スポ選で県内トップの高校に入学後、戦力外通告を受けた私が、国際線客室乗務員になった話。前半

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「このメダルはお前が持っていろ」

2005年8月。

千葉インターハイ剣道会場で、
「団体準優勝」という結果を残し、
歓喜のムードに包まれた自分のチーム。

・・・その片隅で、
私は一人、顧問に呼び出されていた。

手渡された銀メダルが、手のひらで光る。

「お前もスポ薦で入った一人なんだから」

涙をこらえるには苦しすぎた、顧問の優しさだった。


・・・これは、13歳から剣道を始めた私が、県内トップの高校にスポーツ推薦で入学し、「選手外通告」を受け、3年後に客室乗務員になるまでの物語である。


剣道との出会い
私が剣道を始めたきっかけは、あまりにも単純だった。

仲の良い友人が、一緒に剣道部の見学に行こうと誘ってくれたから、付き合いで顔を出したのだ。

はっきり言って、その時は剣道に興味が無かった。

バドミントン部に入部する事を決めていたから。

・・・しかし、物事は急展開を迎える。

見学が終わった日、私はたまたま、ずっと好きだったチャゲアスのASKAが、剣道の有段者(三段)であることを知ったのだ。

「ASKA三段持ってるんだ…私も三段取ろう。」

これが剣道を始めた理由。
これ以上でもこれ以下でもない。

この日から、私は日本一の剣士を目指すことになる。


中学一年生から始めた剣道。
中学の3年間は、私にとって非常に華やかな3年間だった。

指導者に恵まれたのと、女子の先輩部員が3人だけだったことから、レギュラー入りは最初から必然。

これは大きかった。

当然最初は、試合の流れが分からず適当に時間が経つのを待っていたが、強い選手を見る事で、段々と勝ち方の法則が見えてくる。

毎日の稽古はラクではなかったが、メキメキ成長するのが目に見えて分かったので、正直、楽しかった。

それまでは、県の区大会で、一勝もあげられなかった無名の弱小チームだった我が校は、そのわずか一年後には、県内の2強校入りし、代表として関東大会に出場するまでに成長する。

高校のスポーツ推薦の声がかかったのは、私が3年生になったばかりの頃だった。

正直その頃の私は、神奈川県内の剣道部員には、ある程度名前が知れ渡っていた。

〇〇中学校で、大将を張ってる橘田

自分の肩書に壮大な勘違いをしていた時期でもある。

強い部員を抱える県内の高校からは、おおむね全てから声がかかった。

ひと際熱心に声を掛けてくれたのが、その年、神奈川でトップに躍り出てインターハイの切符を手に入れた、私立の進学校。

私の母校である。

私立ということで父の大きな反対を受けたが、母は応援してくれた。

当人の私はと言うと・・・

実は、高校の剣道部を舐めており、「ま、大丈夫っしょ」程度の気持ちしかなかった。

それよりも、早々に「スポ薦」での進学が決まり、周りが受験勉強に励む中、このピリピリ漂っている教室中の空気を、自分だけ恵まれた環境で、どう切り抜けようか、そんなことばかりを気にしていたと思う。


