかしい。

その日のイベントは、受付の手伝いをしながら、気もそぞろだった。ひとみさんの動きも気になるが、どうしてもあつし君のことを目で追っている自分がいた。彼は相変わらずひょうひょうとしていて、多国籍の留学生の真ん中にいて、始終楽しそうに歓談していた。私には一言も声をかけてはくれなかったが。ひとみさんは、何事もなかったように、お気に入りのベトナムブースでベトナム料理を堪能した後、バイトがあるからと数時間で会場を後にした。残ったのは、私のプスプスと煮え切らない気持ちと、残飯の片づけだった。

アパートに戻ると一気に疲れが体を覆いつくした。まるで世界中の孤独が私に集まったかのような感覚に襲われて、涙があふれ出た。こんな日は、何をやっても無駄だ。お酒でも飲んで、布団に入ろう。私はシャワーを浴びると、常備していたジンをグラスに注いだ。その時だった。

ドアをノックする音が聞こえる。「やすっち。まいど~」

能天気なあつし君の声が聞こえてきた。あわててドアを開け、人差し指を口に当てると、「ごめんごめん。おれ声でかいよな。いや~ちょっと飲みすぎた~」

するりと部屋に入ってくると、あつし君はいつものように、上着を脱いで横になった。「今日はさ、普段話さないやつとかと話できて、それがおもろい感じやんか。あのインドのビジネスの話、ほんまやすっちにも聞かせたかったわ。」

(なんで、声かけてくれなかったのよ)私は、言葉を飲み込んで、黙って聞いていた。「あれ、やすっち怒ってる? 怒った顔もいいねえ。」そういって、私の腕をつかみ引き寄せる。あつし君はこのあたりの動作がとても自然で、抗えない。彼のディープなキスを受けると、途端に私は従順になる。

「今日、ひとみさんに話しかけられてね。」話を振ってみた。「あ~ひとみちゃんか。ちょっと変わった子やろ。あの子、いい子やけどちょっときついやろ。留学当初、結構いじめられたわ。」彼の言葉によどみはない。彼がひとみさんにちょっかいを出していたなんて、あり得ない作りごとに思えてくる。

「あっくんのこと、女にだらしがないって言ってたよ。」私がそう切り返すと、あつし君はにやっと笑って、「そうかあ、ひとみちゃんなら言いそうやなあ。留学してしばらくたったころ、飲みに行った時に醜態さらしたから、あんときのこと今でも言うてるんやきっと。ひとみちゃんもひどいなあ。」

ここで会話は終わった。彼は私を抱き上げると、そのままベッドに移動した。いつも以上に丁寧な愛撫に私は何も考えられなくなった。

彼女がいる。一番肝心なことを私は聞けずに、日が過ぎていった。大学の試験も重なってそれどころではなかったし、友人に紹介されたアルバイトの仕事で毎日くたくただった。試験前後は、さすがにあつし君も私の部屋に来ることはなかった。それだけ勉強は大変だった。私の録音テープは続いていたが、格段に進歩を遂げていて、1回で聞き取れるようになっていた。教授の声や話し方になれていったせいもあるが、講義のポイントもつかめるようになり、第3クオーターに入ったころには、聞き取りに対する不安が薄れ、私の課題はどうやって理解したことを伝えるかに変化していた。

同じビジネスコースを専攻する授業の中で、トルコ人、中国人、韓国人の友人ができ、将来のことについて話をする仲間ができつつあった。面白いことに、ビジネスコースを専攻している学生の半分以上が、私よりも年長の社会人経験のある人たちで、彼女たちは一様に、スキルアップと仕事を求めてコースを取っているということがわかった。アメリカ人の夫を持つトルコ人メアリは、再婚してアメリカに移住してきたけど、学位がないから仕事がないのよ。学位を取って、経理の仕事につきたいわ、と快活に笑う40代女性。同じように40代と思われるミンは、中国人で、同郷の夫の仕事に帯同して来たけど、子どもも手がかからなくなったので、自分も仕事をしようと思っての学位取得だという。同じく中国人のテイは、小さな子どもを両親に預けて大学に通っていた。家族でアメリカに移住してきたのだという。どのクラスも多国籍で、クラスによっては、アジア人ばかりというのもあった。さすがアメリカ、こんなところにも異文化を感じていた。

