忍び寄る影
《これまでのあらすじ》初めて読む方へ
あることがきっかけでショーパブ「パテオ」でアルバイトをしている大学生の桃子は、少しずつ頭角を表し店のナンバーワンを目指していた。ところが恋心を抱いていた佐々木が突然店を辞め、店を取り仕切る立場の玲子に裏切られていたことを知った桃子は、玲子をいつか見返すことを誓う。そして、ついにナンバーワンの座を手にした桃子はオーナーの川崎に取り入り、玲子をパテオから追い出し、本当の意味でパテオの頂点に立ったのだ。
手が…
無数の手が
私の髪に腕に絡みつき ほどけない
手という手から
憎悪、そして悲しみと怒りが込められていた
時々、爪が私の頬や腕に鋭く刺さる
この手は一体誰の手何だろう
もがきながらも
半ば抵抗を諦めかけていた
顔をわずかに傾けたその時
それが少しだけ視界に入ってきた
薄汚れた灰色のその手は
どこにそんな力があるのか不思議なくらい
意外なほど、細く しなやかだった
私はハッとなって上体を起こした。
部屋の中は、カーテンその隙間から溢れる陽の光で十分に明るい。
また あの夢か…
久しぶりに見た
私が髪をかきあげ、しばし呆然としていると
半分開いていた寝室のドアから
川崎が顔を出した。
派手な、えんじ色のスーツを着てネクタイを締めている。
「おう、起きたか。大丈夫かお前、うなされてたぞ。
なんか嫌な夢でも見たか?」
「うん。嫌な夢…たまに見る」
「ふん、どんな夢だ?」
「思い出すと怖いから言いません」
それに言葉でうまく説明できない。
すでに頭の中から夢の記憶は薄れていた。
「もう、出かけるんですか?」
「ああ、新店舗の打ち合わせだ。
あの店長任せじゃロクなことにならねえからな」
「昨日遅かったのに」
「不思議なもんだよなあ。歳とったせいか
遅く寝たのによ、朝どうしても目が冴えちまう」
私はプッと笑って川崎を見た。
「まだそんな歳じゃないでしょ」
まあな、川崎も笑った。
私は彼の実年齢を知っているわけではない。
50歳手前くらいだろうか。
考えて見たら、生き別れの父と同じ歳くらいの男なのだ。
そんな男と自分が半同棲状態だなんて、おかしなもんだ。
私が起き上がりドレッサーの前に座り、ブラシを手に取った。
「あ、そうだ。杏」
少し低いトーンの声に私は振り返った。
「お前、セイラのこと辞めさせたって?あと
他の3人も。佐野から聞いたぞ」
川崎の顔は経営者の顔に変わっていた。
決して機嫌のいい顔じゃない。
「仕方なかったんです。実は前から思ってたんだけど
彼女たちって下品すぎる。立ち振る舞いから言葉使いまで。
わざとパンツ見せたり、ガハハって笑い声もそう。
おまけにネイルは魔女みたいにゴテゴテだし。パテオの評判
落としかねない存在だったから」
知らず知らず、早口になっていた。
川崎の視線は冷静に私に注がれていた。
経営の鬼には私の心は全部読まれているだろう。
「ま、人を選ぶってのは大事なことだけどよ。
あいつらだって指名客いたろ?後先考えてやれよ。
数足りなかったら元も子もないねーんだからな」
「分かってます。今日、早速3人の面接入れました。
あんなコたちの代わり、すぐに見つけますから」
「ま、そこはお前に任せるけど。お前は経営者じゃねんだから。
知識も何もないだろ。その点は佐野の意見も聞けよ、ちゃんと」
「はい」
誰が、あんな男の指示なんか…
内心思いながら、川崎を玄関先まで見送った。
部屋の戻って服を脱ぎ捨て
ジャグジーに浸かった。
泡のボコボコ弾ける音と感触を感じながら
私は宙を見上げた。
佐野のやつ…あの爬虫類男
川崎に色々告げ口してるんだ。
佐野は確かにパテオで一番長いボーイだ。
私のやることにもいちいち口を挟んでくる。
オーナーである川崎からに信頼が一番厚い男だ。
佐野を勝手に辞めさせたりなど許されないだろう。
私はバスローブに着ると迷わずキッチンへと向かった。
そして、真新しいキッチンの白い棚の奥から
たくさんの食品を取り出すと、リビングのソファに座り
片っ端からも開封していった。
当時、私は密かに経営や経理の勉強をしていた。
パテオの頂点に君臨したとはいえ
知識の1つもなければボーイやホステスたちは
私をただのパテオのお飾りとしてしか見ないだろう。
私は絶対的主導権を握りたかった。
だから、下っ端時代の私をイビったホステスや
私の出世に批判的なホステスは目障りだった。
だから、玲子が辞めて以来
既に10人近くのホステスを入れ替えてきた。
セイラも元は佐々木と同時に店を出た、あの野蛮なカナの仲間だった。
私の考えに、いちいちツッコミを入れてきたり
反抗的な態度なので、お客様を怒らせたという理由を
でっち上げて辞めさせた。
遅刻や早退も厳しく取り締まり服装にもダメ出しした。
「ねえ、今さっきの接客なんとかならない?
