国際結婚の顛末・・・

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国際結婚の落とし穴は、いたるところに転がってる。安易にあこがれる女子たちにちょっとだけ警告。もっとも、私のような例は、希少かもしれないが。

最近の女子は、結婚にあこがれを抱くことも少なくなったのかもしれない。現実の生活はとても厳しいことをネット情報からいつでもどこでも受信・発信し続けられて、知識だけは詰まってるから。でも、私の適齢期のころは、婚活なんて言葉はなかったなあ。いつでもどこでも出会える時代なのに、人と人の関係性が薄くなったせいで、人生のパートナーを見つけるのは難しいのかもしれない。えらそうに語れるほどの半生ではないのだけど。

女子にとって、年齢の壁は常に厚い。30歳という節目を迎えると一種の脅迫に似た結婚モンスターの襲来を受けることになる。私もそうだった。

30歳で、青年海外協力隊から帰国した私は、のんびりとした南の島での生活から一転、人もモノも秒で動く日本の社会に忙殺される毎日に再び組み込まれていった。ゆっくりとお茶を飲みながら、明日の天気の話をしていた日常は瞬時に彼方へと吹き飛び、日々業務に追われる残業続きの生活となった。週末になると、定年を迎えて暇を持て余し始めた両親から、「結婚」「見合い」の話が繰り広げられ、のんびりと夕食を取ることができたのは、帰国後の数日だけだったなと述懐する。

「今度の人は、公務員やけん、安定しとってええよ。あんたと釣り合うと思うけん、来週あけとってや。」

「仕事が忙しいから、次の行事が終わるまで、ほっといてくれる?」

「そんなんいうて、時間ばかり過ぎるとよ。いい話はのってみんといけんよ。先方さんは、都合がええと言うてるから。それとも、誰かいい人でもおるんね?」

「そんな人はおらんけど、まだ、帰国して数か月やけ、仕事を軌道に乗せたいんよ。」

「まあ、会うだけあってみんね。どうせ、結婚ゆうても、半年以上先のことになるんやから。」

こんな形の話が続き、母に言いくるめられては、数回お見合いをした。相手の方には、甚だ申し訳ないが、私には、親に紹介された相手と「結婚する=一緒に暮らす」ということがイメージできず、回を重ねるごとに無口になっていった。

恋愛経験は人並みにあると思う。大学時代には、交際していた人もいたが、長く続かなかった。就職してからは、男性の少ない職場で出会いはなかったが、高校時代の同級生の誘いや、スポーツクラブで出会った人から声をかけられることもあり、自分が結婚できない、という不安はあまりなかった。まだまだ大丈夫、そんなおごりがあったのは確かだ。

こんな状態で、お見合いがうまくいくはずもなく、帰国後半年を過ぎたころには、母から少々行き遅れてしまった感のある娘に対する哀れみの視線とため息が漏れるようになっていた。

私の心の中にあったのは、次の野望だったのだ。「結婚」したくないわけではなかったが、青年海外協力隊まで行って磨いてきた自分の「行動力」や「コミュニケーション力」をこのまま片田舎で、結婚して普通の主婦になって埋没させていくことに反抗する気持ちが、どうしても消せなかった。同時期に、派遣された仲間たちの多くは、地元に戻って、元の生活に復帰していることはよくわかっていた。しかし、一部の国際志向を持つ仲間から、「留学することにしました」「国際機関で働くために研修しています」「JICAの専門家になります」といった情報が寄せられるたび、私はそちら側の人間ではないかという屈折した自尊心とねじ曲がったプライドだけが私の中にあった。

週末になると、図書館に通い、英語のテキストと格闘した。隊員として派遣された国は、英語圏ではあったが、当然のことながら英語で話す人などほとんどいなかった。結局、現地では現地語を必死で覚え隊員として活動を行った2年間だった。人口数万人の小国の言葉は、当然使い物にならない。帰国してから求められていたのは、英語だった。

