【第8話】恋する惑星:シンガポール1996年、ベンクーレン通りの安宿にて
翌朝、安宿のベランダで男3人で朝食。とってもおしゃれじゃない。
シンガポール4日目。
バイク便がキャメロンハイランドで買ってきたというお茶を淹れ、ゴリラが必殺の食パンとヌテラを提供し、僕は下のグロッサリーで買ってきたドリトスを差し出した。ICUは昨日バイク便とジョホールバルから帰ってきて以来、どことなく元気がない。
ゴリラがおもむろに財布から一枚の写真を取り出して僕とバイク便の前に差し出した。そこにはビール片手に微笑むゴリラと、どことなくキャサリン妃に似た女性が写っていた。彼の話によるとどうやらゴリラはバツイチで、この女性は元妻だという。僕はゴリラに問う。
「写真を持ってるってことは、まだ好きなの?」
「どうかな、ま、今でも思い出すことはあるかな。いずれにしてもこんな生活じゃ、結婚は無理だったんだな。」
バイク便が言う。
「いや、それは君次第じゃなかったんじゃないかな。」
ゴリラがは破顔して応じる。
「ははは、こんなドミ暮らしで結婚生活が送れると思うのか?こっちのベッドが俺、あっちは妻、上はガキってか?冗談じゃないよ。」
僕とバイク便は彼が別な寝床を持っていることを既にキャサリン妃から聞いて知っていたが、二人ともあえてそこには触れない。人にはいろいろと事情があるものだ。
「ま、それもそうだね。」
排気ガスに煙る街を眺めながらバイク便がつぶやいた。空はどんよりと雲っている。
「で、お前はどうなんだバイク便?」
ゴリラが問う。
「そうそう、彼女なんか元気ないっすよ。」
僕もゴリラに続いて問う。聞きたいのはもちろんICUのことだ。
「どうって別に、何もないよ、何にも。」
でも、お前昨日デートに行ってたんだろう?とゴリラが問うと、バイク便は観念したのか少しずつ話し始めた。
昨日はICUからどうしてもひとつ目の国境は一緒に越えて同じ日が記されたスタンプをパスポートに残したいと懇願され、二人はシンガポールの対岸にあるジョホールバルをめざすことにした。
マレーシアとの国境のイミグレを通過したあと、ICUはうれしそうにバイク便に入国印が押された自分のパスポートを見せてきたらしい。さらに彼女はあなたのパスポートも見せてと言った。バイク便はもうこれ以上は限界だと思い、彼女に自分のパスポートを手渡した。こうなるであろうことは出かける時に既に覚悟していたのだという。
バイク便のパスポートは赤色でも青色でもなく緑色。そして、その表紙にはRepublic of Korea の文字。バイク便にとっては、家族以外の人間にこのことをは明かしたのは初めてのことだったという。
バイク便が差し出したパスポートを見た ICUは表紙に記された文字のことには特には触れず、彼のパスポートに押された入国印と自分のそれとを見比べて静かに笑っていたという。
そして、この事にあえて何も触れないICUを前にバイク便もことばを失い、以降その事については何も話すことなくジョホールバルを観光し、戻ってきたのだという。
「で、それが何なんだ、お前が日本生まれの韓国人であることと、ICUをどう思うかについて一体どんな関係があるんだ?」
バイク便の尋常ではない様子を見てゴリラも何かを感じ取ったようではあるが、でもそれが何かはわからないといった感じでこう言った。
改めて、なんの関係があるんだろう?と僕も考えたが、よくよく考えれば確かに僕にもわからない。僕もゴリラの率直な質問には答えられなかった。バイク便は黙って食パンをムシャムシャ食べている。
「あの、つまり韓国と日本にはいろいろな経緯があって、日本生まれの韓国人が日本で生きていくためには大変なことがいろいろと、、、」
僕がものすごい歯切れの悪い説明を試みる。
「そんなら、お前、韓国に移住すればいいじゃないか。それにお前ほど英語ができれば、どこへだって。」
ゴリラがこう言ったところでバイク便が重い口を開き始めた。
「うん、英語さえできればどこへだって行けるよね。それと、実は今回の旅が終わったら僕の家族はみんなで日本国籍をとることになってるんだ。」
バイク便は日本社会で生きることの難しさ、そして、一昨年の就職活動では一社も内定が取れなかったことを訥々と語った。さらにこの旅の間がICUに自分の本当の出自を明かすラストチャンスだと考えていたことを語った。
「すまんが、お前の国の事情は俺にはわからん。でも、それはきっと重要なことなんだろう。でもな、お前、自分の気持ちの問題を国籍の問題にすり替えてないか?いいか、シンプルに考えれば、問題はお前が彼女のことをどう思っているかということなんだ。その辺はどうなんだ?国籍の問題はそれから考えろよ。」
バイク便は少しイラつきながら答える。
「それはそうなんだけど、そんなに簡単なことでは。」
ゴリラはバイク便の語りを遮って続ける。
「でもお前、彼女にここにいるって知らせたんだろ。それで彼女は勇気を振りしぼって、この薄汚いクソ安宿にやってきた。で、お前はご希望通り自分の正体を明かした。そして、彼女は黙ってそれを受け入れた。そうだろ?あとはお前の気持ち次第だろ?」
「事情を知らん俺があれこれ言ってお前の気持ちを害していることはわかっている。その点については謝る。でもな、お前、今、ここで自分の事しか考えてないよな?」
ちょっと、ゴリラ、それは言い過ぎだ。バイク便にはバイク便の事情ってものが。
「そうだね、君の言ってることは正しい。」
バイク便がぽつりと言う。
「おい、クソ野郎、よく聞けよ。俺の言ってることが正しいかどうかなんて俺にはわからないし、俺はお前に説教するつもりはない。お前、さっき俺に君次第だと言ったよな、その言葉そっくりお前に返すぜ。」
まあ、そうだけどゴリラ。。。
「つまり、おれが言いたいのはだな。少しはICUのことを考えてやれってことなんだよ。なのにお前は自分のことで頭がいっぱい。それが俺にはわからんと言ってるんだ。」
ゴリラに説得されたのはバイク便ではなく、その隣に座っている僕。そうだ、ICUは必死なんだ。バイク便、君は彼女のことをどう思ってるんだい?
「彼女はいい子だよ。僕にはもったいないくらいの。」
バイク便が答える。ゴリラが畳みかける。
「じゃなくてさ、お前は、」
そう言いかけて、さすがのゴリラも追及をやめた。これ以上は個人の問題だと思ったのかもしれない。
「まあ、お前の人生だからな。俺の問題ではない。」
キャメロンハイランドのお茶をすすりながら、僕ら三人は降り始めた雨を無言で眺めていた。
そして、ヌテラつきの食パンは、せめてトーストしたらもう少し食べられるのにと思ったけど、この宿にはトースターはなかった。
つづく
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