コーポラティブハウスに住むこと

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 3年前よりコーポラティブハウス形式のマンションに住むようになった。そこに住むようになって、生活、とりわけ子育てがとても楽しくなった。コーポラティブハウスとは、住まいを求める人々が集まって組合を結成し、共同で土地の取得、建物の設計、工事発注などを行い、住宅を取得し、管理していく集合住宅のことである。私が参加したコーポラティブハウスづくりのグループには、設計・コーディネーターとして、メンバーの1人が所属する設計会社がついていた。しかし、建築までの取り組みは簡単なものではなかった。土地探し、仲間集めに時間がかかった上に、建築費の高騰もあり、思うように進まず何度も挫折しかけた。

 私は、住まいに対しての希望は特になかった。せいぜい駅とスポーツクラブに近い所ということぐらいで、当時は夫婦2人の生活であり、一生、借家暮らしでもいいと思っていた。家で過ごすことが多いのが妻であるので、妻の希望通りにすればいいと考えていた。そんなわけで、妻から桂駅近辺のコーポラティブハウスの話を聞いても、あまり興味もわかず、余計なお金がかからないならそれに越したことはないなと思ったぐらいで、妻のやりたいようにすればいいと言っていた。お金を使わない分、煩わしい手間が増えるかもしれないとは思ったが、余計なお金を使わなくてよいのは魅力であった。ただ、当時住んでいた公団のマンションでは、隣の人とも交流が全くなく、挨拶を交わす程度の関係であることに寂しさは感じていた。結婚して最初に住んだマンションが、全14戸の家族がアトホームな関係であったので、その頃がよかったなとときどき思い出すことがあった。

コーポラティブハウス建設の取り組みは2006年から始まっていた。前述の設計事務所に勤めるメンバーの1人がコーポラティブハウス建設を目指し、土地を探し始め、環境のよい土地に出会えたそうだ。ところが、共同住宅建設のための接道条件を満たしていなくて断念したらしい。2007年6月、高齢期を迎えても仲間と一緒に安心して暮らす住まいがつくりたいという思いを持つものが現れ、前述の設計事務所に相談に行った。その思いを受けて「集まってつくる安心の住まい」勉強会がスタートした。私の妻は第7回(2008年2月1日)の勉強会から参加した。その頃は住まい全般、グループリビング・コーポラティブハウスの事例などをテーマに勉強会を行っていた。メンバーの中にはグループリビングをつくりたいという人たちとコーポラティブハウスをつくりたいという人が混じっていた。集まって住むという共通のテーマを持ってはいるが、それぞれ独自の動きをつくっていくことになった。そして、2009年6月19日にコーポ準備組合が発足した。ここから具体的にコーポラティブハウスづくりへと進んでいくことになった。その後、広い土地が候補地となり、グループリビングと共同のコーポラティブハウスという計画が出たが、実現はしなかった。グループリビングを作るグループは勉強会を続け、2016年5月についに竣工に至った。

私がコーポ準備組合に参加するようになったのは2009年9月であった。その頃は知人の紹介によって、土地探しをしていた。当時、8か所の候補地が挙げられていた。その中で当時のメンバー5世帯で人気投票を行った結果、最も人気が高かった土地で建設計画を進めていこうとした。しかしこれは、後に生産緑地であり建物は建てられないことが分かった。その他の土地も生産緑地であったり、地主に売る気がなかったりで前へ進めなかった。その後メンバーの1人が、自分の足で見つけてきた土地や駐車場などが候補地としてあがったが、いずれも、同様の理由で計画が進まなかった。この頃、土地仲介業者に頼らない土地探しに限界を感じていた。その中で土地仲介業者が売り出している土地で、ついに広さ・価格がメンバーの希望に合う土地に出会った。この土地は分譲マンションにするには間口が狭く、個人で買うには価格が高いという理由で売れ残っていた。それが理由で価格が下がり、我々の手の届く価格になった。ただ、その土地での計画が7世帯での建築であったのに対し、当時集まっていたのが5世帯であった。それでも、この機会を逃せばこれ以上の条件の土地に出会う機会もないと思え、思い切って5世帯で2012年4月に土地を購入した。当時のメンバーの資金力からすると、この土地に出会えなかったら購入は難しかったと思える。実際、借地での建設を中心に考えており、定期借地権学習会も開いた。借地で探すとなると土地探しがさらに難航していたかもしれない。この土地に出会えたことが、我々の第1の奇跡であった。

その後の仲間集めも苦労した。当初はメンバーの中でも仲間集めを楽観視していた。声をかけたい知り合いが何人かいて、その人達を当たればあと2世帯は簡単に集まるであろうと考えていた。しかし、結局思うように進まず、仲間集めのビラを保育園や樫原・洛西などの住宅に配布に行ったり、リビング京都へ折り込みチラシを入れたりもした。その頃、我々のコーディネーターである設計会社のダイレクトメールのニュース欄を見て2012年9月2日、興味を持った方が総会に参加し、建設組合への参加を表明した。その後、何世帯か総会に参加してもらえたが、コーポラティブハウスの住み方に難色を示しメンバーには加わってもらえなかった。当時の我々は、消費税率が5%の時の、2013年6月までの契約を目指しており、逆算すると6世帯で住戸の位置決め、個別設計と平行して仲間集めをせざるを得なくなった。そして、ついに7世帯そろったのが2013年6月であった。急に住んでいるところを出て行かなくてはならなくなり、我々のコーディネーターの設計会社に相談に来られた方であった。建設組合の総会に参加しても、組合に入らなかった方達は、一戸建て志向でありマンションを敬遠された方もいたが、夫婦のどちらかがコーポラティブハウスの住み方が合わずに組合参加に至らなかった方が多かったように思う。私自身、どちらかというとマイペースに一人で行動することが多い人間であるが、嫌なら参加しなければいいぐらいの軽い気持ちを持っていた。紆余曲折ありながら最終的に組合に参加表明した現在のわれわれのコーポの住人の住まいに対する考え方は一致していると言えるのではないかと考えられる。仲間集めを振り返ってみると、時間がかかってもコーポラティブハウスに住みたいと考える人を探すしかないと思えた。コーポラティブハウス建設の難しさを改めて感じたときであった。

