「にいやんねえやん」

「にいやんねえやん」/ファビアン

変な育ち方をした。「変な」と行ったら語弊があるかもしれないが、おおよそ一般的ではないと言う意味だ。僕はドイツとのハーフで、母子家庭の一人っ子。四国ののどかな町でオカンが育ててくれた。

しかし家族は二人ではない。犬の「コロ」もいたし、ウサギを二匹飼っていたこともあるが、それ以外にもいた。家族というか、家族ではないのだけれど、家族だ。裏の家に住んでいる人と仲が良かったのである。おっちゃんとおばちゃん夫婦。僕はその二人を「裏のにいやん、裏のねえやん」と呼んでいた。呼び方だけなら裏社会とつながっていそうで怖いが、普段は近所の農業を手伝ったりパチンコに行ったりして過ごしている素敵な二人だ。

この二人に本当にお世話になった。

 小学校から帰ったら、オカンは働いているので家には誰もいなかった。ランドセルを置いたらいつも裏の家に遊びに行っていた。僕の家は小2の時に台風の風で屋根のアンテナが飛んで行ってしまったので、テレビがNHKしか映らなかった。だから裏の家でテレビを見ていた。にいやんもねえやんも相撲と野球が好きで、それが夕方から夜にかけてのお決まりのコースだった。ちなみににいやんもねえやんも巨人ファンで、勝っている時には仲がいい。負けているとねえやんが「どんくさいなあ」「しょーもない」と選手に向かって言うので、にいやんは次第に嫌気がさしてきて、寝る。そんな風に裏の家で過ごしていると、野球が終わる頃にはオカンが帰ってきて台所に電気が灯る。それが合図で家に帰るのだが、時には裏の家でご飯をよばれたり、風呂を済ませていることもあった。

低学年の時はそれで良かったのだが、高学年になり流行りに敏感になると、裏の人の家でチャンネル争いをするようになった。野球や相撲も面白かったが、歌番組・バラエティ・ドラマを見ておかないと学校での話題についていけないのだ。しかもテレビが映らないことが友達にバレるのが恥ずかしいと思っていたので、チャンネル争いに勝つことは翌日の休み時間を謳歌するには必須だった。にいやんもねえやんも毎回抵抗はするが、僕の小学生脳のワガママを聞いてくれチャンネルを譲ってくれた。

しかし一度だけプロ野球の日本シリーズと見たかったバラエティが被ってしまい、その時はさすがに負けた。そこで僕は反抗期に片足突っ込んでいたこともあり、思い切り罵倒してしまい大喧嘩になった。にいやんを蹴り飛ばすと、ねえやんに捕まり、思い切り腕をツネられ「もうせんな?」と言われた。「もうせん」と告げ解放してもらうと、走って台所に行き、怒りに任せて畳の上にありったけの米を撒いて逃げた。今考えると、人の家に行ってチャンネル争いをし、負けたからと行って暴力をふるい、更には米を撒いて逃げるなんて狂っている。さすがに翌日オカンと一緒に謝りに行ったが、優しい二人はすぐに許してくれ「まあこれでも飲め」と言ってオロナミンCをくれた。いつもストックしているポカリかオロナミンCの好きな方をくれるのだ。オカンにも「子供のしたことやけん、しゃあないわ」と言っていた。畳の隙間にはまだ挟まっている米が見えて、本当に申し訳ないことをしたなと思った。

本当に「家族」と呼べるほど思い出はたくさんあるが、中でも裏の人の親戚とも仲良いというのも特記すべきだろう。いつも裏の人の家にいるので、たまたま訪れた親戚たちも遊んでくれるのである。親戚の兄ちゃんや姉ちゃんは、僕と10つくらいしか年が離れていないので特に仲良くなった。兄ちゃんの仕事の話や、姉ちゃんの大学での話を聞くのが楽しかった。僕の家は田舎なのに車がなかったので、よくドライブにも連れていってもらった。車二台でにいやん・ねえやん・僕のオカン・親戚の兄ちゃん・兄ちゃんの彼女・姉ちゃん・ねえやんの妹のおばちゃん・僕で、正月に元力士の方がやっている店にちゃんこ鍋を食べに行くのが恒例になっていた。もちろん兄ちゃんと彼女の結婚式にも行ったし、今は子供とも仲良い。現在はもう高校生になってるのだが、仲が良すぎて最近まで本当に血の繋がった親戚だと思っていたらしい。

