芸人としての僕の小さな切り身をご賞味ください


芸人としての僕の小さな切り身をご賞味ください/男性ブランコ平井


「身を切り売りしてこそ、芸人である」


 これはどこかの誰かが言った言葉であります。この言葉が真実であるならば、是非とも皆様には僕の切り身を美味しく召し上がっていただきたいのです。
 これからお話するのは、まさしく僕の切り身であります。皆様にとっては小さな切り身かもしれませんが、僕にとってはなかなか大きな希少部位の切り身です。一度、箸をつけたなら最後まで責任もって、ご賞味くださいませ。平身低頭なるお願いであります。
 その願いが叶ったあかつきには、僕の切り身はあなたの血となり肉となります。そしてあなたの中に僕は永遠に生き続けます。もう、あなたは僕です。僕はあなたなのです。僕とあなたは一緒になれるのです。
 怖いですか?怖いですね。気持ちの方が悪いですね。気色の方も悪いですね。そう思った方々は僕の切り身、体に摂取した後、遠慮なく排泄物っちゃってください。僕はすっかり消えて無くなることでしょう。

 さてさて、今回お話したい内容は、どのようにして僕が芸人という道を歩むことになったかという経緯であります。その道の出発点は最初の挫折から始まったのであります。その挫折が自分の切り身というわけですね。


それでは僕の小さな切り身、開始!
(開始!と書いて始めるなんて、なかなか潔いですな)

 改めまして、僕は男性ブランコというお笑いコンビの片割れ、平井まさあきと申します。兵庫県の豊岡市出身、1987年生まれ、御歳30歳、しし座、血液型A型、生まれた時の体重3500グラム。あらあら、大きくふくよかな赤ん坊だったのですねえ~。
 しかしながら現状のルックスは骸骨が布を纏っているよう、大きな鎌を持とうものなら死神と見紛うばかり、その大きな鎌を振り下ろそうものなら、死神が仕事をしているところと見紛うばかり。まあ、死神が大鎌を振り下ろして仕事するのかどうかはわかりませんが。
 それにしても、あんなに大きな赤ん坊だったのに、ガリガリになって~、痩せちゃって~、もう~ちゃんとご飯食べないとダメですよ~と皆さんに大変な心配をかけておりますね。本当にすいませn…


だめです!

やべえです!これはやべえです!僕の生い立ちなど誰も興味ねえです!生まれた時の体重なんて誰が知りたいのかです!あぶねえところだったです!読むのやめてねえですよね?あぶねえです。あぶねえです。


すいません。取り乱しました。取り乱しすぎて口調というか筆調が舎弟感を満載してしまいました。ここからです。ここから。


 僕が芸人を志した経緯であります。ここも正直なところ皆様にとって興味があるかどうかわかりませんが、よろしかったらお付き合いください。

 僕は中学生、高校生、大学生と学生生活を送ってまいりました。人生の中でも濃ゆさピカイチを誇るこの時期、一言で表現しますと、冴えていませんでした。芸人として己を振り返る際に厳しいのが、この冴えなさも、他と一線を画す冴えなさではなく、冴えてなさが普通の感じでした。
 友達も少ないながらいましたし、女子ともまあ、しゃべることはできるけど、付き合うとかは絶対にない感じで、いじめられもせず、平々凡々を地でいく冴えなさ。勉強も平均、身体能力も平均です。(ただルックス布骸骨、これは神より賜りし才能、ここは非凡)


 僕のこの学生時代は、総合的に平でありました。平な学生時代でした。僕の苗字は平井です。平な人生の申し子なのかも知れません。(もちろん、平であることはある種、幸せであるということは自覚しております)


 上記には中高大とあります。学生時代の代表格が、ひとつ抜けておりますね。そうです、小学生時代です。

 ここです。この小学生時代こそ、まさしく人生のターニングポイントだったのです。ターニングのポイントなのです。ポイントがターニングしたのです。ターニングしてこそのポイントなのかもしれません。いや、ターニの方がポインティングしているのかもしれません。はい。わけわからないですね、すいません。続けます。

小学生時代のターニングポイントの話、開始!(また開始!がくるとは、僕にも想定外の事態です)


[僕の切り身 小学生の頃の挫折]


 僕の小学生時代は、小学1年生から小学4年生までの記憶は曖昧です。しかし小学5年生から6年生の記憶は鮮明であります。
 なぜならこの期間は僕の人生の1ページに燦然と光輝く黄金の1ページだからです。そのまばゆい光がゆえに濃ゆい影をおとすことになることも、これまた事実でした。

