猫の仔 ─第2話─

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 しばらく母は、私の手首を鷲掴んだまま、苛立ちを地面にぶつけるようにして歩いていた。
 そのうちに、その手は離された。だけども、握り締められていた感触が私の棒のような腕にじんと残ったまま。母の顔を伺い見た。
 ちらりとも私を見ずに母は、正面だけを見据えている。それはまるで、祖母という過去を断ち切ろうとしている最中のようにも思えた。
 どこに連れて行こうとしているのかわからず、問いかけようとしたものの、どうにも聞ける雰囲気ではなかった。仕方なく開きかけた口を結び直し、私は母に置いて行かれまいと、小走りを連想させるほど歩を早めた。
 祖母の家から、それほど遠くないところに、大きなマンションが見え始める。この辺りは、もともと中小企業の工場が多く建ち並ぶ場所だったのだが、最近は住人が増えてきたこともあって、新興住宅地へと変貌しつつある。あちらこちらで大型マンションの建設工事が行われていた。
 母は、そのうちの焦茶色をした一棟のマンションの前に着くと、そのままエントランスというには手狭なエレベーターホールへと進んだ。もう何度もここに来たことがあるのだろう。建物に漂う空気に馴染んでいたから。
 エレベーターへ乗り込むと、軽く沈んだことに、私はぎくりとした。これまでショッピングセンターのような場所でしかエレベーターに乗ったことがない。そうした建造物のエレベーターは、たいてい大きく、幼い私が見ても造りが頑丈であることは一目瞭然だった。それに、このエレベーターのように乗っただけで揺れを感じることもない。
 母は、無言のまま行先階ボタンを押す。
 エレベーターのドアの上半分はガラスになっていて、コンクリートの床が上から下へと流れていくのが何度も見えた。音もなくエレベーターが止まり、鉄製の扉がユラユラと横に開く。
 目の前には、奈良方面から神戸方面へと続く高速道路が走っているのが見え、やけに車の音が大きく聞こえる。それも煩いほどに。
 母がボストンバッグから、キーホルダーのようなものを取り出す。その足は、エレベーターから5歩も歩かないうちに止まり、少しだけ私の方に向いた。
 顔を上げると、母と目が合った。その表情には、笑みも怒りもない。
 母は、ここへ来てやっと口を開いた。
「今日からここが家や。もう、おばあちゃんとこに帰らんでええからな」
 何を言っているのか、意味が分からなかった。いや、意味はわかったのだが、事情を呑み込めないでいたといったほうが適切な表現かもしれない。私は、自分がどんな顔をして母の言葉を受け止めていたのかわからない。ただ意識が分離してしまったような感覚に陥っていた。私にとっての家は、祖母と三人で暮らしていたあの場所だ。それが、突然ここだと言われ、さらにはあの古びた部屋に戻ることは許されないことなのだということが、酷く感情をこねくり回した。母が祖母に最後に言い残した言葉で、薄々こういうことなのだろうとは感じてはいたけれど、それが現実になるとは信じたくなかったから、真実を見て見ぬふりをしていた。しかし、母の言葉でそれは確実のものとなり、真実となった。たぶん、このときの私は、母にとってみれば、とても聞き分けの良い子どもだったのだろう。泣いて嫌がることをしなかったから。
 だから母は、付け加えて何かを言うことをしなかったし、私の中の葛藤と混乱にさえ気が付いていないようだった。
 母が慣れた手つきで鍵を開け、躊躇うことなく室内へと入る。母に続いて私も玄関ポーチへ足を踏み入れた。
 鍵の開く音なのか、扉が開く音なのかはわからないが、客人を迎えようと、奥から一人のおじさんが姿を見せた。
 私は気づいた。母が私の返事を聞くこともしなかったのは、それがもう完全に決定事項であり、覆る余地など全くなかったからだということに。
 おじさんは、丸みを帯びた輪郭に、はっきりとした二重で団子鼻という顔立ちで一見すると人相が悪く、とても普通の会社員には見えなかった。春先で薄ら寒いにもかかわらず、白い半袖のTシャツにジーンズを履いていた。袖から見えている腕の太さが、私の腰周りくらいと変わらないほど太く筋肉が盛り上がっていた。街中で見るどの男の人よりも強靭そうだった。
「いらっしゃい」おじさんが、野太い声で目を細める。
「今日からお世話になります」
 そう言って深々と頭を下げる母の隣で、私はひと呼吸ほど遅れて頭を下げた。まだ、事情を完全には受け止めきれてはいなかったけれど、引き返すことができないならば、その場でなすべきことをするしかなかった。
 頭を上げると、母がひと仕事終えて安堵したような表情で私を見つめていた。
「サヤカ、お父さんやで」
「よろしくな、サヤカちゃん」母の言葉に応じるように、おじさんは、わざわざ私の目線に合わせてしゃがむ。
 私は、助けを求めるような思いで再び母に視線を送った。突然に父だと紹介されても、どう受け止めていいのかわからない。誰だってそうだろう。なにせ、これまでずっと自分には父がいないことが当たり前だったのだから。
 けれど、母は電気が迸るような気を発しながら、私を見つめ返した。その目には、私の気持ちよりも、おじさんに対しての申し訳なさしかないようだった。
 ここで私は、母にまた一つ諦めを覚え、何事もなかったかのように、おじさんに対し「お世話になります」と、──来月には小学生になるのだが──保育園児らしからぬ落ち着いた声で、もう一度頭を下げた。
 それからおじさんは、私を一番奥の和室へ案内した。
 襖を開けた壁一面の押し入れには、これでもかというほど見馴れた私の玩具が詰め込まれていた。
 一人っ子の私は、沢山の玩具を持っていた。それも、人に貸せるほどに。リカちゃん人形だけでも3体はいたし、バービー人形に至っては恋人のケンくんも一緒だった。シルバニアファミリーも、ほとんどの種類のファミリーを持っていたし、大きな家も持っていた。リカちゃんハウスやバービーの家だってあった。全部、私の宝物だった。人形遊びが大好きだったから。そんな大切なもののなかにあるべき、たった一つが足りていなかった。それは、私の身長の半分近くもある大きなモンチッチだった。
 モンチッチは、ロコと同じく、私にとって大切な友達だった。家にいるときは、いつも一緒で、夜寝るときだって同じ布団に入って眠った。私の記憶にあるだけでも、私が保育園で年少組だった頃には既に家族の一員になっていた。
 母に、モンチッチのことを聞こうとした。けれども、おじさんが私の横に来て「一緒に遊ぼうか」と言うものだから、断るのも悪く、私はその場に玩具を広げた。
 振り返ると、母が満足そうに微笑んでいたから、私はこれで良かったんだと思った。もしも、このときモンチッチのことを口にしていたら、私はきっと叱られ、それこそモンチッチは捨てられていただろう。その叱責される理由もわからないままに。
 だが、その理由を知るのは、もっとずっと後のこと。この時は、まだ私は知らなかったのだから。
 その日を境に、私は伊集院サヤカから、日吉サヤカになった。

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猫の仔 ─第3話─

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