「2年も海外に住んでいるんだから、さぞかし語学も堪能でしょうね。」

人は、時に自分と異なる経験を持つ存在を排除し、別の格付けを行うことで自分を守る。とりわけ私の経験に対しては、「すごいね」と「普通の女子は行かないところに行った」というレッテルで語られていたようだ。もともと、周囲の言葉を気にするほうではなかったが、負けず嫌いの性格は、変わることなく息づいていて、それが私の「英語習得」に点火した。


TOEIC、TOEFLと立て続けに受験した。結果は、自分でもどうとらえてよいかわからない程度のものだった。TOEICは、700点を少し下回った。リーディングはよいがリスニングに弱い。典型的な日本人のパターンで、文法訳読式の勉強を続けてきた成果が表れていた。TOEFLは、海外留学の目安得点にやや届かない。これが今の私の実力か・・・

週末だけの勉強では、足りないこともわかっていたし、勉強方法がどうしても自身の受験時のものを繰り返すのみで、苦手分野(リスニング)がおろそかになっていることもわかっていた。何のために英語を勉強しているのか、その目的もまだ明確になっていたなかったことも原因の一つだった。

そんな時だった。青年海外協力隊の訓練所で一緒に勉強した仲間から、「留学する」という連絡を受けたのは。彼は、訓練所時代、よくわからない問題を聞きに私のところに来ていた2つ下の男子。お互い野外活動が好きで、休日に山登りやテニスを楽しむ仲間の一人だった。派遣国は地球の裏側だったため、派遣中の2年間は連絡が途絶えていたが、帰国後再び連絡を取るようになっていた。

「これからはさ、英語とコンピューターの時代だよ。」

彼は、熱くそう語った。もともとPCの専門学校を出ただけあって、PCスキルはかなりのものだったが、2年、彼がアジアの小国で電気回線工事に追われていた間に、日本のPC性能があまりにも変化したことに驚き、帰国して買ったPCをバラバラに分解して数台ダメにしたと言う。彼ならやりかねないと苦笑していたが、あっけらかんと、コンピューターはソフトの時代になるよ、と使い物にならなくなったPCのお葬式を取り行うような人だった。彼は、どこで確信を得たのか、自信たっぷりに、「英語が話せないとだめな時代になるよ。」と言い、「だから、留学する。」と告げた。

私も、密かに英語を学んでいることを話すと、「え、やっちゃんも留学するの?」と聞かれた。確たる予定などなかったが、気づいたら、「うん、そのつもり」と答えていた。おそらく私の内部にくすぶり続けていたものが、にょきにょきと顔を出し始めたのだろう。

そうして、私の留学への模索が始まり、それから半年後に、合格通知を受け取っていた。行先は、クオーター制のある南西部の小さな州立大学。クオーター制を選んだのは、長期休暇がなく、単位履修が通常よりも早く、卒業までの時間が短縮できるからだ。近年、この傾向が薄れ、大学においても、様々な教養や社会活動をすることが推奨され、クオーター制度はほとんど見かけなくなった。私の通った大学も、現在ではセメスター制に移行している。ただ、当時の私としては、最小のコストと時間で単位取得が可能なこの制度は非常にありがたかった。

30歳からの米国留学。今では珍しくないかもしれないし、男子ならむしろ推奨してくれる人も多いだろう。当時、私の両親は、嘆き悲しむというよりは、理解できない、といったほうが当てはまるほどに、言葉少なくなった。周囲の反応は、様々だったが、肯定的でなかったことは肌で感じ取っていた。「外国かぶれ」「落ち着かない」「人生計画が立てられない」そんな視線が飛んできていたのはよく覚えている。「すでに婚期を逃しているのに、30歳を過ぎてまた外国に行くなんて、普通じゃないね。」同僚が、給湯室でこそこそと話をしていたのを思い出す。

