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17/1/5

終い支度2の3~私が離婚に踏み切るための助走として

Image by Olia Gozha


ここに書く=文章として書き起こすために過去をまとめる。この作業によって、自分の中で『伝えるべき事柄』が整理され、そのおかげで協力を仰ぐ人たちへの説明もしやすくなった。


少しずつ、一歩ずつ。スピード感には欠けるものの、それでも歩みを続け、今やっと、この棘の檻の鍵が開いたところ。棘の檻はこの家ではなく、私の心の中に、私の心理が作り出してしまっていたもの。

押し殺してきた感情、なかったことにしようとして考えないようにしてきた心の傷。胸に閉じ込めた慟哭。それらが折り重なり絡み合って形成されている棘だらけの檻。

その鍵をようやく開けた。

けれど、出口の扉からは大きな棘が突き出ている。外に出るには、その棘=トラウマに怯まずに扉を押し開けなければならない。




このトラウマに囚われている限りは、本当の自由なんて手に入れられない。



かれこれ10年くらい経つだろうか、子宮がん検診で病気が見つかったことがあった。



ダイレクトにがんが見つかったというわけではないが、子宮内膜増殖症という病気で4つのタイプがあり、その1つは子宮体がんの初期とされるものだと担当の医師から説明を受けた。

子宮がん検診でわかるのは単純型か複雑型かという大きな2つのグループで、私のはその複雑型というグループだった。複雑型で、さらに細胞が変異を起こし始めていれば子宮体がん、そうでなければ経過観察ですむし、場合によっては子宮内膜をいちど全部剥がすことで病気そのものが治るケースもあるという。

組織を採って詳しく検査をしてみましょう、ということで、子宮内膜を剥がす手術を受けるという話になった。手術自体は内視鏡を使って行うので2泊3日の入院で済むという。

手術スケジュールの調整や事前の健康診断、職場への有給休暇と高額医療費免除の事前申請、喘息持ちのため、そちらのかかりつけ医への報告と、あわただしくする私に夫は面白くなさそうではあったが、生命保険の担当者が夫の職場に出入りしている人だったので、そちらには医療給付金の申請の話をしてくれたけれども、みっともないから、と、両親や妹に電話することを禁止された。


そして手術の日程が決まり、前日に入院。内視鏡を挿れるために子宮口を柔らかくする薬を挟み込むという処置を受けたのだが、肉体的ストレスに弱いようで、その晩私は何度もトイレと病室を往復しては、吐いた。



寝不足と嘔吐疲れでへとへとの状態で手術台に乗り、およそ30分で手術を終える。



手術そのものは実にあっさりと終わった。

通常、その病院では部分麻酔で行うその手術を、以前虫垂炎の手術の際に部分麻酔用の薬でショックを起こした為、全身麻酔で行うことになった。

その全身麻酔も喘息に由来する気道過敏のために酸素チューブの気道挿管が行えないので、酸素マスクのままで(つまり、マスクが外れないように注意していなければならない)、NSAID’s過敏症で鎮痛剤が使えない、そんなやっかいな体質の私に、嫌な顔一つせず、担当医(婦人科のため執刀医でもある)や麻酔科の医師、そしてかかりつけの開業医と、連携を図り、綿密に丁寧に手術計画を立ててくれた。

当然、病院としてのリスクマネジメントという側面があることは、私も承知している。

でも、その『あっさりと無事に手術を終える』ためにこれだけのこれだけの労力がかかっているのだと、そしてなによりも丁寧に扱ってもらえたことが、とてもとてもありがたかった。

手術の際には家族の付き添いが必要ということで来てもらっていた夫は、手術後、担当医の説明を聞くと、「じゃあ帰る」と一言だけ残して帰って行った。

「のど乾いたでしょう?」と、手術が終わったばかりでまだ水が飲めない私に「氷持ってくるね」とニコニコ笑いながらやさしい言葉をかけてくれたのは担当のお医者さん。手術後にもまた吐きまくっていた私の背中をさすってくれたのは、病棟の看護師さん。


