営業の魔法(フィクション)著者 中村信二

後編: ~自分自身ではなく、相手をいかに集中させるか それが会話力~

照りつける日差しから逃れるように、僕は喫茶店へ入った。今日も暑い一日になりそうだ。

 二十席ほどのボックスは奥から順に半分ほど埋まり、客のほとんどが僕同様にスーツ姿のビジネスマンだった。

 疲れた表情のウエイトレスにアイスコーヒーを頼む。

 今は午前十時。ランチの時間にはまだ早過ぎる。

 カバンから手帳を出し、できるだけ顔を上げないようにうつむいていた。回りのビジネスマンたちも、それぞれにスポーツ新聞や雑誌を広げうつむいている。

 僕と同じなのだろう・・・。

 時間をやり過ごすためにここに居るのだ。

 手帳には今日の予定などまったく書き込まれていない。書く予定すらなかった。

 しかし、オフィスを出る時、僕は三つのプレゼントがあると告げた。毎朝繰り返される朝礼。

一日のスケジュールを伝え、今日の売上げ目標を宣言する。週初めは一週間の目標、月初めは一ヶ月の目標、そして毎朝その日の目標・・・。

 僕は疲れていた。終わりのない営業という仕事に。

 今月が終わっても、また新しい月が始まる。そして、また一から数字を積み上げなければならない。来月も、再来月も・・・。

 いつまで繰り返せばいいのか・・・。

「辞めようかな・・・」声にならない呟きが漏れる。

 これから夕方まで、昨日と同じ虚無的な時間をこの伏魔殿のような喫茶店で過ごすのだ。もう何週間こんな日々を送っているのだろう。

 多分、顔色も悪く覇気もないはずだ。気力が萎えている。上司からの叱咤激励も聞き飽きていた。

 新入社員研修を終えた僕は営業に配属され、半年が過ぎていた。扱う商品は飲食店や事務所などで利用する業務用の空気清浄機。

 会社から、担当地域の見込み客と既存クライアントの詳細が書かれたリストを渡されている。そのリストをチェックしながら一件ずつ営業して歩く。

 最初はやる気満々だった。意気洋々としていたのに、やる気と数字は比例しなかった。

 いつからか、足が重くなり、見込み客の扉を開けるには決意が必要になっていた。

 ふと、研修の時に教わったウイリアム・ジェイムスという人のことばを思い出す。

「人間は笑うから幸せなのだ。幸せだから笑うのではない」と。

 笑おうとしてみた。ぜんぜん笑顔なんか出てこない。

 多分、僕は不幸せなんだ。

 

 何人かの客が喫茶店を出て行った。そしてまた何人かの疲れた顔のビジネスマンが入ってくる。みんな表情が暗く疲れてみえた。着ているスーツまでくすんでみえる。僕はもう一度笑おうとしてみた。やはり無理だった。

 スポーツ紙を読み、経済紙を読み、また別のスポーツ紙を読む。週刊誌は先週読んでしまった。新しい号は明日以降の発売だ。

 カバンから読みかけの本を取り出す。数ヶ月前は「最強の営業マン」とか「セールスのツボ」などのタイトルが並ぶ本を何十冊と読みあさっていた。そういう本を読むのが義務だと思っていたし、なんとなく社会人として格好よいとも思えた。

 でも、何十冊読んでみても、一向に僕の数字は伸びなかった。結局大学時代から好きだったハードボイルドに戻っている。週に三冊ペースで読書がすすんでいく。読書量は学生時代より増えていた。

 残りページを確認する。あと一時間もかからないで読み終えてしまいそうだ。僕は舌打ちをした。次に読む新しい本を持ってきていない。この後、どうやって時間をやり過ごせばいいのか・・・。考えると再び憂鬱になった。

 窓の外は相変わらず暑そうだ。それなのに行き交う人が絶えない。汗を流しながら歩く人。冷房の効いた涼しい喫茶店にいる僕なんかより活き活きして見えるのはなぜだろう。外の人たちは輝いてみえる。みんな幸せそうだった。孤独・・・そう、僕は孤独なんだ。

 