安定した仕事を辞めて、新しい世界に飛び込む恐怖は、自分自身が一番よくわかっていた。今後の自分がどうなるかなんて、自分自身が全く分からない。勢いと負けず嫌いと向上心、そして奥底に横たわる自分への根拠のない自信が、結合した結果だ。「英語は必ず必要になる。」と信じることで、自分を正当化した。

出発は、誰にも知らせなかった。スーツケース一つで、成田空港から飛び立った。自分の決断に自分でエールを送り、その後の人生がどう転ぶかなんて何も考える余裕もなかった。

日本人の少ない都市、大学を選んだにもかかわらず、やはり日本人はいた。だが、日本という国を超えた場所でつながる「お国連帯感」は、異国で生きてく上では時として必要なことも多々味わった。合格ラインぎりぎりのTOEFLで渡米した私のリスニング力は、今思うと自殺行為に等しいほどひどかったと思う。電話の受け答えもできない、大学の案内所で相手のいっていることが分からないことはしょっちゅうで、何とか契約できたアパートに帰っては、落ち込み、留学など大それたことをしたことを後悔した。そんな時、一足先に留学生として基盤を作っていた10名足らずの日本人留学生たちは、オアシスのような存在だった。もっとも、一癖二癖あるような人たちの集まりでもある。いい大人が、学びに来ておいて「助けてください」を連呼したのでは情けない。負けず嫌いの性格はどこに行ってもやっかいだ。心のよりどころにしつつも、特に裏表の激しい女子には近づかないようにした。

30歳の留学と失恋

履修登録はすべて、コンピューターを通して行った。日本の国立大学を卒業してはいたが、英語力に自信がなくて、学部生に編入する形で授業を登録した。もっとも、当時の私の語学力では、中学生にだって編入することすら覚束なかったかもしれないが。ともあれ、全ての事柄を日本語に置き換えていく毎日だった。日本語で思考する脳、日本語で発信する脳は、今更変えられない。隣に座っている学生のワンテンポ後に理解していることのつらさは、数か月続く。教授のジョークも、全くジョークには聞こえてこない。「この世の中で、一番馬鹿なのかもしれない」と思えてくるほど、90分の授業がさっぱり理解できなかったこともある。

授業が始まって1週間後、私は、リコーダーを用意した。このままではどうにもならないと考えた末、毎回、教室の前の席に座り、授業をすべて録音することにした。90分の録音をアパートに帰ってから、何度も聞いた。ディクテーションして点と点、線と線をつなぐように教授の話を組み立てた。そして、ようやく授業の内容を把握する。内容が分かると、「え、そんなことだったのか」ということが多かった。一通りそれなりの教養は持ち合わせていたつもりが、言葉が変わっただけで、こんなにも苦労することが、滑稽であり情けなかった。理解できなければ教養などではない。私がこれまで身につけていると思っていたことは、環境が変わっただけで役に立たないものだということを思い知らされた。

それでも、日本に帰ろうという気持ちは起こらなかった。というより、帰れないという気持ちが大きかった。誰に強制されたのでもなく、自分が選んでここまで来た手前、「もうや~めた」と白旗を振ることなどできるはずがない。漠然たる自分の今後を案じながらも、今目の前にある課題をこなすことが、私にとっての最優先事項だったから。

留学2年先輩にあたる大阪出身のあつし君は、2度目の留学らしく流暢に英語を話していた。留学生のアドバイザーボランティアをしていた彼は、学部が同じだったこともあり、時折声をかけてくれた。一人でこもって、録音テープを聞いてばかりの私に向かって、「生で会話せんとあかんで。」と言い放つと、無理やり食事に連れ出されたこともある。「なんや、お前、年下やと思うてたら同じやんか。」最初から、ため口全開だったが、その後ますます言葉の壁は薄くなり、周りで聞いていたら、兄妹かと思うような言葉遣いになっていた。英語に疲れていた私には、あつし君の大阪弁は、とても心地よく響いていたのだ。