そんな小中時代を過ごしてきたのだが、高校生になると部活やバンドに夢中になってしまい、にいやんねえやんと喋ることが少なくなった。さらに高三では夜遅くまで塾に通っていたので、顔を見ない日が続いていた。たまに会っても「よう!」とか挨拶程度で、ゆっくりと過ごす時間は減った。その頃には家のテレビも直っていたのでどのチャンネルも映っていたし、ご飯も外で食べていた。かといって絆が薄れた訳ではない。でも「まあ、会ってないなあ」程度だった。そんな僕にピンチが訪れるのだが、何とにいやんが助けてくれたのである。

 センター試験当日、雪だった。四国では一年に一度降るかどうかなので、降るとパニックになる。しかも朝起きたら積もっていたのだ。何でも10年に一度の大雪だったらしい。だが人生がかかっているので、行くしかない。受験会場である徳島大学までは約5kmだが、雪道なんて慣れていないので危険すぎる。「車がなくてごめんな」と謝るオカンに「大丈夫、何とか行く」と言って自転車にまたがり必死で漕いだ。だが漕いでも漕いでも進まない。何度もこけそうになりながら何とか最寄りのコンビニまでたどり着き、タクシーを呼ぼうと携帯電話を取り出した。しかしポケットに入れていた馬鹿な僕のせいで水没していたのである。その時「プープー」と大きなクラクションが聞こえた。勢いよく軽トラックがコンビニの駐車場に入ってきた。運転席からにいやんが顔を出し「乗れ!」と叫んだ。僕は自転車を軽トラックの荷台に乗せ、助手席に乗り込んだ。にいやんの車はもちろん雪装備ではないので、運転中の顔は強張っていた。そして会場へたどり着き、受験。平常心ではなかったけれど、何とか試験をパスし関東への切符を手に入れることができた。後々聞くとねえやんがにいやんに「車で送ったれ」と言ってくれていたらしい。そして僕のオカンがもう家を出た旨を伝えると、様子を見に追いかけてくれたのだそうだ。本当に感謝しかない。だから今僕が東京で暮らしているのは、ねえやんとにいやんのおかげでもある。そのまま時が経ち東京で芸人をしながら生活しているが、帰郷した時はいつも言葉を交わしている。二人はいつも「頑張っとんか?」とか「飯ちゃんと食えとんか?」とか優しい言葉をかけてくれる。僕は食えてなくても食えていても「食えている」と答えている。それが心配せさせないことに繋がっているのかはわからないのだけれど。

また深夜の番組で週一回のレギュラーが決まった時は本当に喜んでくれ、電話をかけてくれた。夜一時の放送だったがいつも見ていてくれたらしい。番組が終わってしまった時にも電話がかかってきて「頑張っとったら、また何か出れるわ」と励ましてくれた。いつまで経っても、血が繋がっていなくても、僕にとっては「家族」だ。

そんなにいやんが1月に死んだ。80歳だった。僕は仕事をずらしてもらい、急いで徳島へ帰った。お通夜には間に合わなかったが、お葬式には出ることができた。禿げた頭に触れると、もう冷たくなっていた。ねえやんは「私も連れていってくれ」と大声で泣いていた。

僕はどうしていいか分からなかった。それは生まれたときから世話してくれた人が亡くなったことへの現実感のなさからかもしれないし、年に一度か二度しか会えなかった距離の遠さからかもしれない。でも不思議ともっと喋ればよかったとは思わなかった。たくさんの時間を過ごし、たくさんの言葉を交わしてきたのだ。おおよそただ近所に住んでいるだけの他人が交わす言葉や時間の量ではないだろう。その言葉の一つ一つや優しさは僕の中で永遠に生きている。僕の全てを可愛がってくれ、許してくれ、時には叱ってくれた。東京へのチャンスも与えてくれた。そして僕のまぶたの裏で笑っているにいやんは、これからも僕を支えてくれるのだろう。僕ももう32歳、誰かを支える側に回らないといけない。

ねえやんに聞くと11月に帰った時、何となくにいやんと喋っていて「わしもう長くないわ」と言われたことに対して、僕が「アホ言うな。100まで生きるわ」と言い返したのが嬉しく、何度もねえやんに話していたらしい。すぐに記憶がフラッシュバックしたのだが、それがにいやんと交わした最後の言葉だった。コタツの中からそう言われて、帰り際に冗談と思いツッこんだのだ。それから1月までにいやんの体調が良かったことを聞いて、僕も嬉しかった。これからもオカン、ねえやん、にいやんと共に精一杯生きていこうと思う。

声が聴きたくなったので、夜が明けたらねえやんに電話をしてみよう。その前にコンビニでオロナミンCを買って来ることにする。

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