 この時代、まさにテレビバラエティ全盛期、「めちゃめちゃイケてる」「笑う犬の冒険」「ぐるナイ」「ウリナリ」「ごっつええ感じ」などなど、その数の多さたるや、指折り数えたら平井一族郎党の指を借りなければいけないほどです。そして僕は関西出身。

 学校で人気者になれるのは、足が速いやつでもなく、勉強ができるやつでもなく、ケンカが強いやつでもなく、おもしろいやつでした。おもしろいやつが人気者になれる小学校でした。
 今の僕を知っている方は驚かれるとは思いますが(知らない人はよろしければ男性ブランコ平井でオッケーグーグルしちゃってください。ついでにネタも見てください。ついでにライブにも来てください)

 当時の僕はクラスの人気者のグループにいました。そのグループを「イケイケグループ」と名付けていました。ちなみに今でいうチャラいイメージのイケイケということではなく「めちゃめちゃイケてる」の「イケ」を拝借したのです。

 そのグループでやることは、今から考えると、もちろん子供が考えそうな幼稚なことばかりでしたが、「おもしろいこと」というものに熱心に真摯に向き合っていたように思えます。

 例えば、教室の後ろにある今日の時間割りが書かれている小さな黒板に、オリジナル学校のオリジナル時間割りを書き込んだりしました。


アメリカ学校の時間割り
1時間目:パーティー
2時間目:パーティー
3時間目:パーティー
4時間目:パーティー
 

カブトムシ学校の時間割り
1時間目:樹液吸う
2時間目:クワガタと戦う
3時間目:樹液吸う
給食:鳥に食べられる


侍学校の時間割り
1時間目:切腹


 おぼろげながらですが、こんな感じのことをみんなでワイワイとしゃべりながら考えていました。今思えば、粗い大喜利です。これもテレビでやっていた何かの番組の影響なのだと思います。

 あとは、無謀選手権なるものも開催されました。どういう経緯かは忘れましたが、「無謀」なやつがおもしろいということになりました。小学生ながら、とりあえず無茶したやつが優勝です。僕が覚えてるものだけでも、どんなものがあったか挙げていきます。もちろんすべて誰かが誰にやらせたとかではなく、自分で考えて、自分からエントリーしています。


「学年で一番キック力あるやつからのケツキック」
「学年で一番肩強いやつからのドッヂボール本気投げをゼロ距離でキャッチする」
「エアガンで自分の肌むき出しの内ももダイレクトショット」
「自転車で全力疾走して、ノーブレーキで、田んぼに突っ込む」
などなど。
なかなか気合いの入った無謀な演目が並んでいます。

 僕が個人的に好きだったのは、Hくんの
「自分の宝物のラジコンカーをゆっくりと川に流す」でした。
アホですね。とってもアホです。自分でやりだしたのに、ちゃんと目にうっすら涙を浮かべていたのが本当に笑いました。

しかし、その無謀選手権を満場一致で制し、優勝したのは、Sくんでした。

演目は「砂利混じりのアスファルトの上を、パンツ一丁でスライディング」でした。

 もう太もも血まみれ、目も当てられない有様でした。しかしながら、Sくんは血をだらだらと流しながら、天空に拳を突き上げ、勝利のガッツポーズをしました。見ていた僕らも、その熱に浮かされ、同じく手を突き上げました。どうかしていました。

 優勝理由は一番のケガだったから。なんと危険な判断基準。それでも一番盛り上がった演目であったのは間違い無いので、納得の優勝です。
 後日、Sくんは太もも一帯にできた大きなカサブタをぺりぺりときれいに剥がして、それを額縁に入れて飾ったとか飾らなかったとか。

 かくゆう僕の演目は「雪に顔をずっとつける」でした。(地元は豪雪地帯)
はい。もちろん、ちゃんと変な感じになりました。結構ずっと雪に顔を埋めていましたが、評価は全然だめでした。誰も、この演目を覚えてないと思います。地味で愚かなる演目でした。

 僕はこういった光り輝く小学生活を「おもしろいこと」と共に歩んでいきました。
そんなある日、あの無謀選手権覇者Sくんから、突然こんなことを言われました。

「平井ちゃん(僕の当時のあだ名)って、おもろいよな~。芸人とかなったら?」

 Sくんのその何気ない一言でした。
 その時、体の奥からぐぐっと何か熱いモノがせり上がってくる気がしました。それはとても熱いモノでした。それが何かはわかりませんでした。ただ大きいサイズのモノでした。
 無謀選手権覇者だけでなく人気者グループの中でも屈指のおもしろい同級生Sくんに、そんな褒め言葉を言ってもらって、単純に嬉しかっただけなのかもしれません。