県内トップの私立高校に入学

高校に入学してから、今まで自分がいかにぬるま湯のような環境で竹刀を振っていたのか痛感することになる。

次元の違う稽古のキツさだった。

これほどまでに「次元が違う」という言葉が最適な環境はそうそうないと思う。

一体どういう体力をつければ、こんな稽古についていけるようになるのか。。。

一つだけしか年の離れていない先輩が、平気でガンガン動いている。

死ぬかと思った・・・

これが最初の稽古を終えた感想である。
素直に死ぬかと思ったのだ。

私の同期として同じくスポ薦入学してきたメンツは、すでにほとんど顔見知りだった。

中学校で成績を残してきたメンバー。

その中でもダントツでエリートだったのが、全国中学校剣道大会予選の決勝戦で戦ったライバル。

彼女はその年、誰もが認める県内最強の剣士だった。

私の代は、顧問が「この代で全国制覇をする」と前から宣言していた年のメンバーで、自分で言うのもなんだが、県内のエリートが集まっている感はあった。

期待されている感も最初からあった。

「自分たちを差し置いて・・・」

と言わんばかりの2年3年の先輩方の目線は、とても痛かったのを覚えている。

ハッキリ言って、それくらいポテンシャルの高いメンバーが揃っていたと思う。

自分も含めて。爆

最初から「勝つ」ことが前提のチームだった。
「負ける」という選択肢は無かったのだ。

私は今まで、ずっと誰かの後を追ってきた立場だったので、こういう環境は、初めてだった。

入学からしばらくはこの空気感になじめていなかったと思う。

同期のメンバーにも多少気を遣っていたと思う。

ただ、これはすぐに解消された。

同期に気を遣っていられるほど、稽古がラクではなかったのだ。

最初の頃は、全力を尽くしてもまだまだ全然追いつけるような練習量ではなかった。

・・・ただ、高校に入って気が付いたことなのだが、私は『努力』が苦手ではない学生だったらしい。

努力すれば報われる。
無駄な努力なんて世の中に存在しない。
だから絶対にあきらめないし、頑張り続ける。

私の基本モットーはこんな感じだった。

誇張なく本気でこう思っていたし、行動も伴っていたと思う。


要は、「まじめ」だったのだ。

この姿勢は、先輩からすぐに可愛がられた。


同級生メンバーは、全員それぞれ素直な学生だったと思う。
平均的な15歳の女子(見た目は男子)だ。



・・・が。

私はその中でも、ずば抜けて頑張り屋だった。

頑張ることが苦手じゃなかった私は、吐き気を伴うようなキツい練習も耐えた。

稽古に負けたことはなかった。

先輩だけでなく、同級生からもこの点は一定の評価を得ていたとも思っている。


・・・でも、肝心なので、きちんと言う。


この性格は、後に、大きな問題を引き起こす。


アキレス腱の怪我

高校二年の秋ごろ。

丁度、一つ上の先輩の引退が目前だったころだろうか・・・

この日は多分、どこかの試合で負けてきたのだろう。

詳細はよく覚えていないが、稽古のメニューに「4分かかり」が入っていた。

かかり稽古とは、剣道をやっている者なら誰でも知っているだろうが、終わりの合図があるまで、相手と相互に全力で竹刀を振り続ける、剣道の稽古の中でも一番きついメニューの一つである。

それを、4分間連続で行う、という内容だった。

ここに駆け引きや間合いなどは必要とされない。

ただただ、出せる全力の力を時間いっぱいまで出し続ける、地獄のようなメニューである。

・・・少なくとも、12年前までは。

話を戻すが、実は私は、この日の稽古が始まったばかりの段階、準備運動のストレッチの段階から、左足に違和感を感じていた。

だが、最初からキツイと分かっている稽古に「参加しない」というのは、
ある種、メンバー内の信頼関係に大きな溝を生む大問題であり、そこを責められるのは嫌だった。

それに、その時は大して痛みも無かったので、私はそのまま稽古を続行することにした。


そして、とうとうあの「4分かかり」が始まったのだ。


それまでもずっと、鈍くて緩い痛みが左足に走っているのは知っていた。


でも、稽古を辞めるという選択肢は、その時の私には無かった。


いつもの通り、全力で切り抜けよう。


自分の番だ。

全力で最初の一歩を踏み込む。


ピキ・・・


嫌な音がしたのを感じた。

鈍くも確実な痛みがあるのを知りながら、気のせいだと振り切り、竹刀を振り続ける。


まだ開始から1分経っていなかった。

ここで辞めてはいけない・・・



バーンっ!!



本当に、体の中で破裂音が聴こえた。
強烈な痛みが、左足に襲い掛かる。


・・・本来であれば、ここで絶対に中断すべきだった。

ドクンドクンと、左足が脈打っているのが分かっていたのだから。



なのに。

私は竹刀を握り続けていた。


途中で稽古を辞めることが、
最後まで頑張れない自分が、
その時、どうしても許せなかった。


異常な痛みを抱える左足をかばいながら、全体重を右足に預け、踏み込み続ける。


意識はほとんど、
無かったのかもしれない。


その時・・・



パチンっ!!