南西部の小さな都市にも、季節の変化はある。雪が降るような寒さはなかったが、1月後半くらいまでは、オーバーが1枚いる程度には気温が下がる。その後の気温の上昇は驚くほどの速さで、春を飛び越えて一気に初夏に向かう。空気は常に乾燥しているため、2月になると日中は、チリチリとした日差しを感じる。クオーター間は10日程度しかなく、試験を終えて泥のように数日間眠り、次のクオーターの履修の準備が始まる。常に、何かをしていないと落ち着かない性格なのか、ゆっくり旅行でもと考える余裕がなく、日本から持参した軍資金が目減りする毎日に焦りもあり、休みの日はアルバイトに没頭した。

あつし君は、就職活動に入った。当初からアメリカで働くことが目的で来ていた彼は、全米にCV(履歴書)をばらまいていて、オファーがあれば駆けつけるといったことを繰り返していた。最近、会ったのはいつだろう。確か2週間前だった。CVの印刷を手伝わされたが、彼特有の一種のやさしさで、CVの書き方を私に伝える意味もあったようだ。

「やすっち、ここ見てな。おれの経歴も様になっとるやろ。美しいCVの書き方をこれでも追及したんやで。」確かに、そこに書かれた経歴はなかなかのものだった。留学生アドバイザーも、「student supervisor」になり、ツアーガイドのアルバイトが、「tour coordinator & translator 」になっている。今回の渡米前は、日本の音響システムを扱う会社に勤めていたと聞いていたが、「 art director」になっている。経験豊かで華々しい経歴の持ち主なのかと勘違いしてしまいそうだ。

私が目をまん丸くして見ていると、

「やすっち。これ当然のことやで。アメリカ人は、できないこともできるっていうんや。できそうなことは、プロ級だという。そんでな、イスをゲットしてから後のことは考えるんや。」

それは、私もすでに痛いほど経験してわかっていた。アメリカ人とペアで課題を組んで大変な思いを何度もしたから。「できる、やる」といっておいて、土壇場で、「やっぱりできない」ことが何度かあり、結局私が徹夜で仕上げたこともある。欧米人の大げさな表現にもすっかり慣れた。でも、あつし君もか・・・

「あんな、アメリカ人だけじゃない、世界の人と仕事を取り合わなあかんので。きれいごというとられへん。おれはなんも嘘はついてないし、これは常識や。やすっちも見習っとけ。」

その夜は、いつもより饒舌だった。あとから思い返してみると、あれが彼からの「お別れのことば」だったのかもしれない、と気づく。

「おれさ、就職この近辺で探そうと思うてたんや。でもな、ほんまないねん。おれがやりたいと思う仕事がないのや。3年前、絶対アメリカで一旗揚げるって自分に言い聞かせたん、まだ覚えとるんや。」私の肩を引き寄せながら続ける。「やすっちも、就職活動するときは俺に聞いてや。これから、いろんなところにレジュメばらまいて、インタビューにいってくるわ。この町ほんまにすきやねんけど仕事ないのはあかんわ。」

ひょっとしたら、2人の今後のことについて何か言ってくれるのではないかと期待していたが、「ここには仕事がない、やすっちとは離れるけど、仕事さがさなあかんわ」、を連発するだけだった。私はただ「そうだね」と言うしかなかった。彼はいつもそうだ。私が口を挟む隙間など与えず、四壁を固めた言葉で言いくるめる。彼の言うことが最も正しいとすでに決まっているのだ。彼が、留学のために高額な奨学金を借りていて、返済に追われていることも何度も聞いていた。そう、彼は仕事をしなくてはならない。そのために私の元から遠くに行ってしまう。それだけのことだ。

その後、あつし君からの連絡は途絶えた。付き合っている、という言葉はなかったし、誰かに彼女ですと紹介されたこともない。30を過ぎた女子の屈折したプライドをうまく利用されたのかと、何も言わなかった自分を責める。結局「都合のいい女」を演じる自分を頭では理解していたくせに、認めないことで「自分は誰かに必要とされている」「自分は相手に理解のあるいい女である」と思いたかっただけなのかもしれない。新しい学期が始まってしばらくしたころ、あつし君の住んでいたアパートに行ってみた。そこには、大学で見かけたことのあるパキスタン人がいた。「あつし君は?」と聞くと、「あつし、就職が決まりそうだといって、身の回りのものもって西海岸に行ったよ。多分、シアトル?彼女がいるからって言ってた。」彼は、独特のアクセントがある英語で答えた。「もう戻ってこないの?」と聞くと、「わからない。この部屋はあつしから引き継いだ。まだ荷物は残ってるけど、使っていいよと言われてる。必要なら取りに来るでしょ。」これが、日本人だったら、私とあつし君の関係を多少なりとも想像するのだろうけど、目の前のパキスタン人は全く意に介さない。彼の訛りが頭にこびりついて言われていることはわかるが、頭がうまく回らない。