そんなあつし君にどうして私が惚れられずにいようか。

食べることが大好きなあつし君は、近隣のレストランにとても詳しかった。「おい、やすっち、夕飯まだやろ。うまい魚介いこか。」そういうと、もう前をすたすたと歩き始める。会話のテンポはアメリカ並みだ。「どうや?うまいやろ。もうほんまに幸せや。やすっちも幸せやろ。」そう、彼は、幸せの押し売りまでしてくれるのだ。そして、人の2倍は軽く食べる。支払いも豪快?だった。「店長。ほんまにうまかった。大々的に宣伝しとくし、人連れて必ず来るから、端数はまけてや。」彼の熱意ある英語は、妙に自尊心をくすぐる効果があり、たいていの店長は、まけてくれた。逆に、手持ちの多い時には、かなりのチップをはずむこともあった。

あつし君に心が傾くのはどうしたって止めようがないではないか。いつしか私は、あつし君に追いつくために勉強し、あつし君に胸を張れるように人と接するようになっていった。30歳からの恋愛で、こんなにも一喜一憂する自分の立ち位置が笑えてくる。自立した女子を気取っていたのに、一人の男子との出会いが、こんなにも大きいことが逆に怖かった。そして、この出会いが、私を崖から突き落とすまでにそう時間はかからなかった。

あつし君は、留学生の間では有名だった。持ち前の豪快さと巧みな会話術は、日本人離れしていて、身長180センチもの長身ともなれば、どうしても目立ってしまう。あつし君と私が急接近していることは間違いなかったが、男女の仲になったあたりからあつし君は、私と一緒にキャンパスを歩かなくなった。私が渡米してから4か月目のことだった。

秋休みに差し掛かっときのことだ。大学の中にある留学生会館で、国際イベントが開かれていた。あつし君がイベントのスタッフをしていることもあって、私も手伝いに参加した。そこでは、久しぶりに日本人留学生同士が顔をそろえ、久しぶりの日本語会話に花を咲かせていた。あつし君と同じころに留学してきたひとみさんは、芸術を専攻している小柄でややぽっちゃりした、話し方に特徴のある女子だった。おそらく私より少しばかり年下だろうか。日本語の話しぶりにはどこか幼さが感じられたが、意志のはっきりしていることは、文末の言い切り表現から十分伝わってきた。

「やすこさんさあ、あつしと仲いいって聞いてるけど、あいつには気を付けたほうがいいよ。」

ひとみさんは、テーブルセッティングを一緒にしながら、淡々と話しかけてきた。「来たばかりで、友達いなかったからご飯に誘ってもらっただけですよ。でもそれ、どういうこと?」私は、内心バクバクしていたが、人ごとのように聞き返した。

「あいつさあ、彼女いるくせに、手えだしてくるから。」私の手が一瞬止まった。「いいやつだとは思うけど、女にはだらしないよ。私も騙されたよなあ。」そういって、ひとみさんは次のテーブルを取りに倉庫に入っていった。

彼女がいる。ひとみさんにも手を出した。女にだらしがない・・・頭の中でぐるぐる言葉が回転する。確かに、あつし君が私のアパートを時折訪れるようになって、2か月になるが、最近はもっぱら夜半に部屋に来て、することして朝帰るというのが続いていた。都合のいいセフレ・・・ということか。いや、そんなはずはない。

恋は盲目というが、自分がそんなもの=セフレなんかにされているかもしれない、なんて考えたくなかった。腕枕をしながら耳元でささやいてくれるあつし君の言葉は、本物だと信じ切っていた。「オレ、やすっちみたいな美人とできるなんて、幸せや。」そうして、「オレ、卒業したらアメリカで一旗揚げたいってずっと思ってんや。オヤジがダメ男でオフクロしょっちゅう泣かせとんの、子どものころなんもできへんで悔しかったわ。」そんな思い出話を語ってくれた。心を許している証拠だと思わないほうがおかしい。

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