【第6話】恋する惑星:シンガポール1996年、ベンクーレン通りの安宿にて
その晩ゴリラは戻らず、かといってくるくる巻き毛が暴れるわけではなく、平和な夜を過ごした。
シンガポール3日目。
そろそろインドネシア行きの船の切符を取らなければと思ってバイク便に聞くと、バタム島行きのフェリーがあることを教えてくれた。親切なバイク便は旅行社までついてきてくれると思いきや、そそくさとICUとジョホールバルに行くと行って出ていった。
相変わらず三年寝太郎のくるくる巻き毛は放っておいて、僕はキャサリン妃と屋台で朝食を食べた。彼女はロンドンにあるどこかの大学のジャーナリズム専攻の学生で、彼氏と一緒に旅行に出たものの、マラッカで大喧嘩して別行動を取ることになり、シンガポールに来たのだと言う。しかし来月にはコルカタで合流しそこで一緒にボランティア活動をする予定なのだと言う。
「イギリスにいてはわからない世界の現実を見てみたい。」
彼女はそう熱く語った。それから彼女はゲイラン地区に行かないかと僕を誘った。ここで詳しくは述べないが、当時を知っている人ならピンと来ることだろう。彼女は一人では不安だったようで、僕も好奇心に釣られて彼女と行ってみることにした。
行きのバスの中で語るキャサリン妃の話によると、僕たちが宿泊している宿はもともとは外国人労働者が泊まる簡易宿泊所で、ゴリラはその労働者の世話人兼監視役なのだと言う。実はゴリラはあのドミの寝床以外に会社が提供するシャワー付きの個室をあてがわれているのだが、変わり者のゴリラはあの宿にいることの方が多いのだと言う。
「僕が使わないときは、あっちの部屋を自由に使っていいよって言われてるんだけどね。」
キャサリン妃は意味ありげに、にやっとした。エロゴリラめ。
しばらくして僕とキャサリン妃はゲイラン地区に入ったのだけれど、もちろんこんな真っ昼間に何かが起こる訳はなく、彼女と僕は汗だけをたっぷりかいて昼頃には宿に戻ってきた。
すると痩せ細ってはいるものの、眼光だけは異様に鋭い宿のオヤジが扇子をパタパタあおぎながら、僕とキャサリン妃に声をかける。
「おい、あのフランス人は何者なんだ?」
宿のオヤジによると、彼はこの日の午前シャワールームで嘔吐と失禁を繰り返し、病院に運びこまれたのだと言う。
「ああいう客は迷惑なんだよな。君らも迷惑してただろ。でも、もう大丈夫だ。ヤツと一緒に荷物も放り出してやった。あとは大使館が何とかするだろうよ。」
せいせいした様子でオヤジはひとりごちながら帳場の奥に消えていった。
僕とキャサリン妃は彼が変な病気じゃないかとビビりまくったが、最終的にはキャサリン妃の分析による、くるくる巻き毛ジャンキー説を採択しこの事は忘れることにした。
「だってあんなに寒いのに気づかないとか、突然喚くとか普通じゃないわよ。彼の頭はクスリにやられていたに違いないわ。」
ま、とにかく厄介者はいなくなったのだ。それから遅いお昼をキャサリン妃とマクドナルドで食べて、あとは近所のデパートなんかを彼女とぶらぶらした。僕は彼女に聞いてみた。
「ICUとバイク便についてどう思う?」
キャサリン妃はしばらく考えてからこう答えた。
「そうね、ICUは彼のことを好きなんだと思う。バイク便も彼女のことは悪く思ってないはずよ。でも、彼には彼女の気持ちに応えられない事情がありそうね。」
そうか、ま、フリーターじゃ彼女作る気にもならないのかもね、と僕が言うとキャサリン妃は可愛らしい笑顔を作ってこう言った。
「キューピットになってみたら?」
いや、そんな柄じゃないし、人の個人的な事情に首を突っ込むのは好きじゃないと言うと、キャサリン妃はふーんと言って、僕の瞳をじっと覗きこんで言った。
「あなた、ICUはタイプなの?」
僕は確かにICUはよい子だけど、何も思わないし、第一彼女の眼中にはバイク便のことしか目に入らないじゃないかと彼女に言った。
「ふーん、じゃ、私のことはどう思う?」
僕の目をしっかりと見つめて彼女はこう言った。いきなりなんだ、この展開は?ドキッとして彼女を見返しても、彼女はまだ僕の顔を探るように覗き込んでいる。
つづく
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