ニューヨーク滞在1年半の予定がまさかの半年で強制帰国

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マンハッタンのミッドタウンでようやく仕事が始まった。そこは日系の会社。日本人が多い。でもなんか日本にいる日本人たちと違う。サバサバしすぎている。そんな違いを楽しんでいると、英語で会社に電話がかかってくる。何をさっぱり言ってるかわからない。「Okay」と言ってとりあえず切る。やばい。英語がやばい。昼休みにスタバでコーヒーを頼む。「こーひーください。」「は?」「コーフィーください」「は?(怒)」「カーフィーください」「。。。」。やばい伝わらん!

そんなスタートだったが人間はすごいもんで、段々慣れてくる。ちなみに有給インターンシップでの給料は月に15万円。学生時代のバイト代よりお金がない。なのに生活費は日本より格段に高い。ということで予算の上限を3万円と決め、ダメ元でアパートを探すことに。すると不動産屋も「嘘でしょ」と思うほどの激安な物件を発見。人死んだんちゃうか、と思える価格。

なんと2万8千円!!

行ってみると「地下室」「4畳半」「窓なし」「シェアハウス」「ネズミ出る」の特典つき。とにかく安い。奇跡の物件。そして他の物件も見ず、はじめに見たこの物件に即決することに。のちに友人はこの物件をプリズンという愛称で呼ぶことになる。

そんなこんなで2ヶ月が過ぎたある2011年3月11日。震災が起こる。ユーチューブになる。なぜか涙出る。何かしたいと決意する。ニューヨークの自分がやるべきこと。金、じゃない、物資提供、じゃない、日本へ行く、じゃない。それは日本にいる人がやった方がいい。俺がやるべきこと。そこで思い出したあること、意外にも優しかったニューヨークの声。スタバでエレベーターで道端で心配そうに話しかけてるくれる。白人も黒人もアジア人も。素直に嬉しかった。これを伝えよう。そして80人の笑顔とメッセージを集めた動画はユーチューブに掲載し、5日で10万に届けることができた。

「【元気玉】日本中へ届け。世界からの応援メッセージ。」

この経験から俺は日本のためにできることをやろうと思い始める。ニューヨークに来て感じていた、よく分からない自由さ。それは突き詰めれば選択肢の多さだと感じた。日本との違い。それは「違うことが当たり前なニューヨーク」と「同じことが当たり前な日本」この差だと。もっと幅を伝えたい、もっと生き方の選択肢を伝えたい、そう思って「海外挑戦者の溜まり場」というサイトを始めることになる。

同時に今の仕事にも疑問を感じるようになる。 もっと自分の力が出せる場所はある。そう決意してから3ヶ月後大きな事件が起こる。

「10日以内にアメリカから出て行ってください」

英語で突如送られてきた文章。送り元はビザを発行している団体だった。10日以内に出て行かないと不法滞在になりますと。なぜこうなったか。それは転職をしようとしたから。今の会社ではなく完全成果報酬の会社の移ろうとした。そっちの方が自分の力を出せると思ったからだ。エージェントも通し、手続きに問題ないと言われ離職届けを出す。そしたら最後はエージェントにも裏切られビザ剥奪という結果になったのだ。

海外では自己責任。自分の甘さを知るとともに、信じる人は選ばなければ生きていけない。みんなが「良い人」の日本とは全然違っている。そういうことを痛烈に感じた僕は、ブルックリンの先にある海へ向かう。今後の進路を考えないといけない。特にニューヨークにこだわってるわけではない。ニューヨークを機にいろんな世界を回る。そして世界を知る。その思いからすれば、次はオーストラリア、ヨーロッパ、アルゼンチンなど多くの選択肢が見えてきた。まだ25歳、なんでもできる!色々と海と向かい合い考えた結果、頭ではなく心の奥底で湧き上がってきた思い、それは

このままニューヨークの出たのではさすがに中途半端すぎだろう

という悔しさだった。

この決断からニューヨークの家を解約することをやめ、一度日本へ帰り3日後に観光ビザでニューヨークへ戻ってくる予定を立てる。なぜ日本で3日だったのかといえば、震災のあった石巻に行くためだった。ここで見た光景は想像を絶した。今の自分にできることは少ないが、自分は将来日本を背負って立つ人間になり、日本を救い、正しい方向に導かなければならない、そう強く思った。何もできない自分に憤りを感じながらも、目指すべく自分に近づくためにまずはニューヨークへリベンジしに舞い戻る。

前回のインターンシップビザと違い今回は観光ビザなので働けない。雇ってくれそうな会社へ行き、お金はいらないので働かせてください、と頼み込む。こいつは使えると思ったら就労ビザください、と。そこからがむしゃらに働く。コネクションも知り合いも何もいない中でのニューヨークだったので自分でお客さんをつかまえられない。その会社は完全成果報酬の不動産会社。自分で客を持ってこなければ成果も出ない。そこで謎に韓国人マーケットに絞り、広告活動を開始。その後、車内で韓国王子と言われるほどの成果をあげる。韓国話せないのに。

なぜかうまくいった結果、俺は就労ビザ獲得することになる。

日本で朝9時から夜の3時まで働いていた自分とはうって変わり、好きな時に好きなだけ働けるスタイルはかなりの自由を感じた。日本で働いてた時も好きで働いていたので、全くの不満はなかったが、自由度でいえば今の方が高い。それは新しい感覚だった。もちろん金は死ぬほどなく、毎日1ドルビザを食べ続けた。そのピザに乗っているチーズは本当はチーズではないと言われてるほど健康に悪い代物だった。

そんな極貧生活を続けながらも不動産英語にも徐々に慣れ、ユダヤ人やアメリカ人、中国人、韓国人、エクアドル人、アフリカ人などなどニューヨークらしくあらゆる人種と仕事ができた。このニューヨークで学んだこと、日本と世界の違い、日本のいいとこ悪いとこ、こういうことを様々な形で発信していくようになる。

自分が何かに目覚めた瞬間だった。

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1000日間世界100ヶ国の夢を捨て、ニューヨークで勝負を賭ける

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