『イラスト奮闘録。イラストレーターになりたい、と走り続けた日々の物語』第18章「イラスト人生、上手くいかない時は」

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前編: 『イラスト奮闘録。イラストレーターになりたい、と走り続けた日々の物語』第17章「イラストレーターに向いていない、かもしれない」
後編: 『イラスト奮闘録。イラストレーターになりたい、と走り続けた日々の物語』第19章「活動再開。イラストエッセイ本を作る」

その1「大きな仕事!しかしチャンスは指先をすり抜けて逃げた」

俗に言う「3年間の大殺界」の最後にあたるこの年、
生活のために続けていた、アート施設での仕事の
ストレスはすでに頂点に達していました。
なのでもう、いつ職場を去ってもいい様にと、
イラスト活動の方面で営業を強化しよう思い、
色々と動き始める事にしました。

施設での作業は、学芸員の資格をもっていたせいか
環境が良い時は働く体制も十分に優遇されていたので、
お給料は高くはないけれど、とりあえずの生活は
安定しました。
なので一時は「ここで昇給して社員にして頂いた方が、
今後の生活も安心でいいかもしれない」と考えていた程でした。
けれどそこで重宝されて忙しくなればなるほど、そして生活が
安定してくるほど、今度は逆に「一生懸命頭を下げてまで
イラストの営業に出よう」とは思わなくなりました。

もしも今もあのまま、あの職場で、何の問題もなく
働けていたら、私はずっとぬるま湯につかったままの
もっと中途半端なイラストレーターでいたかもしれません。
若しくは活動する時間が取れずに、辞めてしまったでしょう。
しかし幸か不幸か、その安定は長くは続きませんでした。
当時、その職場全体が抱えていた、人間関係の癒着や歪みが

日増しに大きくなっていき、徐々に働きにくく

なっていったからです。

そこで前述の通り、イラストの営業活動を
始めたわけですが、その甲斐あってか、この年は
とても大きなお仕事や、魅力的な企画の話を多数、
打診されました。
例えばそれは大手新聞社での大型連載だったり、
私の特集ページが組まれた本の制作だったり…。
どれもキラキラ眩しいぐらいに、素敵な話ばかりでした。
またそのどれもが実現したら、間違いなく代表作になる位の
規模でした。けれどそれらは打診されたまま、企画としては
実りませんでした。

中には役員面接を経て、8割方は決まったかのように
見えた案件でも「前の連載が延びる事になり、新しい企画を
開始する時期が不透明になった」などの理由で、ことごとく
消え去りました。

そんな事ならむしろ、初めから何もなかった方が
精神的にはずっといいです。大きな話に期待した分だけ、
がっかり感も大きかった。ああ、ダメな時は本当にダメだな。
悔しいぐらいダメだな。
何処をむいても、なんの追い風も吹いてこない。
そんな切ない時期が、まだしっかりと続いていました。


その2「しなやかに、逃げると言う事」

あと一歩という所で、夢見ていた企画が
去ってしまった事は残念ですが、この手の話は
実は割とよくある事です。でも困ったのは、
今回イラストの企画が通る事を見越して
アート施設でのシフトを先に減らしてしまった
事でした。

なので仕事がなく、お金も入って来ない状況に
なってしまいました。けれど、この時期にはもう
その仕事場で働く事が、辛くて辛くて限界でもありました。

あまりにたくさんのストレスを抱え過ぎて、ついには
声が出なくなったり、体があちこち痛くて悲鳴を
あげたりしました。このままここで働いていたら、
頭が禿げてしまうかもと思うほどに、不当な嫌がらせを
受け続けた厳しい状況でした。

なのでシフトが激減した時、もう辞め時かもしれないと
決心がつきました。「私はこの職場で、今まで重宝に
されていると思っていたけれど、別に私がいなくても
ここは普通に運営できているじゃないか」と。

そこで時間だけは出来たので、今度は気分転換と
勉強を兼ねて、ギャラリー巡りをしに出掛けました。
ちなみに仕事で活躍している時は、行く先々で
「作品見たよ」とか「すごいですね」と、ありがたい声を
かけられますが、この頃はその逆でした。

