ドッペルゲンガー

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「疲れてるんじゃないの?」

彰子は青い顔の同僚、慎二にそう聞いた。

確かに今日の彼は顔色も良くないし、少しやつれているような印象を受ける。

だいたい、もう一人の自分を見た。なんて話を彼から真顔で聞かされるとは思わなかった。

普段大人しく真面目に仕事をこなすタイプの男だ。動作が遅いので頭が悪そうに見えるのかもしれないが、実際はとても賢い人だということを彼女は知っている。

それに...

牛乳瓶の底...なんて表現は最近はあまり聞いたことがないけど...かなり度の強い眼鏡しているが、それを外した素顔は結構なイケメンだということも。

もっとも、髪の手入れや、ひどいときは髭の手入れもあまりしていない不精なタイプなので、お世辞にも「お洒落な」人とは言いがたい。

「そうなのかな...まあ、そうかもしれないけど」

彼は下を向いて少し考えるような格好をした。

「あ、そうそう。いい話があるんだよ」

ふいにぱん、と手を打って彰子は立ち上がった。

「あなたの好きなマコちゃんのね。コンサートチケット。手に入れたんだ」

慎二が顔を上げた。

「べ...べつに、好き、というわけじゃあ」

樹真琴。トワイライトガーデスという女ばかりのバンドの小柄で痩せたベーシストだ。最近では美形の男の子のボーカルも追加された異色のバンドだった。

「私、仕事で行けないから、誰かと行ってくれば?」

彰子は「彼氏」と行く予定だったコンサートチケット2枚を机の上に置いた。

 

「思い出しました?」

オーダーしたアイスレモンティーの氷がすっかり少なくなっているのを、彰子はその時はじめて気づいた。

「あ...ご、ごめんなさい」

焦点の合わない瞳を目の前の男に向ける。

丸いメガネのサラリーマンふうの猫背の男だ。

「そうそう。確かにね。そのチケット、あげたの私だった。」

彰子は頭を下げてばつの悪そうな顔をした。

目の前には男の名刺が置いてある。

「で...神崎さん、は、何でそんなことを?」

神崎秀郎、と書かれた名刺を確認しつつ言う。

慎二へ渡したチケットの事を思い出すついでに、彼の目撃した「もう一人の自分」のエピソードまで思い出してしまったのだ。

「あれ?ご存知なかったですか?」

神崎は少し馬鹿にしたように、口元の端を歪めた。

「あのチケット。実は凄いプレミアがついているんですよ。」

はあ。そう言われても彰子にはピンとこない。

確かあれは今年の夏のものだ。もうとっくに終わっている。それにコンサートチケットなんて、終わってしまえば手元には残らないはずだ。

「あの...もしかして、トワイライトガーデスのコンサート、行った事が...」

神崎の言葉は最後まで聞こえなかった。

そう、もちろん、ない。

思い出したくもない、連城司と言う男の名前が彰子の胸をよぎった。

今にして思えば完全に彰子の片思いだったのだが、あのコンサートへ行くこともなく、あっさりと振られたのだ。

そしてもちろん、そのチケットも彼の気をひくために買ったものだ。

彰子の仕草を肯定ととったのか、神崎は続けた。

「そうだったんですか、まあ無理もない話です。彼女達の場合、少し特殊ですからね。いろいろと」

トワイライトガーデスというバンドは確かHSPとかいう事務所の所属だった。

神崎の名刺にも同じ名前の社名が刷り込んである。

「我が社ではコンサート毎に収容人員とお客様の調査もしておりまして、で、お買い上げいただいたチケット2枚のうち1枚が空席だったんです。」

彰子は司と行く予定だったのでチケットは2枚あった。それをそのまま慎二に渡したのだから、彼は誰も誘わかったということだ。

「トワイライトガーデスのコンサートチケットには、オーブと呼ばれる来場していただいたお客様に差し上げる特殊なアイテムがあるのです。これにはシリアルナンバーがふってありまして、後で記念品が当たったりするんですが、実はあの時のオーブにプレミアがついているのです。」

