猫の仔 ─第3話─

前話: 猫の仔 ─第2話─


 おじさんの仕事は大きなトレーラーに乗って、鉄廃材を全国各地へ運搬するものだそうで、週末以外ずっと家を空けていた。おかげで、おじさんの家に移り住んだといっても、住む場所が変わったくらいで、家族が増えたという実感はなかった。それでも、母が働きに出ることがなくなり、祖母と会うこともなくなってしまったことから、私を取り巻く環境は大きく変化していた。それを、より実感させたのは、小学校に入学してからだった。

「日吉さん、ここ。お名前、書き直してね」
 廊下沿いの擦りガラスを通して白い日光が差し込んだ教室には、馴染みのない顔ぶれが揃っていた。数年先まで着られるようにと、ぶかぶかの紺色のジャケットに袖を通した子どもたちが、身長にそぐわない高さの椅子に腰かけ、目の前に並べられているプリントに視線を落としている。
 毛先をパーマでカールさせた髪をリズミカルに揺らしながら、健康そうな笑顔で女性が私に声をかけた。彼女は担任の教師だ。
 私の目の前にも他の生徒同様にプリントが戻される。右上に自身の氏名。ところが私は、うっかりにも以前の名前を書いてしまっていた。『伊集院サヤカ』と。もちろん、漢字は使っても使わなくてもよかったのだが、私は祖母から教えてもらったことを忠実に再現していた。「自分の名前くらい、漢字で書けるようになろうね」と。
 けれど、この名はもう二度と名乗ることもない。たった二週間ほど前まで、これが私だったのに。それがやけに、私を悲しい気持ちにさせた。まるで、私の過去はもうなくなってしまい、この世の中から抹消されたような気分だった。
 まだ使い始めたばかりの消しゴムが私と祖母とあの今にも壊れてしまいそうな木の家との接点を消していく。
 それから半年くらいの間、私は何度も名前を書き間違えた。わざとではなく。ただただ無意識のうちに。それに、名前を呼ばれるときでさえも。何度か「日吉さん」と呼んでもらって、初めて気がついた。なんだか記憶喪失で、自分のことすら忘れてしまった人のようだった。
 だからなのか、わからないけれど、私は少し気味悪がられていたようだった。それでも、祖母の家にいた頃隣近所だった友達もいたし、それなりに仲の良い──なぜか男の子ばかりだったけれど──友達もできた。だから、他の人からどう思われていようと、私はあまり気にもしていなかった。
「サヤカ、帰ろう」
 授業も終わって、体をすっぽりと覆ってしまうようなランドセルを背負うと、新しい家のご近所さんが私に声をかけてきた。
 彼は、霧島典人(きりしま のりと)。私は彼を『のんくん』と呼んでいた。坊主頭が似合う、くりくりとした目が可愛らしい男の子。大人しいわけではないけれど、かといってガサツでもない。優しくて活発という表現がぴったりの男の子だった。そんな彼は、先頭になって何かをするタイプではなかったけれど、いつも友達に囲まれていた。
「のんくん、また後でなー」
 廊下や中庭でじゃれ合う同級生たちが、私の横を並んで歩くのんくんに、次々に声をかけていく。のんくんは、それに応えながら、手を振る。
「サヤカも一緒に遊ぼう。迎えに行くし」のんくんの薄い唇から白い歯が顔を覗かせる。
「大丈夫、一人で行けるから」
 強がりでも何でもない。マンションから3分もかからない距離にのんくんの家がある。祖母の家にいるときだって、何度も一人で友達の家に遊びに行ったこともある。
「でも、おばちゃんが心配するやろ」
 そうだった。母は、何かとすぐに心配する人だった。自宅から直線の通学路ですら、ベランダから私の姿が見えなくなるまでずっと見送り続けるほどに。それは遊びに行く時も同様で、初めてのんくんと遊んだ日も、家まで送られた。それは、私に少しの気恥ずかしさを感じさせた。
「迎えに行くから、待ってて」
 のんくんは、私の知らないところで何か言われたのかもしれなかった。けれど、それは私にはわからなかった。ただ単にメンバーの中で、私だけが唯一の女の子だったからなのかもしれない。
 帰ってから母にのんくんと遊ぶと伝えると、母は案の定「のんくんが迎えに来てくれるんやろう?」と言った。私は、それに反発するように一人で行けることを伝えてみたが、母の顔には不安の色が滲んだ。そんなに一人で行動させたくなければ、学校に行くときもついて来ればいいのに。矛盾さに、私はどう対処していいのかわからなかった。
 ピンポーン……
 のんくんだ。私は、お気に入りのポーチを持って玄関へ急いだ。
「こんにちは」
 扉を開けると、のんくんが私の背後に立っていた母に、礼儀正しく挨拶をした。
「のんくん。サヤカのこと、よろしくね」
「はい」
 被っていたキャップを外し、再度一礼した。さすが、少年野球をしているだけあって、動きがキビキビとしている。
 二人のやり取りの合間に履いた靴の爪先をトントン鳴らすと、
「行ってきます」
 そう言って私は、のんくんと玄関扉の間をすり抜けるようにして、エレベーターホールへ向かった。
 マンションを出てすぐに、私はのんくんにそっと告白した。
「のんくん、今日の帰りは一人で帰る」
 驚いたように、のんくんの目が丸く開く。少し薄い栗色の瞳に、春の日差しが映る。
「せやから、今日は送ってくれなくていいよ」
 その言葉に、少しだけのんくんが寂しそうな表情を浮かべたように見えた。それでも、私は気にせずに続けた。
「おばあちゃんのところに行きたいねん」
 のんくんには、私の家の事情を話していた。といっても、のんくんの家は、絵にかいたような家族で、どこまで理解できているかはわからなかった。ただ、春休みの終盤からのほぼ1ヶ月間、私がおばあちゃんと会えていないことだけはわかってくれていた。
「……わかった。それなら、僕が連れていく」
 キュッと結ばれた口元。僅か百メートルほどの距離でも、子どもにとって大きく未知なる世界だ。彼は、私のようにあれこれと制限をかけられていないぶん、自由だった。だから、私の知らないことも沢山知っていた。たとえば、祖母の家と今の私の家までの道のりだとか。どこを通れば、危ないか危なくないのかとか。
 私にとって、偉大な冒険だった。母に内緒で、行くなと言われた祖母へ会いに、懐かしい過ぎ去りし日の我が家へ向かうのだ。
 のんくんの自宅玄関で、私たちは計画を練った。母に見つからないように、どうすればいいのか。いつ行くのがベストなのか。後から母の耳に入ることも避けなくてはならなかった。万が一、のんくんが協力者だと知られてしまえば、母はのんくんを責めるだろう。もしかしたら、二度とのんくんとは遊べなくなるかもしれない。そんなことにならないように、完璧な計画を立てなければならなかった。
「何してんの?」
 頭を突き合わせる私たち二人に、影が落ちた。

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