バンコクにいた頃は月収7万円だったけど、それなりに充実していたという話
『だから、居場所がほしかった』を読みました。生まれた年も自分と同じ、フィリピン在住で『日本を捨てた男たち』で開高賞をとったノンフィクションライターの水谷さんがバンコクを舞台に新しいルポを書きました。本書では、バンコクに移転した日本人向けのコールセンターのオペレーターとして月収3万バーツ(約10万円)で働く日本人たちを「最底辺」と表現しています。
待て待て。
コルセンよりも安月給の仕事があるよ~。それは日本語教師。自分がバンコクの某大学で日本語教師として働いていた時の月給は26,000バーツ。しかし、本書でも解説しているように、これでも一人ならやっていける。
当時の僕の一日の出費
セブンイレブンの(うまい)アンパンと牛乳 25バーツ
センセープ運河のボートで通勤 12バーツ
学食で学生と昼食 25バーツ
午後にケーキとアイスティーのおやつ 15バーツ
センセープ運河のボートで帰る 12バーツ
近くの屋台で(豪華に)食事 60バーツ
合計 149バーツ(約450円)
これくらいあればストレスなく生活できた。その気なら100バーツ以内でも生活できました。月単位で言うとこんな感じ。
家賃 6000バーツ(エアコン付きワンルーム)
電気代 2000バーツ(一番暑い時期の最高金額)
食費 5000バーツ(ときどき日本食も食べる)
その他 3000バーツ(携帯とか衣類など)
だいたい16000バーツほど使い、10000バーツを貯金し帰国や旅行の費用などに当てていた。+時々、でかいエビなどの高級品を食べると、その分出費は増加する。それでもゲンサイ(現地採用)の日本語教師の中では高給取りの部類でした。1万バーツ台はざらだったし、6000バーツの人だっていた。今でも交流があるバンコク時代の日本語教師仲間のM・Rさんからすれば僕は「贅沢生活をしていた」とのこと。
そして、何よりも20代の後半、できたばかりの日本語学科で自由に何でもできて、本当に楽しかった。1期生として入ってきた学生と楽しくやってるうちに気がついたら4年経っていて、その1期生の卒業と同時に日本に帰国した。本当に幸せな4年だった。そんなこんなで前置きが長くなったが、本書のことは20代で日本に生きづらさ・息苦しさを感じてバンコクにたどりついた自分としては、他人事として読めなかった。そうそう、幸せの尺度は人それぞれ、自分がそれで良いなら良いじゃないか。人に迷惑をかけなければ、適度に放っておいてくれるタイは本当に心地よかった。
いろんな人がコルセンにたどりついてバンコクで生活している語りを読みながら、ちょっと泣けた。楽しくて、自由で、寂しくて。あー、あの時の自分がここにいるなぁ、って。この本も話題になっているので、バンコクのコルセン界隈も既にやかましくなっているんだろうなあと思う。基本的にはよそ様のことなんだから、そっとしておいてやれよ、と心から思う。
でも、人は生きていかなくちゃならなくて、ここで羽を休めてまた違うところに移っていく人もいるし、ここを居場所にする人もいる。幸せの尺度なんていくつもあるのだし、当人がわかっていればそれでよいことなのだ。それで、こういう生きにくさを感じる人たちの居場所がたぶん日本に少ないことが一番の問題なんじゃないかと思う。もう数年前からネットではコルセン批評が盛んなんだけど、これはコルセンに行けない人のやっかみなんじゃないかと思う。
たぶん僕が感じているように、著者の水谷さん自身もコルセンで働く人に自身の姿を投影する形で本書は書き進められている。水谷さんも他人事とは思えなかったんだろうなあ、とすごく思った。そして、この20代の後半にバンコクで会った人たちが、今の自分を形作っていると自信を持って言える。いろんな国のいろんな人に本当にお世話になりました。一部の人には今でもお世話になっています。
日本にもこういう通過できる/羽を休められて、ほどほどに生きていける場所ができたらいいなあと、これも心の底から思いました。そして、何かあれば、僕にもまだコルセンがある、とちょっと安心した。オレ様のセーフティーネット、コルセン。日本発の悪評に潰されずに、これからも生ぬる~く続いてほしいと思います。ホント頼むよ。ターゲットを見つけ出して叩くのはせめて国内だけにしてくれい。そういう意味では、水谷さんの視線はやさしいのだけど、この本のインパクトはかなりあると思い、心配になりました。
いろんな思いが巡り、思い出がフラッシュバックし、今日は変な夢を見てしまいそうです。
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