と、はっきりと音が聞こえた。


三度目の正直だった。


さっきとは比較にならない痛みが、今度は左足、右足と、両足に流れた。



・・・後のことはよく覚えていない。


ハッキリと覚えているのは、いつもお世話になっていた整体師の先生に、

左足のアキレス腱が、90%以上切れている。
右足のアキレス腱も、70%以上切れている。

と言われた時だ。


私は、両足のアキレス腱を、同時に半分以上失った。




この事実は、誰よりもまず、私の両親を動揺させた。

アキレス腱の怪我など、スポーツ選手にとって、どれだけ致命的なことなのか、さすがの両親にも分かっていたらしい。

この頃から、私の両親の間には、はっきりと溝が生まれていた。


やっぱり私立になんて行かせるべきじゃなかったと言う父。
それでも頑張ってるじゃない。と、私を庇う母。



当の私はと言うと、やけに冷静だった。

先生の言う「3か月後に復帰を目指す」という、次の目標にすでに動き出していたからだ。


正直、けがの後の1週間は、気楽だった。

”正当な理由”で稽古に出られないのだから。


恐らく、この時の同級生も私に同情する反面、うらやましいと思っていたに違いない(笑)

それほどまでに稽古に出ないということは、精神的にも肉体的にもラクなのである。

だが、このお気楽な感情は一週間以上は続かなかった。

私の学校には毎年、中学時代に結果を残してきた強い剣士学生がスポーツ推薦で入学してくる。

スポーツで学校名を有名にする役目を担っているのだ。
当たり前である。

だがこれは私にとって、とてつもないプレッシャーでもあった。

少しでも隙を見せれば、レギュラーというポジションは簡単に取られる。


結果が全ての世界で、結果が残せない選手には「価値が無い」のだ。


スポーツの世界では、どれだけ努力をしていようとも、どれだけ性格が良くても関係が無い。

 


「試合での勝利」

これが全て。

それ以外のプロセスは、決して見られることは無い。


だから私は、動かせない両足の代わりに、上半身の肉体改造を始めた。

不安を断ち切るために、必死に筋トレに励んだ。

今までのメニューをさらにキツく設定し、誰に言われるわけでもないのに、日夜、自主トレに励んだ。


努力は必ず報われると思っていたから・・・


この自主トレが、後に私の足を大きく引っ張ることなんて、この時はまだ微塵も予想していなかった。

 


地獄の始まり

そして、3カ月が経った。

完全では無いものの、少しづつ稽古に戻れるくらいまで、アキレス腱は回復。

医師のGOサインと同時に、私は道場へと走った。


復帰後、初めて胴着を着て、
防具を付けて、
竹刀を握った瞬間・・・

私は事の重大さを知る。


体が動かない。
体が動かない。
本当に動かない。


これはなぜかというと、付きすぎてしまった上半身の重たい筋肉を、筋力の落ちた下半身では支えられなくなっていたから。

私は自主練を毎日毎日積み重ねることで、見事に、肉体改造に失敗。


致命的にバランスの悪い体になってしまっていたのだ。



今まで軽く打てていた技が打てない。
体が追い付かない。
脚よりも先に、手が動いてしまう。

これは剣道の選手にとって、致命的な問題。


・・・まさに地獄の始まりだった。

地獄の始まりとは、このことを言うんだと思う。


頭・上半身・下半身。
それぞれに脳みそが付いているんじゃないか、と錯覚するほど、思う通りに体が動かなかった。

復帰した以上、いまさら自分だけ特別メニューを許可してもらうことなんて、できない。

この体で、これからまた、あのキツい稽古を乗り切っていかなければならない。

一度ついた筋肉を、全力疾走しながら、一体どうやって落とすのか・・・

17歳の私には、とてもじゃないけど思いつかなかった。



・・・ここからは、試合で結果を残すことはおろか、ろくな動きが出来なくなった。

稽古を乗り切るだけで精一杯だった。


今だ!今この技を打てば・・・!

と、頭で思ったことなんて、何万回もある。

 

今までなら、その思考とともに体が動いていた。

もしかしたら反射的に動けていたかもしれない。


・・・が、今は違う。

頭が反応した瞬間、腕が先に動こうとし、下半身が全然ついてこない。

だから、先のことが分かっても、全て後手後手に回った。


・・・これではチャンスを生かせるはずがない。


当時17歳の私には、かつてない、恐ろしいほどのフラストレーションが溜まっていった。


顧問や同級生から不甲斐なさを責められても、何も言い返せなかった。

どうすればいいのか、本当にわからなかった。

 


・・・努力は報われるはずなのに。

頑張れば結果はついてくるはずなのに。

 

ただただ空回りの毎日だった。

 