 そのサイズの大きな熱いモノの正体を知るのに、時間はかかりませんでした。家で、いつものように「めちゃめちゃイケてる」を観てケラケラ笑っていた時にふと思ったのです。


あ、芸人になりたい、と。


 その形のないビッグサイズの熱いモノの正体は、恥ずかしげもなく文字化するのならば、夢というモノでした。目標というモノでした。
 Sくんに「芸人になったら?」という言葉をもらった時に嬉しかったのは、僕が最も言ってもらいたかった言葉だったからでした。

 それからというもの、見える景色が一変しました。世界はキラキラと輝き、体内からはメラメラとおもしろいことしたい言いたいという思いが燃え盛っていったのです。  
 学校に行くのがとても楽しくなりました。「イケイケグループ」を笑かしたい。クラスメイトを笑かしたい。先生を笑かしたい。学校中を笑かしたい。日本を笑かしたい。世界を笑かしたい。子供ながら、そんな壮大な思いを抱くようになりました。

 これまた子供ながらですが、では「どうすれば人を笑わせることができるのか」と考えました。まず僕が実行したのは、学校で自分がやったこと言ったことで人が笑ったことをメモするということでした。
 そこからメモメモ書き書き生活がはじまりました。授業もろくに聞かず、休み時間のことを思い返しながらメモをとる毎日でした。

 しかし、このメモメモ書き書き生活をすることが、この燦々と光り輝く生活に、くっきりとした暗い影を落とすことになるとは、この時のメモメモ書き書き僕僕は知る由もなかったのです。(ちなみに、この『~知る由もなかったのです』はすごく書いてみたかった言葉なので、よかったです。これを書ける機会を与えてくれたSTORYSさんに感謝です。STORYSさん万歳。STORYSさんに媚び爆売り)

 メモメモ書き書き生活が1年ほど続いていたある日のこと。なかなかノートが埋まってきたので、今一度、読み返してみようと思いました。
 ページをめくります。整理整頓されてない文章が並んでいます。読み辛いなと思いながらページをめくります。


○月○日
給食のじかん
Tくんの言ったことばで、ぼくが牛乳をふく。それを見たまわりの男子が笑った。


○月○日
国語のじゅぎょう
ぼくは少しカゼひいていたから、先生が教科書をよんでいるときに大きな音を立てて鼻をかむ。先生が「どのタイミング?」といった。みんな笑った。



あれ?と思いました。

おや?と思いました。
何か違和感を感じました。

ページをめくります。



○月○日
イケイケグループ
Sくんが、「平井ちゃんは、あれやもんな、目がほそいから、見えるはんいも、横長なんやろ?」といった。ぼくは「ちゃんとみえてるから」とかえす。みんな笑った。


○月○日
イケイケグループ
ぼくにあたらしいあだ名をつけることになった
みんながいろんなこうほを出して、あみだくじできめた
五目平井になった
みんな笑った。


○月○日
テスト
後ろの席のHくんに、テストの答えぜんぶルパン3世ってかいてっていわれたから、そうした。先生に「アホなことするな」とおこられる。
みんな笑った。





あ。


僕はその違和感に気付きました。



僕は気付きたくなかったことに気付いてしまいました。



 その瞬間に、膝からガクンっと崩れ落ちました。アゴにサガットのタイガーアッパーカットをまともにくらったようにガクンっと崩れ落ちました。実際ガクンっと音鳴ってたと思います。


そうです。



僕は笑わせていませんでした。



 僕から何か行動して人を笑わせていなかったのです。
僕発信の事象は1つもありませんでした。

 僕の周りの笑いの元となっていたのは、すべて誰かのアシスト、自然発生的なアクシデント。僕が何かをして、みんな笑わせるということは一切ないということ。これは僕の周りのおもしろい同級生達のおかげであるということを意味していました。


 僕は失神しました。いや!してなかったかもしれませんが、その失神ランクの視界が真っ白に染まるほどの衝撃を受けたのです。僕は人を笑わせていなかったのです。


 自然と涙がこぼれました。
 嗚咽はなかったと記憶しています。涙がスーッと頬を伝うみたいな美しい落涙でもなかったです。僕は「え~、え~、まじか~、え~、え~」と言いつつ、立っては座り、歩き、止まり、また歩き、座りを繰り返して、涙をボタリボタリとだらしなく垂らし、鼻水も垂らし、ヨダレも垂らせるだけ垂らし、体内水分減らしたもん勝ち大会ならベスト4には入るぐらいの水分を排出しました。
 認めたくないような、認めざるを得ない状況に、あらゆる感情がスムージーになったのでしょう。ん?スムージー?どういうことでしょう?ん?ん?体内水分減らしたもん勝ち大会?ん?…まあいいでしょう!