メンバーが7世帯集まりついに建設が現実味を帯びできたが、苦難はここからであった。設計が進んでいよいよ建築請負業者との契約という時期に建築費の高騰のため見積額とこちらが考えていた予算との間に大きく開きがあり、すぐには契約ができなかった。最大の危機がおとずれた。土地を購入し設計も終わり、後は建物が建つのを待つだけと思っていた私にとって衝撃の出来事だった。消費税増税前の駆け込み需要と東京オリンピックの影響で、建築費の高騰を予想してはいたが、予想をはるかに超える見積額だった。この後、後戻りもできず、どうすることもできない状況で日が過ぎていき、不安な毎日を過ごした。当初は、消費税率が5%の時の、2013年9月までの契約を目指していたのが大幅にずれ、結局、設計計画の見直しなどをして建築費を削減したり、各世帯で予算の見直しなどをし、また、安価での建築を請け負ってくれる新たな工務店も現れ、工事請負契約ができたのが、2014年7月であった。自分一人では契約に至らなかったと思う。土地を買ってしまっていて後戻りできないということもあったが、建設組合のメンバーにとって、どうにもならない状況の中、前向きになれたのは仲間がいたからだと思う。今から思えば、この危機を乗り越えるためにみんなで頑張ったことが、メンバーの絆を深めたように思う。そういう意味でこの出来事も無駄ではなかったのかなと思っています。(もちろん、今、住めているからこそ言えることであるが。)コーポラティブハウスは普通の分譲マンションでは業者がやっていることを全て自分たちでやらなければならず、リスクもあり難しいものだということがよくわかった。それでもメンバーの1人にコーディネーターをお願いしている設計業者の者がいるのは心強かった。後から聞いた話であるが、妻もコーポラティブハウス建設のリスクはわかってはいたが、メンバーにコーディネーターを請け負う設計会社の人がいたから参加に踏み切れたことを言っていた。

住人7世帯の年齢構成は1歳から86歳まで様々である。そのうち子育て世帯は4世帯で、私の娘と同じ3歳の娘がいる世帯があることも幸運であった。私の娘は1人っ子で、以前に住んでいたマンションなら、自宅で私たち両親以外の人と関わることもほとんどなく過ごしていたと思われるが、住居建設まで苦難をともにした住人の間には仲間意識が芽生え、住み始めから親しくしていただいている。生活する上での小さな助け合いもよく見られる。時々、ご飯のお裾分けが届くことがあり、メニューが一品増えてありがたい。隣のおばあちゃんが時々届けてくれるポテトサラダは娘も大好きである。私たち家族にとって、元保育士の方がいるのも心強く、子育てのアドバイスをもらったり、娘と遊んでもらったりしている。娘は出かけるときには、隣のおばあちゃんに挨拶をする。祖父母と離れて暮らしているので最も身近なおばあちゃんである。マンションの住人同士は、月に1回の総会をもち意見を交流している。懇親会や子供向けの行事などの楽しい企画も計画される。今年の5月にはこいのぼりを作って泳がせた。夏には子ども達のために映画会、スイカ割りなどの楽しい夏祭りが行われた。おそらく昔は普通にあった近所同士のつながりのある生活がここにはある。このマンションで住み、子育てができることを幸せだと思う。今さらながら、コーポラティブハウスという生活を見つけた妻に感謝している。私は、今、自分が経験している人とつながりのある生活の素晴らしさを多くの人に伝えたいと思う。

コーポラティブハウスに住んでから、理想の住まいとはどんなものかと、時々考える。理想の住まいについて書かれた本を読んでみると、温度、湿度などが快適で健康に生活できる住まいのことが多く書かれている。我々のマンションは無垢材を多く使い、外断熱を取り入れ温度・湿度が比較的安定した理想の住まいに近い条件を満たしていると思える。欲を言えば、価格が思ったより高く、採用したかった設備であきらめざるを得なかったものがあったのがマイナスのことである。実際住み始めて思うことがある。我が家では朝出かける時、娘がお隣に挨拶をする。帰ってくるときもまた挨拶する。娘の声が聞こえると必ず出てきてもらえる。その様子を見るたびに、このマンションに住めて本当に良かったと感じる。下の階にする方が、「この年になってこんないい暮らしができるとは思ってもみなかった。」と言っておられた。この方の言ういい暮らしとは、子供がいて仲間がいてみんなで楽しく暮らすことのようである。もちろん、人によって住まいに対しての思いは様々であると思うが、コーポラティブハウスに住みたいと集まってきたメンバーにとって理想の住まいとは、人と人のつながりのある住まいのように思える。


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