「あつし君、彼女のもとに行ったの?」一番聞きたくないことを聞いた。ここで、聞くしかなかった。

「そう、1年くらい前に、彼女がシアトルに引っ越したと聞いたんだ。資産家の娘らしくて、結婚してアメリカの永住権取りたいといってたから。」パキスタンの彼の口元がにやけているのにだんだん耐えられなくなった。「そう。あつし君とコンタクトとる機会があったら、やすこが訪ねてきたこと伝えておいて。」

世の中には、人を簡単に欺く人がいるのはわかっていたが、まさか自分がこんな風に、しかも最も信頼していた人に傷つけられるとは思わなかった。胸の中に大きな穴ができた。その日は、何も食べれず、ジンを飲んでも眠気も起こらず、一晩中「私は一体なんなのか」を反芻し続けた。

それでも、朝はやってくる。悲しいのか情けないのか、それとも怒りなのか、なんだかよく分からなかった。不眠と酒で頭がズキズキする。体に力が入らない。渡米して初めて、私は授業を休んだ。ジンのボトルが空っぽになってしまったところで、ベッドに潜りこんで、その日1日小さく丸まっていた。

急に日本の両親のことが思い出された。それまで、涙は出なかったのに、両親の顔が浮かんでくると体の奥から、涙が噴きだした。「あ~あ。またこの子は。この年で男に騙されるなんてかわいそうに。」両親が私を憐れむ姿が鮮明になると、あまりにもやるせなかった。そうやって客観視しなければこの事実を受け止められなかった。

うつらうつらと浅い眠りから目が覚めたのは、まだ外が明るい時間だった。鉛のような体を起こして、自分にムチ打った。「何しとんねん!」声をあげた。大阪弁でもなんでもいい。失恋は失恋だ。しょうがない。いや私は悪くない。でも、大学には行かなきゃ。休みは今日だけ!必死で次の行動を探した。まずは何かを食べて、体を動かそう。私はこんなことでぐずぐずしない。私は強い人間だ。

私の思考回路はゆっくりと動き始め、男に捨てられたという現実をなかったことにするストーリーが組み立てられつつあった。あつしとは付き合ってないし、そもそも誰も私たちの関係を知らないのだし、単なる留学仲間だ。何も今までと変わらない。「酸っぱい葡萄」の原理が私の中で作用し、そして動き始めた。「私は強い」と言い聞かせてきたこれまでと同じように、ここでも唱えた。「私は強い」

翌日から大学に行った。正直よく眠れずに頭痛が続いていたが、これで単位を落としてしまったのでは、自分という人間の存在価値までわからなくなる。一種の強迫観念ともいえる。今まで以上に、勉強に時間を費すことで、自分を励ました。私の部屋を訪ねる人ももういないし、私は今一人だ。いい成績を取ることくらいしか全力を傾けること以外に何あがるのだ。この時の成績はすべてS(優秀)だった。ただ、眠れない夜が増えるにつれ、飲酒の量が増え、クオーターが終わるころには急激に老けてしまったような自分の顔がそこのにあった。

出会い

このままでは、体調を崩すというのが目に見えていたが、夜中にふと、自分を包み込んでくれる人はもうどこにもいないという寂しさと自分の年齢を考えると、胸にあいた穴がうずいた。これを埋めるために酒で満たして、神経を麻痺させることしか私の中に解消法が見つからなかった。男なんて世の中いっぱいいるからすぐに次の人見つかるよ、と女友達に相談すればそんな答えが返ってくるだろう。実際そうなんだろうとは思う。過去に、私も誰かにそんなアドバイスしたこともあるような気がする。他人ごとは簡単だ。そんなに次の出会いがあちこちに転がっているなら、「婚活」なんて言葉はすでに死語だ。現実は、甘くないから、「結婚」にまつわる事件が後を絶たない。結婚詐欺も、重婚発覚も、不倫問題も、みんな「結婚モンスター」にとりつかれている世間の常識と言われている窮屈な価値観が生み出したものではないのか。ここから自由になりたくてもなれない、日本の社会観で育てられた自分は、どう生きていったらいいのだろう。私は一人になって、いやというほど自分の内面を知った。私は、あつし君と結婚したかったのだ。あつし君からいつ「結婚」の言葉が出てくるのか、常に待っていたのだ。自律した女を気取りながら、本当は、雑誌の「結婚したい」特集に出ている30代女子の代表みたいなやつだったんだ。

