ボクとアニキの起業物語 ~町工場から医療機器の会社を立ち上げた話~
医薬品事業 経営戦略企画
アシスタント・バイス・プレジデント
これはボクがシンガポールのベンチャー企業に勤務していた時の肩書きである。正直、何をしているのか?、偉いのか?偉くないのか?良くわからない。
そして今は…
カーターテクノロジーズ株式会社
代表取締役
アシスタントもバイスもなくなり、いわゆる一つの「社長」となった。ただ、なんの会社の社長なのか…相変わらずわかりにくい。
ボクはシンガポールにいた。
ボクは、もともとは国内の大手製薬会社の製造部門で働いていたが、色々あって新たなキャリアを目指し、医薬品や医療機器の開発を行うベンチャー企業に飛び込んだ。昔からボクは山っ気が強く、人とはちょっと違った道を好むタイプ。中学を卒業して、わざわざ埼玉県から栃木県の高専に入学したのもちょっと変わっている。この頃から何となく普通の人生よりもチャレンジングな人生を目指していたのかも知れない。結果、ボクの人生はいつもジェットコースターのように山あり谷ありの刺激的なものになっている。
シンガポールでの仕事は順調にはいかなかった。何よりも英語があまり得意でないボクは現地の同僚とのコミュニケーションに苦戦していた。そんな時、ボクを救ってくれたのは、ガンという名の中国系シンガポーリアンである。彼の年はボクより1コか2コ上、世代が近いということ、加えて彼も英語がそれほど得意ではないこと等、共通項がいくつかあり意気投合するのに、そう時間はかからなかった。仕事が終わると、ガンと夜の街に繰り出し、観光客ならば絶対に行かないようなお店で、食事をし、酒を飲んで楽しんだ。
そんな中、徐々に現地の同僚ともコミュニケーションが取れるようになり仕事も少しずつ回り始めた頃、帰国命令が下った。ボクの勤めていた会社はシンガポールに本社がありその子会社が日本にある。もともとボクは日本の子会社に就職して、シンガポール本社に転勤になっていたので、日本に戻れとのこと。実はこの頃、会社は資金繰りが大変で、お金のかかる駐在員を帰国させ経費を圧縮しようとしていた。
日本に戻ってからは給与のカットや購買品の制限等、徐々に会社の経営状況は悪くなり、ついにリストラも始まった。ボクは少しずつ新しいキャリアを探すことを始めた…。
ボクが生まれた場所。
ボクが生まれたのは埼玉県にある松伏町という小さな町である。読み方でよく間違えられるのだが「マツブセ」ではなく「マツブシ」が正解。現在も電車が通っておらず、田んぼや畑が目立つのどかな田舎町。最近はゴルフの石川遼くんの出身地として少しは名が売れ始めたが、それでも同じ埼玉県民でも知らないと言われるぐらいマイナーな場所だ。(その頼みの石川遼君も最近は成績が振るわず、松伏町の知名度も低下しつつある)
この松伏町にある関根製作所という小さな小さな町工場の次男としてボクは生まれた。関根製作所はボクのオヤジが脱サラして立ち上げたプレス金型の製作所である。オヤジは中学を卒業後に小僧として金型工場に住み込みで働き出し、30歳頃に会社を辞め自分で事業を始めた。
家の横にトタンで作った作業場にいくつかの中古機械を並べてオヤジは1人で仕事をしていた。ボクが子供の頃は、自宅の工場の経営状況など知る由なかったが、家族4人が特に不自由なく暮らせていたことから、何とか経営できていたのではと推察する。小学生の頃、ボクの家の工場が社会科見学の場所となりクラスのみんなが見学に訪れた。みんなが感心しながら機械を見学していたところに数々のオモチャが登場する。当時、オヤジの工場はオモチャの金型も手掛けていたので、この日はオヤジのおかげでボクはクラスの人気者になれた。
そんなほのぼのとした毎日も時が過ぎ、否応なしにオヤジも老いていった。関根製作所の事業が拡大することはなく、ボクの2つ年上のアニキが加わっただけで、関根製作所は2人で事業を推進していた。ボクがシンガポールから帰国した頃は、関根製作所の経営状況は必ずしも良いものではなかった。リーマンショックや海外への製造拠点の移転等、個人事業の金型製作業には、あまりにも厳しい経営環境であった。それ以上に長年の仕事がオヤジの身体へダメージを与え続けていたことから、オヤジは体調を崩し入退院を繰り返すようになっていた。個人事業にとって、働き手の離脱は直接的に経営状況の悪化を招く。アニキは1人で金型製作からプレス作業までこなさなければならず、負担が増していった。それでも仕事があるのならば、何とか経営は保てるだろうとボクは思っていたが、金型製作費は最近ではだいぶ値下がりしており、決して粗利の良い商品ではなくなっていた。
実家の工場がピンチの時、ボクは何かできることはないだろうかと考えた。ボクは一応だが、大学院で技術経営を専攻しており修士号を持っていた。加えて、ベンチャー企業で経営戦略なんぞに携わったこともあり、コンサルタントのように関根製作所の経営状況の分析を始めた。過去5年分の収益を確認していったところ、1つのことに気がついた。特に取引先別のデータを確認していた時である。山谷がある売上高の中でもコンスタントに売上高をキープしており、またその金額もある程度収益性の高いものであった。