渋谷にたむろしてる女子高生じゃないんだから」
私の言葉に、20歳のホステスはショックを受けたように黙り込んだ。
先日は5歳上のホステスの服装と体型を指摘した。
「そのドレス、ちょっと品がないかなと思います。
それに、体型に合ってません」
要するに太っているので服がピチピチなのだ。
彼女は顔を赤らめて
「最低。そういうこと、本人目の前にして言うなんて」
と言い、更衣室で着替えて出て言ったきり戻ってこなかった。
確かに私は威圧的で心のない態度だったかもしれない。
今思えば、当時の私は自分より年上や経験値が多いホステスに
バカにされたくなくて、認められたくて必死だったのだ。
ただ、若さゆえ客観的な視点などすっかり失ってしまった私は
歯止めが効かなくなっていた。
ショーの度に、前日の指名の数など考慮して
メンバーの立ち位置を変えた。
これには多くの批判を浴びた。
「杏さん、立ち位置ごとに振り付けも違うし
いくらなんでも毎回はキツイですよ」
佐野の咎める声があったが私は無視した。
ここで曲げてしまっては、私の面目が丸つぶれだ。
「私だってショーのメンバーです」
みんなが黙った。これも私がこの店のナンバーワンで
オーナー川崎の寵愛を受けていると周知されているためだ。
ただこんな一方的な小娘の思いあがりに
数十人のスタッフが黙っているはずもなかった。
栄光の翳りは、頂点に立った瞬間からすでにあったのかもしれない。
そんな私に対する批判は思わぬところからもあった。
私が待機中にあるホステスに接客のことで注意していると
ちょうど、彼女の反対隣に座っていた若いホステスが
私に非難の目を向けてきた。
「でも、個性を潰すのってどうかと思います」
意外な相手に私は一瞬戸惑ったが、冷静に言った。
「相応しくない個性は出さないでもらいたいって言ってるの」
「いろんなタイプの子がいるから
お客様は楽しめるんじゃないですか?
それがギャルっぽいアゲアゲの子でもいいと思います」
「そう言う子は、そういうホステスが集まった店にけばいいじゃない」
私の言葉にミユは半ば呆れたように
「そうですね。個性を一切消してホステスがみんな同じ
でもいいっていうんならアリですね」
私は、何も答えずその場を後にした。
常連客の相手をしながら内心、動揺を隠せなかった。
小刻みに体が震えていた。
あの美しい睫毛が、陶器のような肌と澄んだ瞳が
頭から離れない。
19歳になったばかりのミユは綺麗になったと評判で人気が急上昇していた。
すでに先週の月例会で彼女はナンバー2に輝いた。
その時の嬉しそうな笑顔が天使そのものだったと
後でボーイがキッチンで興奮気味に話しているのが聞こえた。
その時私は、何かに打ちのめされたような気分になった。
店のことに意識がいっていたせいもあるだろう。
私の指名は少しずつ減っていた。
月例会の時点で
ミユの指名数はもう私に並ぶほどになっていた。
私は呼吸を整え何も考えるなと念じながら
ピザやサンドイッチをどんどん口に運んでは水で流した。
思えば私の過食嘔吐はその頃から始まった。