渡米してから1年が過ぎようとしていた。風の便りに、あつし君がシアトルで、彼女とよばれている人と同棲していると聞いた。

アメリカでの生活になれた私は、アルバイトを増やした。大学の留学生会館では、ボランティアアドバイザーをしていたあつし君の後任を探していた。ボランティアとはいっても、相応の報酬はあるため私がこれを引き継いだ。ずっと続けている日本食レストランでのウェイトレスと合わせて、週6勤務。これが私らしい生き方だ。忙しければ余計なことは考えずに済む。

新しい学期の授業登録を済ませ、教科書を探しに本屋に立ち寄った時のことだ。友人のミンにばったり出会った。「ミン、来期は何を取るの?」ミンは、おしゃべりだが、英語はあまりうまくない。考え込むようなそぶりで、いくつか講義名を挙げるが、いくつかすでに受講したものも入っていた。まあ、いつものことだと受け流して、じゃあまたねと言おうとしたとき、「ああ、そうだやすこ。実は、紹介したい人がいるんだけど。」と何かを思い出したように、いつもの甲高い声を発した。「紹介?なんで?だれを?」とっさに彼女のいっていることが理解できなくて、おもむろに単語を並べた。「私の夫の務めるラボに新しい人が来たんだけど、その人、仕事ばっかりしてるらしくて、一緒に出掛けてくれる女性をさがしてるのよ。」これまで、授業の話をすることはあったが、互いのプライベートについて話すことはなかったので、いかにも怪訝な顔になった。ミンは慌てて、「やすこって、交際してる人いるの?いるんだったら今の話なしで。」と付け加えた。ミンが申し訳なさそうな貌になっているのに気づき、「いないよ。出会いもないから。あってみるのもいいかもね。」とあまり興味がなかったが、「ありがとう。ぜひそのうちに。」と社交辞令を込めて答えておいた。

中国人に社交辞令がないことをこの時、すっかり失念していた。新学期が始まって、最初のクラスでミンと一緒になると、彼女は、週末の予定を聞いてきた。何の疑念もなく、単に予定帳を開くと、「土曜日はバイトが入ってる。日曜日は、15時以降はあいてるけど。」と答えた。ミンは、「わかった。じゃあ伝えとくね。日曜の夜はあけておいて。」と嬉しそうに言う。ぽかんとしている私を見て、「ほら、研究者を紹介するって言ったでしょ。」と相好を崩す。そこで初めて、ああ、そんな話があったなと思い出した。「研究者なんだ。」ぼそっと言うと、ミンは、堰を切ったように話しだした。「私の夫は、この大学のバイオロジー学部の研究者なの。詳しいことはわからないけど、新しい医薬品の臨床試験なんかを取り扱っているらしいわ。そこに、半年前に台湾人研究者が加わったのだけど、彼30代の半ばなのに独身なのよ。やすこっていくつだっけ?」「31よ。」「じゃあ、ちょうどいいじゃない。きっと、話が合うと思うの。実は、彼もパートナーを探しているらしくて、知り合いの中国人女性を紹介したんだけど、中国人とじゃ合わないみたいなの。台湾と中国の関係って微妙で、彼は、台湾でも日本よりの人だから。それで、私のクラスメイトに日本人がいるって話から、紹介を頼まれたのよ。」

彼女の英語の癖で、文頭によく「I think」がつくのが耳障りだったが、適齢期の男女を引き合わせようというおせっかいなおばさんは、どこの国にもいるのだなと、彼女の一生懸命な話しぶりを見ていて苦笑した。

そうして、私は日曜の夕食を台湾人の男性と一緒に取ることになった。彼の運転で、近郊のイタリアンレストランに向かった。


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