なるほど、なるほど。
他に業種別に括って、売上高データを確認したが、家電、自動車…特徴的な分析結果は得られなかった。
基本的に金型製作の仕事は単発仕事が多い。金型製作を請け負うと、製品図面を確認しながら、どのような工程で、それをいくつの工程で製品に仕上げるのか、設計を行う。その設計に基づき金型を製作し納品する。納品先のプレス機を用いてテストを行い、金型を調整しながら、最終的に仕上げる流れだ。つまり、金型が完成すれば1つの仕事は完結し、継続的な仕事にはならない。継続的な仕事にするには、金型を用いてプレス機で部品に仕上げて納品するスタイルが良いのだが、プレス品の単価は驚くほど安い。ウチのような少人数で行っている会社では数量がこなせず、プレス品で攻めるには向いていない。少し考えれば分かるのだが、金型を製作するタイミングは新製品がリリースされる時が多い。どの会社もそれほどコンスタントに新製品が出るような経営環境ではなく、金型の仕事を新規で受注するのは、難しいのである。
現状のプレス金型事業を考えると、受注が安定しており、単価も高めの医療機器部品は、関根製作所にとっては、ありがたい取引であった。
医療機器の部品か、ボクの業界に近いな。もしかしたら、この分野が関根製作所の救世主になるかも知れない…とその時は深く思わなかったが、今、思い出すと、この気付きがボクとアニキの物語のスタートだったのではと思う。
展示会に出展してみた。
数ヶ月後、オヤジの体調は回復の兆しが見えず、1度の入院期間が長くなっていた。この頃、関根製作所もオヤジの体調と同期するように経営状況は日に日に悪くなっていた。
ボクは何か活路を見つけなければと躍起になり、金型を製作する上での材料仕入れの圧縮やムダな在庫を持たない等のアドバイスをアニキにしながら、少しでも経営が上向くように、週末を使って実家の工場を手伝っていた。
そんな時、工場の事務所に置いてあった一枚のチラシ。商工会から案内された地域の工業展のお知らせだった。関根製作所は商工会には加入していたが、このような展示会へは出展したことはなかった。
軽く流されてしまった。
アニキの言っていることは、事実であったことは、展示会が終わった後に知ったのだが、何はともあれ何か新しい取り組みをせずにいられなかったボクは、展示会に出ることにした。(アニキも最終的には出展にOKしてくれた)
出展準備はボクの担当だ。金型の実物サンプルや金型で作ったプレス部品等の展示は基本だが、ポスター3枚とチラシを新たに準備した。ブースの真ん中には、モニターを置いて、金属の加工風景を動画で見せることとした。これで新規の顧客が獲得できれば…。
意気揚々と展示会の当日を迎えた。ボクとアニキは準備してきた展示物をブースに並べる。なかなかの仕上がりだ。初めての展示会にしては良くできていたと思う。実際の展示物の写真がこちら。
展示物に加えて、当日の思い付きで、飴玉を配ることにした。大阪のオバちゃんではないが、せっかく見学していただいた方々にお礼ということで。
そして、開場!
…うん?
…あら?
全然、人が入ってこない。
地域の物産展示会と同時開催、平日ではなく休日の開催。これらを考えると当然ながら、ビジネスベースの来場者は少なく、物産展に来た方々が「なんだろー?」という感じで工業展に迷い込んでくるという流れでしかなかった。しかしながら、直前で用意した飴玉だけは好調な売れ行き(無料配布なので、売れ行きという表現はちょっと違うが…)で午後に追加の飴玉を買い出しに行く事態となった。
ボクはアニキに弱音を吐いた。ボクは展示会に出ようとアニキをけしかけた責任もあり、少々凹んでいた。こういう時のアニキはいつもボクをフォローしてくれる。アニキは子供の時からそうだった。一緒に落ち込んでしまうと、凹み度合いが加速してしまうが、そこを上手くバランスしてくれるのだ。
ボクは気をとり直して、終了時間まで勤め上げ、片付けを開始した。
こうしてボクとアニキの初めての展示会出展は、新規顧客を獲得できる気配は全くないまま、飴玉を配って幕を閉じた。
が、実はこの後、大きな『気付き』を得ている。展示会終了後に出展者での懇親会が行われ、せっかくだから、ボクとアニキはそこに参加した。その席には、いわゆる地元の工場仲間の寄り合い的な雰囲気があり、完全にボクら2人は浮いていた。色々な人に話しかけられる。
多くの質問やコメントをいただいたが、「兄弟でやっているんだ」というコメントを最も多くいただいた。そして、
と促され、2人で前に行くように案内される。アニキと目配せする。
そう、アニキは職人であるため、どちらかというと口下手だ。と言っても一緒に事業をやるようになって、そんなことはなく、お客さんの前でもしっかり話ができることを最近は知った。ともあれ、この時は緊急事態で、すぐにスピーチをやらなければならない状況だ。そんな場面はボクのフィールドだ。ボクは技術系の人間には珍しいぐらいお喋りだ。ベンチャー企業に転職した後は、数々のお客さんに向けたプレゼンをこなした経験もある。