ふうん、最近のコンサートは進んでるんだ。

司の好みでなければ興味のなかったバンドだったが、彰子は少し惜しい気もしてきた。

本来チケットが売れてしまえば会社的にはどうでもいいことだ。来場しようとしなかろうと売れたことには変わりはない。

しかし、そこに空席があったとするとオーブを提供していない人間が何人かいることになる。

「はあ、で、その時のオーブが?」

彰子が聞いた。それにしても何て暇な会社だろう、と彼女は思った。

架空になったオーブなど、会社の方でどうにでもしてよさそうなものではないか。

「オーブはいわゆる来場の証として差し上げていて、次回彼女達のコンサートチケットを購入する際のパスポートのような役割も果たすのです。というのは、チケットをファン以外の方が手に入れてネットオークションなどで高額取引されるようなことが起きないためにです」

神崎は禿げ上がった頭頂部を右手で撫で上げながら言った。

よほどアイスコーヒーが好きなのか、すでに2杯目をオーダーしている。

「というような理由から、今度は逆にそのオーブ自体を高額取引する方が出てまいりました。お恥ずかしい話なのですが」

話を聞いているうちに彰子は、何故かコンサートに行けなかった事が悔しくなってきた。

こんなに「正しい事」を行おうという姿勢の仕事が、今時あるのだろうか。

「オーブを持たれている方はまぎれもなくファンの方なのですが、空席の場合、当社にオーブが残る場合と、そうではない場合があります。」

つまり、彼女が一度手にしたチケットのオーブは後者に属するということで、慎二が空席のチケット分のオーブを誰かに渡したということになる。

「あ、だったら彼に確認してみますね。」

彰子は立ち上がろうとした。

「いえ。速見様にはすでにご確認済みです。」

ははあ、読めてきた。彰子は心の中でぱん、と手を打った。

あの後に、あと一度だけ慎二と会っていた事を思い出したのだ。

彼が海外へ移住する前にオーブを渡したのは...

「回収完了、と」

神崎は溜息をついて右手で円形のオーブを見つめた。

彰子にはオーブの代わりとして、次回チケット購入の際には特別に利用できるIDを発行しておいた。

帰途についた彼女がこれを機に、トワイライトガーデスのファンになってくれることを願った。

「そのオーブには、わずかだけど慎二君の情報が残されている。」

彼の向かいには彰子のかつての思い人、連城司が座っていた。

もちろん、本物の人間の方だ。

「すでにアンドロイドとして置換された彼の情報が、彰子の手元に残っているのはまずいということですか。」

司の言葉を、神崎は軽く首を振って否定した。

「...ではないのです。事態はもう少し複雑で」

神崎はいつものように禿げ上がった頭頂部を右手で撫で上げた。

「問題は彼の使用したチケットではなく、彼が同伴した相手が使用したチケットなのです。」

確かに今、神崎の手元にあるのは「相手方」のチケットのオーブだ。

と司は思い当たった。

「慎二君は彰子にもらったチケットで、誰かと一緒にコンサートに行った。」

小学校の算数のような答えだ。

「そうです、そうです」

しかし神崎は子供のように喜んでいる。

「いや...でも、おかしいな、そのチケットは使われなかったんでしょう?」

司の問いに神崎は頷いた。

「使ってはならない者がチケットを使い、オーブを手に入れた。また、速見氏はさらにそれを他人に譲渡してしまった。といえば、もうわかりますよね。」

嫌な答えだ。と司は思う。

人間置換というプロジェクトを秘密裏に進めている彼らの弱点とも言える。

「ドッペルゲンガーですよ。同じ人間が2箇所に同時に存在してしまったのです。」

神崎の心に疫病神のように浮かび上がる娘の顔があった。

「なるほど、僕と同じということか。注意しなきゃいけませんね。僕も」

司は自分に言い聞かせた。

「私があなたたちを知っていた理由が、だんだんわかってきたでしょう?」

神崎はいつもの不気味な笑いを浮かべた。

「じゃ、僕が何故、彰子を振ったのか、何故、真里のために死のうとしたのかも...」

けれど神崎はそれには答えなかった。

「もうひとりの自分に出会った者は近い将来、その存在を消されると言いますが、本当なのでしょうか?」

オーブは5人の女神に守られている。

というトワイライトガーデスの歌が、店に流れていた。


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地下鉄殺人事件

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