自分が良かれと思ってする行動は、全てが見事に悪い方向に進んでいった。

成績も当然残せない。


そして私は、いとも簡単にレギュラーから外される。


スポ薦のプライドなど、もう持っていられる余地などなかった。



周囲からは、常に憐みの目で見られた。

高校に入って、橘田は終わった。
橘田は高校で潰された。

そういう声は、もう何百回も聞いてきた。

スランプとか、そういうものではなかった。
それは自分が一番わかっている。

もっと単純な問題。
シンプルに、体が動かないのだから。


娘がもがき苦しむ姿を見て、母は私に隠れて泣いていた。

そのことも知っている。


父は私に、「お前はただの金魚の糞だろ」と暴言を吐いた。

選手の後について回る戦力外選手、こういうことを言いたかったのだろう。


母は私のために熱くなって、涙を流しながら父親に反論していた。

そんな母を、私は黙って見ていることしかできなかった。

申し訳ない気持ちと、不甲斐ない気持ち。
もう罪悪感しかなかった。


・・・この日から、
父と母には、もう埋められない溝ができた。



・・・でも私は、この時も、やけに冷静だった。

人間はどん底まで落ちると、もしかしたら、とても冷静になる生き物なのかもしれない。


父の言っていることは、悔しいけど、その通りだと思った。

言われなくても、自分が一番、そんなことは理解していた。

 



この時の私は、中学時代に溢れ持っていた自信など、微塵も持ち合わせていなかった。

中学時代には、かつて一度も負けたことのない選手にさえ、勝つことが出来なかった。

誰にも勝てる気がしなかった。

いや、それ以上に、もう戦う意志さえ、ほとんどなかった。

そして舞台は、冒頭のインターハイ会場に戻る。

夏のインターハイが終わり引退をするその日まで、私はとうとう一度も本来持っていた動きを出すことはできなかった。


多分途中から、出す気力も無かったんだと思う。

 


今だから言えるが、インターハイの会場で私は内心、チームの応援などしていなかった。爆

「負ければいいのに」とさえも、思っていなかった。


正直、どうでもよかったのだ。


ここまで来たら、選手としては完全に終わりだと思う。

自らやるスポーツではなく、完全にやらされているスポーツになっているのだから。

戦力外選手の精神状態が、会場で戦っている選手のパフォーマンスに本当に響くのであれば、チームが決勝で負けた理由は、私にあるのかもしれない。

健闘を終え、全国2位という結果を残し、会場から帰ってきたメンバーは、違う惑星の生き物に見えた。

この時の私の感情は「無」意外に表現方法は無いと思う。

とにかく早く、家に帰りたかった。

いや、家に帰りたかったわけじゃない。

一人になってしまいたかった。

ミーティングを終え、いよいよ解散の時が近づいてきた時、私は顧問に呼び出される。

そして大会側から、選手とは別に顧問用として進呈される銀メダルを、手渡されたのだ。


「このメダルは、お前が持っていろ」
「お前もスポ薦で入った一人だからな」



・・・頭の中で、何かがガシャンと崩れた。

この時の感情が、何だったのかはよく覚えていないし、いまだに何を思ったのか、よくわからない。

ただただ、苦しかったのは間違いない。


この日、最後まで一度も出なかった涙が、ここで初めて流れた。


でもこの涙は、インターハイで準優勝というチームの結果に喜ぶ涙でも、あと一歩で全国制覇を逃したことに対する悔し涙でもない。


「橘田」というかつては「選手」だった自分の不甲斐なさに情けなくなって泣いたのだ。


よくオリンピックや大きな大会で結果を残す選手は、

「支えてくれた家族や仲間のおかげで、ここまで来れた」

と言う。

彼らの言っているこの感情は、嘘ではないことは知っている。

なぜなら、中学時代、私も心の底から、こう思っていたし、そう話していたから。


でも選手から外れて、補欠にも入れない、文字通り「戦力外選手」になって改めて分かったことがある。


結果を出したのは、選手が頑張ったからなのだ。

選手が強かったから、結果が出た。


これが全て。


手渡されたメダルは、正直全然嬉しくなかったし、全然いらなかった。


・・・だけどこの時、私の頭の中では、もっと大きな何かが急速に起こっていた。


すーっと頭の中が冴えわたる感覚。
なにかが吹っ切れた、という状況だったのかもしれない。

「要りません」

と、のどまで込み上げていた感情的な言葉を飲み込み、その代わりに・・・

「ありがとうございます」

と答えた。


そしてこの言葉の裏側にはすでに、「決別」という強い意志があった。


私はこれから、全然違うフィールドで、ここにいる大人、同級生、全員を見返す。


それは静かで、そして強烈な、紛れもない「闘争心」だった。

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