賢者の現場不在証明

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「はあ、HSPですか」

いい加減面倒くさくなっていた。

HSPでもPSPでもいい、早くこの場所から逃げたかった。

「そう、human substitution project。簡単に言うと人間置換プロジェクトです。」

しかし目の前の若い丸メガネの男は、いたって真剣なようだった。

この暑いのに黒いスーツ姿で、さっきからアイスコーヒーをがぶがぶ飲んでいる。

「ちかん?」

僕が聞き返すと、

「置き換えると言うことです。」

うん、この「間」は悪くない。期待していた通りの間だ。

でも僕は、こんな小難しい話を聞くためにここに来たのではないのだ。

「せっかくですが、僕はお役に立てそうにないので」

と、席を立とうとした。

もう10分くらい前から思っていたセリフだ。

「でもあなた」

男は、禿げ上がった頭頂部を右手で撫で上げながら言った。

「坂井真里さんと、別れたいのでしょう?」

「あれは誰なんです?」

深夜のファミリーレストランで楽しそうに食事をする男女の光景を、僕はずっと心に残していた。

なぜなら、真里の前でおどけて笑っているのは、他ならぬ僕自身だったからだ。

丸メガネの男は、ふう、と息をついた。

「あなた自身ですよ。もちろん、精巧なアンドロイドです。」

信じられない、と僕は思った。

自分自身のことは客観的に見れないが、どこからどう見ても人間そのものなのだから。

いやいや。

たとえ精巧なアンドロイドだとしても、僕がすでにそこにいると言うことは、僕自身はどうなるのだ。

「あなたは坂井真里さんに追い詰められて、自殺までしようとした。」

そうだ。

それをこの男に救われたのだ。

いや、死のうとしていた僕自身からすれば、それは救われたのではなくて自殺を延期させられたようなものだ。

「普通ならただ単に彼女に、別れよう、と言えば済むことではないですか。」

それはおそらく、他人ならば必ず口にすることだった。

しかし、僕と真里の関係は、僕たちにしかわからないことだ。

「いえね、あなたを責めているわけではないんです。」

僕の心を見透かしたように、男は言った。

「実を言うとね、私自身も実行したことがあるんです、自殺を。だから多少はわかるんですよ、あなたの気持ちが。」

丸メガネの奥の瞳が笑っていない。

「坂井真里さんが嫌いで、別れたいわけではないのだとね。」

僕は息を飲み込んだ。しばらく呼吸をしていないような気がする。

「でも、そんなことはどうでもいいんです。私、いや、私たちのプロジェクトには」

この頃になって僕は、人間置換プロジェクトの偉大さに気づきはじめていた。

「あなたにはこれから、あの試作品を完全な連城司にするために全面協力願いたいのです。」

いや、しかし。

僕は戸惑った瞳を男に向けた。

「あなたの犯した犯罪については、ご安心ください。」

どきりとした。椅子から飛び上がったかもしれない。

「ま、あれ、を見ればわかりますよね」

男はニヤリとした。嫌な笑顔だ。

「い」

僕はまた息を飲み込んだ。

「いつから、僕らのことを見ていたのですか?」

僕が真里のために犯した犯罪を知っている。それはとりもなおさず、僕が自殺を実行する以前から知っていたことになる。

「ま、それはあなたが、私たちのプロジェクトに参加すればわかることです。」

男の言葉は、まるで死刑宣告を読み上げる裁判長のようだった。


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ドッペルゲンガー

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