優しいのはいつも、外の人。


内視鏡での手術であったため、翌日には退院だったが、結局二晩吐きまくったのと出血で身体がきつくて、迎えに来てほしいと夫に電話をしたのだが「疲れてるから行きたくない、自分で帰ってこい」と言われ、いつもなら10分程度の道のりを30分以上かけて歩いて帰った。タクシーに乗るお金はなかった。

フルタイムで働いてはいたものの、このころは時給も安く、手取りは多いときで15万、少ないときには10万に届かないこともあり、共有名義の住宅ローンの自分の分と公共料金(これらの支払いは私の担当になっている)、生命保険の保険料や税金を支払うと手元にはほとんど残らず、負担が大きいのでせめて水道料金だけでも引き受けてもらえないかと夫に相談したら、「なんで俺がそこまで負担してやらなきゃならないんだ」とひどく怒られ、それ以降は言いだせなくなっていた。

病院の支払いはあとわずか81000円に届かず、高額医療費控除の適用にはならなかった。翌月までには生命時保険のほうから手術給付金が出ているはずだったので、クレジットカードで精算した。

それでも入院前には用意するものの指定などもあったし、さすがに何年も買い換えていないくたびれたパジャマや下着は気が引けたので、安物とはいえ新しい物を購入し、財布の中には千円札が2~3枚残っているだけだった。次の給料日まで、これで凌がなければならない。でなければまた、銀行のローンカードに手を付けることになる。

タクシーを使うなんて贅沢はできなかった。

遊歩道や公園のベンチで途中何度も座り込んで休み休みしながらようやく家へ帰りつくと、私がいなかった間の食事の回数分の鍋皿や買ってきたのであろう弁当の空容器が、ダイニングテーブルの上や流しに山積みになっていた。

私の不在を責めるように積みあがったそれらを、慌てて片付ける。

座りたかった。本当は少し横になって休みたかった。けれど、この洗い物の山を放置して休んだりしたら夫はまた、怒り出すだろう。

乾いて硬くこびりついたご飯粒。油を拭わずに重ねられてヌルついた糸尻。

こんな時にすら気づかってくれない夫に腹を立てることも思いつかず、ただ、こんな時にも気遣ってもらえない自分が惨めだった。


「寿司、食いに行くぞ。支度しろ」

退院祝いをしてやる、と、そう夫が声をかけてきたのは、洗い物が終わったころだった。

座りたい。横になりたい。外になんか出たくない。

それでも、夫の機嫌を損ねないようにまた、言葉を飲み込む。言えばまたきっと火が付いたように怒り出す。

しかも、普段はどこに行くのにも車で出かけ、電車を利用することなどないのにその日に限っては車は出さないという。

急かされて一息つくこともできずに、退院してきたそのままの格好で家を出た。


当時はまだその沿線ではエレベーターの設置工事が進んでおらず、上の階に行くエスカレーターこそあれ、下りは階段を慎重に降りる。あまりゆっくり歩くとまた嫌なことを言われる。だから必死で、夫のペースに合わせて歩いた。

二泊三日の入院中は身体こそ横たえていたものの、吐きまくっていて、あまり寝ていない。

いつもならなんてことのない階段の上り下りが、眠りの足りていない身体には酷くこたえた。


目的の駅に着き、改札を出て国道沿いを歩いた。踏切の手前数メートルのところで、警報が鳴り始めると、夫は立ち止まらずに走って踏切を渡ってしまい、慌てて追いかけた私は、線路の溝に足を取られて転んでしまった。


遮断機が下り始める。立ち上がろうとするのに、足に力が入らない。

警報がグァングァンと、濁った音を響かせる。このままでは電車が来てしまう。腿の部分が線路の上にあるのに、焦れば焦るほど、足がもつれて立ち上がることができない。轢かれてしまう。



助けを求めるように、すがるように上げた視線の先で、夫は、腹を抱えて嗤っていた。

愉快そうに、私を指さし、手を叩いて。

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