ツツジと幼い日の記憶、人間の正気の正体についての話

あちこちでツツジがきれいに咲いている。ツツジにはなんとも言えない感覚的な思い出がある。

自分が育った家の庭にもコンクリートの塀沿いにツツジが植えられており、五月になるといつもきれいな花を咲かせた。

思い出せる限界に近いくらいの古い記憶を掘り起こすと、春の生暖かい陽気の中でちょうど自分の背丈くらいのツツジの木に赤い花がいっぱいに咲いている。

今まで緑色だったツツジの生け垣が真っ赤に染まっている。いくつかの花を摘んで甘い蜜を吸ってみる。

それから、すぐ脇に並べられている庭石をしゃがみこんで一つ一つ両手でひっくり返してみる。石の裏側に隠れているダンゴムシを探す。暖かい日差しのもとに晒されることになったダンゴムシは、急いでその身を丸める。

庭石の向こう側には、おじぎ草が丸いピンク色の花をつけている。その花を一つ一つ摘まんで両手いっぱいに集めてみる。ふわふわした感じのこの花は、暖かい日差しをいっぱいに浴びて、手の中できらきら光っている。

目の前にはツツジ、手のひらにはおじぎ草の花。陽だまりの中で座り込んだまま、このふたつの花を交互に眺める。表現しようもない幸福感で胸がいっぱいになる。

しかし、この幸福感はなぜか長続きしない。幸福感に満たされると、次の瞬間にはなぜか強烈な不安感に襲われる。なぜなのかはわからない。

あえて言うならば、一切の不快な感覚を失っていることによる不安感といえるのだろうか。あるいは完全無欠と言えるような幸福感によって、現実的な感覚が麻痺していくことへの恐怖感だろうか。

そう考えると人の「正気」というものの根っこのある部分は、このような快適さからではなくて、一種の不快感を受け止めていることで保たれているのかなと思う。

こんな気持ちになると、次は農機具庫として使われている廃屋に入る。この真っ暗な廃屋の中で埃の臭いを嗅ぎ、剥き出しになっている屋根裏の曲がりくねった不気味な木組みをじっと眺める。しばらくすると不安感は消え去り、廃屋の闇に恐怖を感じる。

そうするとまた庭の陽だまりに戻り、ツツジの花を眺め、おじぎ草の花を摘む。胸いっぱいの幸福感に包まれたあとに、また不安感でどうしようもなくなる。再度、農機具庫の廃屋の闇に沈んでみる。

こんなことを数回繰り返しているうちに疲れてきて、母屋に戻り縁側に寝転んで庭を眺める。そのまま眠る。

陽だまりの中の満開のツツジを見ると、ごくごく幼い頃のこんな奇妙な感覚と記憶が呼び起こされて、心がざわざわする。

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