 その時、入り口のドアが勢いよく開いた。その瞬間店の中が輝き、眩しいほどの光が店内を包み込む。僕は思わず瞳を閉じていた。

 しかし、そのドアから飛び込んできたものは光ではなく、ネクタイをした一人の男だった。

 さっきの眩しさは幻だったのか・・・。

 男は店内を見回すと、ひとつのボックスに目標を定めたかのように大股に歩き出す。その男の後ろにもう一人の男性が立っていた。

 入口で光を放った男は、一度、後ろの男性を振り返りまたスタスタと進んでいく。

 なぜか、その男から目が離せないでいた。

 椅子に座る仕草。後ろから付いてきた男性をいざなう優雅さ。そして何よりもその男の自然な笑顔に僕は釘付けだった。

「人間は笑うから幸せなのだ。幸せだから笑うのではない」声がよみがえる。

 笑顔の男・・・「この男はきっと幸せなんだ」ふと、そう思った。

 清潔感あふれる紺色のスーツ。活き活きとした表情。

 さっきまでこの店には、ジメジメとした重い空気が漂っていた。それなのに今は、南国の太陽のような爽やかな空気に包まれている。

 通路を挟んで僕の斜め前に席をとった二人。こちら側に背を向けて座る男。その向かいの席に後から付いてきた男性。男性の方が十歳以上は年上だろう。

 アイスコーヒーをふたつという声がハッキリ聞こえた。

 ウエイトレスが去っていく。

「改めまして、紙谷といいます」

 男は名刺を年配の男性に見事な仕草で手渡した。

 年配の男性も自分は田中だと名乗って名刺を手渡していた。

 

 二時間・・・、僕は圧倒されていた。紙谷と名乗った男は僕と同じ営業マンだったのだ。

 彼は二冊のバインダーを、実に巧みに操り商品説明を進めると、あとはずっと田中と名乗った見込み客であろう男性の話を、ただジッと聞き続けていた。話が終わりかけると、的確な質問をポンと投げる。すると魔法に掛かったかのように見込み客はまた自分から話し始めた。しかも活き活きと。

 最後はサインすることが当たり前のように、見込み客はペンをとり契約書にサインしていた。

 一番驚いたのは、サインし終えた顧客の表情だった。喜びが顔から溢れている。そして「ありがとうございます」と顧客が頭を下げていた。紙谷と名乗った営業マンは、優しい顔に満足げな微笑を浮かべながら「これから頑張りましょうね」と握手を求めたのだ。

 なんなんだ、いったい。

僕は呆気にとられて二人を見ていた。

 その後も三十分は雑談が続いていた。その間、紙谷はほとんど喋らない。優しい微笑を浮かべながら聞き続けている。

 しかし、ひとつひとつにきちんとうなずき、ひとつひとつにメモを取り、周りの雑音などまったく耳に入っていないかのように真っ直ぐ顧客だけを見つめていた。

 二人が席を立った。

 僕はあわてた。

 手帳や読みかけの本を急いでカバンに戻し、伝票を手にレジへ足早に向かう。二人は既に支払いを終え外へ出て行った。

 その瞬間、店の中の光が消えた。

 また、どんよりと重たい空気が辺りを包み込む。振り返り店内を見渡した。疲れた顔のビジネスマンたちが気だるげに新聞を読みふけっていた。同じ記事を何度も繰り返し読んでいるのだ。 僕がそうだったように・・・。

 

 

「紙谷さん」

 信号待ちをしていた男に僕は大声で呼びかけた。その声の大きさに僕自身が驚いていた。

 振り返った紙谷さんに条件反射で名刺を取り出す僕。

 わけも分からず受け取りながらキョトンとしている紙谷さん。

「教えてください」

「えっ?」

「営業を」

 喫茶店でのことを話した。ずっと見ていたこと。感動したこと。驚いたこと。

 信号が三度変わり、人の山が三回動いた。

 二人は横断歩道を前に動かず立っていた。

「今度、僕に紙谷さんの営業に関する考えをレクチャーしていただけませんか」

 どうせ無理だろうと思った。見ず知らずの男に突然声をかけられたのだから。

 紙谷さんは僕をジッと見つめていた。その眼には微笑みと優しさが漂っている。一瞬引き込まれそうになった。不思議な眼だ。

 僕の名刺を見つめ直し、紙谷さんが口を開いた。

「小笠原さん・・・、君は何を学びたいの?」

「はい・・・、なにをって・・・もちろん営業です」

「営業の何を?」

「売れる営業のテクニックを・・・」

 突然紙谷さんは笑い出した。そして「いいですよ」と。

「だけど、売れる営業のテクニックなんて、この世には存在しません。営業はテクニックじゃないんだ。僕が教えられることは・・・、多分、営業という職業のすばらしさだけかもしれない。それでもいいかい?」

 いっている意味を、そのときの僕はまったく理解していなかった。

 

 これが僕とメンター紙谷さんとの不思議な出会いだった。

 今、僕は社内で営業成績トップという座を二十四ヶ月続けている。入社以来六ヶ月間もダメ社員の烙印をおされ続けた僕が。

 このご縁で「学び・気付いた」多くのことを、これから皆さんにお伝えしたいと思います。


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~自分自身ではなく、相手をいかに集中させるか それが会話力~

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