 僕は負けたのです。
勝ち負けではないのかもしれませんが、はっきりと負けた気がしました。
体内は流れ出た水分の代わりに敗北感でいっぱいになりました。体内に敗北感が満たされた後も、止まることなく体外へ溢れ出ました。その忌々しい黒い敗北感は白い脱力感を伴い体の周りに纏わり付いて離れることはありませんでした。
 そこで芸人になるのは無理だと思いました。笑わせることのできない人間は芸人にはなれないと、そう思いました。
 そして僕は1年書きためたメモを捨てました。細かく破って空中に投げて、乱れ舞う破れたページを浴びれば少しは劇的だったかもしれませんが、ぽいっと捨てました。
 そうして、メモ書きをしていなかった生活に戻りました。


 これが僕の小学生の時の挫折です。僕の切り身です。ここまで読んでいただいた皆さんからすれば、こんな挫折、挫折の内に入らないよとおっしゃられるぐらいの、ちょびりんとした小さな小さな切り身かもしれません。でも僕にとってはなかなかの大きな切り身です。


もう少しだけお付き合いください。続きです。


 この生まれて初めての挫折を食らわせられ、かなり長いこと、落ち込みました。三歳年上の兄ちゃんが鍵付き引き出しの中に隠していた『ふたりエッチ』をこっそり盗み見しても、立ち直れませんでした。飛び火的に兄ちゃんの身を切ってしまいました。ごめん。兄ちゃん。

 この時代はテレビバラエティ全盛期であると共に、ネタ番組も豊富でした。「爆笑オンエアバトル」「M-1グランプリ」などありとあらゆる、ネタ番組がありました。僕はそれを穴が開くほど観ました。単純におもしろかったからです。ビデオに収め、テープが擦り切れるほど見ました。ビデオなんて久々ですね。そうすることで自分の無能さを忘れられる気がしました。

その内に、はたと気が付きました。はたはたっと気が付きました。

なるほど。ネタか。コントか。漫才か、と。

これは自分発信のものです。自分で考えて、発信できるものなのです。

自分で作ったもので笑かす。

 このコント、漫才だったら、自分発信で、人を笑かし、楽しませることができるのではないか。現にネタ番組を観て、あたくし楽しんじゃってる。笑かされちゃってる。

 そちら側に行きたい。楽しませられる側、笑かす側に回りたい、そう強く思うようになりました。それがコント、漫才に憧れを抱いた経緯となります。そこから右往左往上往下往右上往左下往ありまして、その憧れを抱いたまま、芸人の世界に飛び込んだのです。


 今年で僕は芸人として芸歴8年目となりました。僕はこれからも芸人を続けることでしょう。
 本来ならば、こういう回顧録のようなものは、何かを成し遂げた芸人が書くものです。何も成し遂げてない無名の芸人の昔話など、誰も興味のない話なのかもしれません。
 しかしながら、皆さんにはお手数ではありますが、もう一度、この話を自分に初めてできた甥っ子が書いた文章だと思って読んでみてください。これなら多少の興味は持てるはずです。自分の甥っ子がハシャいで書いた文章だとしたら楽しく読めるかもしれません。是非お試しください。

 最後になりました。ここまで読んでいただいた心優しき皆様ありがとうございました。誰の何の話かわからない話をここまで読んでくれた方々は格別にお優しい方々です。皆様は徳を積みました。徳特盛です。確実に天国行き決定です。間違いありません。保証します。保証期間は3ヶ月です。

 僕の切り身は皆さんのお口に、いや、お目にお合いしましたでしょうか?
楽しくご賞味していだだけていたら、こんなに幸せなことはありません。また何かの機会に別の切り身も差し出す所存であります。その時まで、切り身一つ入るスペースは是非空けておいてください。ありがとうございました。






追伸(手紙じゃないけども)

小学五年生の平井ちゃんへ

22歳で君の望み通り、コンビを組んで芸人になったよ。
今は30歳。いわゆる売れている、成功している芸人にはなれてないけど、何とか自分の好きなことをやっているよ。これからどうなるかわからないけど、君の芸人になりたいという大きな熱いモノが間違ってないことを証明するために続けていくよ。
また何かあったら報告します。それでは。

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