ということでマイクを握りじょう舌に語り出す。何を話したかは覚えていないが、調子よく話をして、最後に
と締めくくった。
そう、先ほど話した『気付き』とは、この「兄弟」というキーワードのことである。若い兄弟が町工場を経営しているという事実は、後継者問題を抱える多くの社長さんたちにとっては羨ましく映り、さらには高年齢化している町工場業界にとっては珍しく見えたようであった。
そして、周りの他の工場の社長さんたちは「頑張れよ!」と多くのエールをかけてくれた。
このように展示会では、新規顧客の獲得はできなかったものの、兄弟でやっていることは、顔や名前を覚えてもらうこと、周囲に印象を与えることができる「武器」になるのでは…そんな感触を得て、ボクたちの展示会から懇親会までの長い1日が終わった。
医療分野への参入を考えた。
展示会も終わり、日常を取り戻した関根製作所は、業績は相変わらずの低空飛行であった。そろそろ何か手を打たねばと考えていた時、アニキがボソッと言った。
この頃、ボクとアニキは今後の関根製作所について色々話をしていた。金型の収益性は高くなく、更には多くの注文が取れる訳ではないことからも、経営的に言えば次の柱になる事業が必要な状況だ。ボクの経営分析においても医療分野はターゲットとしては最良と考えられたが、果たしてどのように参入すれば良いのか?まだ具体的な未来図が描けていない状況だった。
しかしながら、ボクの思いとアニキの思いは医療分野に向けて一致していることが確認できたことは大きい。あとは、方法論だけならば、調べて考えるのみである。ボクはアニキに
と告げて、医療分野への参入計画の策定に取り掛かった。
まずは参入プランとして、どのポジションを狙うのかを明確化する必要があった。特に医療機器の分野においては、医療機器を作るための医療機器製造業が必要で、開発し医療機器メーカーになるためには医療機器製造販売が必要だ。この業許可を取得するのは結構なハードルがある印象だ。それでも、ボクはこれまでのキャリアの中で、製薬と医療機器の分野で数々の業許可取得、更新の場面に立ち会ってきた。どのようにすれば業許可が取得できるか、そのイメージはできていた。しかしながら、いきなりそのポジションを狙うのは、リスクが高いと判断し、まずはこれまでの関根製作所で実績のあった医療機器向けの「部品製作」というポジションで参入することを決めた(て言うか、部品製作ならば既に参入済みなのだが…)部品製作には、医療機器製造業の許可はいらないのか?と良く質問を受けるが、答えは「業許可不要」である。考えてみて欲しい。医療機器も様々あるが、細かい部品から作り上げられている製品も数多く存在する。ネジ1本、パッキン1つから、使用される部品一つ一つが業許可を受けた企業で製造されている訳ではないことは、想像するに容易い。
ということで、まずは本当に医療機器の部品製作事業で新しい顧客が獲得できるのか、顧客はどのような悩みを抱えているのか、とにかく仕掛けを作って、テストマーケティングを行う流れになった。ボクはアマゾンで購入したホームページ制作書を片手に自作のホームページを作り出した。(生まれて初めて自分でホームページを作った)
ウソかホントか、ボクが調べた限りではホントだったので、キャッチコピーは「日本で唯一の医療機器専門の部品加工屋」と打ち出した。この辺りは言ったモン勝ちである。多くの部品加工屋は、様々な加工設備を有している。その設備の能力と稼働率によって、収益は決まる訳だが、稼働率を上げたいために、医療だけの部品をやっている企業はまったくなかった。(あくまでボクの調査結果だが)関根製作所でも同じであるが、家電の部品も作るし、自動車の部品も作る。同じ加工機を使えるのなら、業界は問わないという仕事の仕方が通例であった。そこに対して、ボク達は、医療機器専門と謳った。なぜ、専門にしたかと言うと、医療分野の規制を逆手に取った作戦である。医療分野は薬事法(今は、薬機法と言いますね)で厳格に管理されていることから、何か特別な産業の印象が強い。ボクも長年、医療分野で働いてきたからそうであったが、医療分野の人間は、外注先等を選定する際にやたらと実績を重んじる傾向が強い。
(上から目線…)
(特別意識…)
このような傾向があったことから、「医療機器専門」と謳った際には、医療分野の人間の心をくすぐれるのではないかと、考えた訳である。
そして、実際に関根製作所だと医療専門にならないことから、関根製作所からスピンオフしてあくまで別会社という建付けで、ホームページで宣伝することにした。つまり、テストマーケティングと言いながらも、表面的には医療機器を専門とする部品加工会社を新たに立ち上げたように見えるホームページを作ったのである。新しい会社となると会社名が必要である。この会社名が、冒頭に記した「カーターテクノロジーズ」というものである。テストマーケ中は、株式会社ではないので、屋号のような位置づけで、カーターテクノロジーズと名乗っていた。
ここで、良く質問される社名の由来。
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