あるギャラリーでは初対面の若い作家さんが、
私が名前を記した芳名帳をちらっと見て、その上で
「絵を描いている方ですか?」と、声をかけてくれました。
イラストレーターになったばかりの頃は、よくそう言われたな。
でもいつの間にか、この世界にも知り合いが増え、
作品や名前を覚えて頂いただく内に、そう聞かれる事は
ほぼ皆無になっていました。

なので「ああ、私、またしてもふりだしに
戻っちゃったんだなぁ」と思いました。
せっかく、ここまでコマを進めてきたのに。
どうしていつも、この先に、これより上に行けないんだろう。

けれど負け惜しみに聞こえるかもしれませんが、
そう言われる事はそんなに嫌ではありません。
むしろ言われるたびに、己の自惚れをたしなめられて
「調子に乗っているなよ」「お前なんてまだその程度
なんだから、威張るなよ」と、誰ともなしに
増長を抑えられている様な気もします。

そしてそういう時は、大抵「そうですね。絵は趣味で
ちょっと描く程度ですね」と言って微笑みながら
素人の振りに徹するので、相手に気負いや
余計な詮索をされる事なく、のんびりと作品を
見せてもらえます。

そして一人、帰り道で思うのです。
「今までは『頑張って活動しないと、成果を出さないと、
停滞しちゃう』とか『そうしないと忘れられちゃう』と
思って焦っていたけれど、世間様はとうの昔に、
私の事なんか忘れているじゃないか。と言うか
元々その程度の認知度なんだから、気負う必要
なんてないんだ。また一から「新人です!」と言う
気持ちで、新たに積み上げていけばいいんじゃないかな」と。

それに例え、忘れられたり、ふりだしに戻って
しまったとしても、今まで築いてきた人間関係や
仕事の実績までは、消えてなくなるわけでは
ありません。「なんとなく土台のある新人」と
言う感じで、また初めから活動すればいいだけ、
とそんな事を考えていました。

こんなストレス過多な時期に相変わらず
私を支えていたのはヨガと絵を描く事でした。
「ヨガがなかったら、正直私は危なかったかも
しれないな」と、後になってから度々そう感じました。
何にしても、逃げ場があるのは良かったです。

「逃げること」は負けではなく、自分を守る事。
道はまだ長いから、ここで折れるわけにはいかないのです。



その3「展示と仕事と」

その年の8月、再び青山のギャラリーから
絵本の展示会に誘われました。そしてそこで
お知り合いになった出版社の方から年末に、
お仕事を頂く運びとなりました。
これは実に、2年4か月ぶりのイラストの仕事でした。
正直ドキドキしました。「仕事の段取りって、どうだっけ」と
言う感じで、気分はすっかり新人です。

ところがこの作業、教科書系のしっかりした
出版社さんが相手でした。なので仕事内容も、
教室に貼る姿勢図ポスターと言う、子供たちの
見本となる作品でした。
これは相当厳しい依頼でした。

当然ながら作品は1ミリのずれも許されず、
ラフはどれも赤ペンでびっちり修正されました。
余りにもきちんとしたものを要求され続けたので、
途中で「これはもう私には無理かもしれない」と、
初めて弱音を吐いた位、本当に厳しかったのです。

そしてちょうどこの時期、4年近く自宅で
介護していた父が、大手術をしていました。
右足の指が壊疽を起こしたため、そこから毒が
体に回って様態が急変、まさに生きるか死ぬか…
と言うシビアな状況でした。

足を切断する手術をすれば、持ち直すかもしれない
けれど、果たしてその手術に弱った父が
耐えられるかとどうか…。なので家族は
頻繁に病院に駆けつけ、仕事の電話も
病院のロビーで受けていました。
「家族の具合が悪く、今は病院にいます」と言う
プライベートな事情は、なかなか先方に
言えなかったので、平静を装った受け答えを
していただけに、精神的にはこの時期が一番
厳しかったです。

そして父はこの頃には、介護の負担も加速度的に
増してきていて、もう自宅で生活させるのは
限界だと言う状態に。家族もかなり疲弊していました。
夜まともに寝られない、外出もままならないなど、
体力的にもきつかったのです。

色々な側面がどん底でした。
色々工夫したり気持ちを切り替えて、この不遇な状況を
乗り越えようと頑張ってみたけれど、とうとう自分の
運気や精神面の底辺に触れた気がしました。


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