救われた命 消えてゆく命

疎開先には三方を雑木林で囲まれた、灌漑用の貴重な池があった。50mx20mくらいであった。横浜市と東京都が背中合わせになっている場所だった。


池と用水路には、蛋白源となる多様な生物が生息していた。ふな、ざりがに、食用蛙はもとより、うなぎや鯉もいた。たにしや烏貝、どじょうも多くいた。農薬散布などないころのことだ。

どの種も稚魚は獲るな放流しろと、兄から厳命されていた。忠実に守って捕獲した。

雑木林の一角は崖になっていた。ここを除けばあちこちから釣ることも網で掬うことも可能であった。が、車のタイヤチューブを浮き輪代わりにして、がけ下まで行くのが私の特技であった。ごつごつした岩場のかげには大物がいたからだ。

蛋白源はひと晩、井戸からくみ上げた水を金だらいに入れ、泥を吐き出させた。


疎開者の子は高校まで進学するのはわずかであった。多くは中卒で就職する時代背景であった。

遊泳は禁止されていたが、中学生と小学生には夏ともなるとかっこうの水泳池となる。何も娯楽らしきものはなかったから、在の人も親たちもきつくは言わなかった。持ち帰る豊富な自然の恵みに魅力があったからかもしれない。記憶をたどってみても事故が起きたことは覚えがない。


小学5年のことだった。遊び仲間3人で池に向かった。Iという同級生のにいさんは中学3年で野球部員。この人も自転車であとから来た。

体が大きくてがっしりした体格をしていた。公式試合を控えていたため夏休み中も練習に明け暮れていたが、この日は休みだとのことだった。


池に張り出すようにして松の木があった。誰が高いところから飛び込めるかを競いあった。ほかの子らも含めて仲間内の序列を決める儀式でもあった。

無鉄砲な性分であったから誰よりも高い枝まで登りダイビングした私。着水時に脳震とうを起こしてしまい浮き上がれなかった。異変に気付いたIが、にいさんに知らせてくれた。

にいさんは岸に上げ水を吐かせてくれた。命を助けられたのだった。

野球部の練習休みがなかったなら、にいさんの素早い行動がなかったなら、今の私は存在しない。


昭和34年、中卒で鉄工所の電気溶接見習工として就職した。Iはにいさんが運転手になっていたこともあって高校に進学した。私の兄も同職であったが、援助はしてくれなかった。運送会社の寮に入り家に戻ることもなかった。

見習工で悶々としていた私は16になるのを待って、免許を取得して運転手への道を選択した。

当時、若者が稼ぐにはもっとも安易な方法であったからだ。4つずつ離れて妹と弟がいたこともあって、迷うこともなく運転手になったのだった。


この時代の会社の慰安旅行と言えば熱海が主流だった。21になったら二種免許を取り職場替えをするつもりであったから、この運送会社では最後の慰安旅行であった。


夕食後、数人で街に繰り出した。みな酔っていた。故山口 瞳氏のエッセイで知っていたトリスバーの看板のある店に入った。5,6人の先客がいた。下地が入っているだけに最初から我々は行儀が悪かった。ママらしき女からたしなめられたが、無視して傍若無人に振舞った。

先客の30近い男が我らの席に来た。

「も少し静かにできないか。酒がまずいじゃないか。」

普段から呑むと誰彼なく絡む素晴らしい才能をもった男がいた。喧嘩ごしの大声を出して反発した。バー内の雰囲気が一変した。影までもが汗をかくかのように緊迫した。

するともう一人の男が立ち上がった。

俊介、座ってろ、先輩らしい男が強い口調で止めた。

しゅんすけ、Iの兄さんと同名だった。目を凝らすようにしてみた。溺れてしにそこなってから15年が経過していたが、体がひと回り大きい。四角い顔。間違いなかった。

しゅんすけさん、思わず叫んで走り寄った。

5つだった私を覚えている訳がない。

「ほんざん池で助けてもらったガキです。はたちになりました。あのときしゅんすけさんは誰にも話すなと言いました。親にも話しませんでした。礼にもゆかなかったご無礼を許してください。」


素晴らしい才能をもった男は居心地が悪かったのであろう、そそくさと店を出て行った。


ママが席をひとつにしてくれた。しゅんすけさんの真向かいに座った私はことのいきさつを、灰汁が吹きこぼれるように話し続けた。一般家庭にはまだ電話が普及していなかった。会社名を聞いてメモした。

ホテルにどうやって戻ったのかもわからないほどに、痛飲した。


1年が過ぎた。念願の観光バスの乗務員になった。報告がてら俊介さんの会社に電話した。

小児科医に胃の全摘手術をされたような、信じられない事実を聞かされるはめに陥った。

2か月前、独り暮らしのアパートで脳卒中にて死亡したとのことだった。

しゅんすけさん、26年の生涯であった。


Iに連絡を取るため同窓会名簿を探した。幸いなことに電話番号が記載されていた。

墓地の場所を尋ねた。案内してくれるとのことだった。

しゅんすけさんが好きだというバーボンを買った。

助けられた私が生き残り、助けてくれたしゅんすけさんはもうこの世にはいない。


こんもりとした林がすぐそばにあった。せみ時雨がしきりな日であった。

Iと2人そしてしゅんすけさんと、バーボンを呑み交わした。

助けられた私が生き残り、助けてくれたしゅんすけさんはもうこの世にはいない。


兄はけっきょくのところ戻ることはなかった。この世にいるのかどうかさへ判らないままだ。。

そんな兄の後輩が東京拘置所内の0番地にいることを知った。消息を尋ねるつもりで面会に行ったが、死刑囚については親族以外は駄目だと言われた。

死刑確定囚となってから18年になろうとしている。再審請求も続けているが、確定後20年が目安だそうだからいつなんどき、執行が行われても不思議はない状態におかれている。


手紙を3度書いてみた。当人からは返事はないが、読んでいることは間違いないようだ。

それというのは親族らしき人からはがきが届いた。誰からも見放されてしまっているので、外部からの通信には関心をいだいているとのこと。しかしこのはがき、住所は存在しないところであった。氏名そのものも偽名であろう。

死刑囚執行の条件は、健康状態でないと執行がなされない。精神異常を装っているらしい。排泄物を丸めたりあるいは食ったりして。

このような状態では兄のまともな消息などおぼつかない。手紙を出すのもやめた。

齢を重ねてくると欠かすことのできる義理は欠いて生きるしかない。


波乱百丈ほどの人生であったが、過去のつれづれを思いつくままに書いてみた。












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