中学校を1日も出席してなかった子がフリースクールで友達と出会い、通信制高校に休まず通学したら小論文制度を作った先生と出会いAO入試で大学に合格した話
息子は小学校時代のいじめがきっかけで中学1年の1学期途中から全く学校に通えなくなりました。その間何をやっていたのかというと自室に篭って1日中戦争ゲームばかりやっていました。昼夜逆転の生活を送り、夜中の3~4時にゲームを終えると就寝し、昼過ぎに起きて、またゲームを始める。そんな生活を続けてきました。中学校には全く通っておらず、友達もいない、学校で習うべき中学レベルの学習をしていない、唯一子供が外の世界と繋がっていたのは月に1度通う心療内科の先生でした。先生は息子を初診で診察したあと「学校へ行ってはいけないよ」と言われました。ドクターストップがかかったのです。いじめのPTSDによる不安障害との診断でした。当時の息子の病状から学校へ行けばかなりの確率で自殺する可能性があると先生は判断したのです。実際、4階にある自宅マンションの自分の部屋から飛び降りそうになったことが何回もありました。毎日、死にたい、死にたいと訴える息子の心の叫びを聞くのはとても辛かったです。そんな私たち夫婦にとって唯一の支えとなっていたのが心療内科の先生の「息子さんの好きなことをさせてあげて下さい」という言葉でした。プレイステーションの戦争ゲームで人を何人殺せるかに没頭している姿を見守ることにしたのです。たとえどんな結果になろうとも先生の言葉を信じようと思いました。しかし毎日、このような生活が続いていると、この子の将来は一体どうなってしまうのかという気持ちで八方塞がりでした。学校に行かないなんてことは全く想定外だったのでした。そんな日々が続いていたある日、子供にとって唯一、外の世界の接点だった心療内科の先生がいじめによるPTSDを消す技術を持ったカウンセラーの先生を紹介して下さいました。いまから考えればこのカウンセラーの先生との出会いも子供を大きく変えた要因でした。PTSDとは心的外傷とも呼ばれますが、生死に関わる体験をした人間が、その体験をいつまでも忘れることができず、突然フラッシュバックして日常生活に支障を及ぼす病気をいいます。たとえば東日本大震災では多くの子供が目の前で親が津波で流されてしまった光景が目に焼きついていて、これがPTSDとなって生活に支障が出ている子供が多数いると聞いています。現地には精神科医も入り、治療に当たっていると思いますがなかなか早期の回復は難しいと言われています。時間が必要です。PTSDを消すとはどういうことなのか、そもそも消すことなんてできるのか、私の頭の中は???でいっぱいでした。そんなある日、カウンセラーの先生とのアポイントの日がやってきました。子供はガチガチに緊張しているように見えました。1日の大半を自室で過ごしてきたのですからそれも当然です。入室は子供のみということで、中でカウンセラーの先生と子供がどのような会話のやりとりをしているのかは室外からは窺い知れません。しかし、子供の笑い声がときどき漏れ聞こえてきたときは、訳もわからずうれしかったです。長いトンネルの出口が見つからないまま月日が過ぎてた中でわずかな光が差したと思いました。そんな日々を送っているうちに気がつけばもう中学3年生です。同級生たちはそろそろ自分たちの進路について考える時期に来ています。それはわが子も同じなのですが、小学校4年に始まったいじめによるPTSDで息子の学力は小学校3年生レベルでとまっています。以来頭の中が強迫観念やトラウマで一杯でゲームだけをひたすらやっており、とても勉強を始められる状況ではなかったのです。それより何より学校に全く行っていないのでそもそも出席日数はゼロ。中学の友達と関わったこともありません。このような状態で高校受験をすることには無理がありました。まずは医者とカウンセラー以外に外との接点をつくってあげようとの一心で方々リサーチした結果、都内に不登校の生徒を受け入れるフリースクールがいくつかあることが分かりました。ここでの友達との出会いがこの先、子供が少しずつ変わっていくことにつながったのです。フリースクールに通っている子は皆何らかの事情を抱えていました。多くはいじめられて普通の学校に通えなくなった子たちでした。中には小学校1年から中3まで不登校の子もいました。皆、心に闇を持っていましたが、その分他人にはとても優しい子たちでした。フリースクール初日は玄関前で震えていて中に入ることすらできなかったわが子が、ここでの友達との出会いを通じて少しづつ変わっていったのです。おそらく誰もいじめる子はここにはいないんだということが分かって少し安心したのでしょう。週2~3回の通学でしたが通学する日がくるのを楽しみにするようになりました。そのフリースクールで秋に文化祭のようなものをやりました。簡単な食事、カフェを来客者に出すのですが、何とわが子は受付を担当していました。少し恥ずかしそうな表情をしながらちゃんと受付という仕事をこなしていたのを見たときは感動しました。中学時代で一番幸せな時間だったといってもいいでしょう。本来通うべき地元の中学へは通えませんでしたが、このフリースクールで居場所を初めて見つけることができたと思いました。やはり人は人と関わることでしか変われないのですね。フリースクールに通いだした頃はおどおどしていた息子でしたが、この環境に慣れたのでしょうか。さて、時は中学3年です。ようやく同世代の子との接点を持つことができたとはいえ、高校受験が待っています。中学生としての学力が全くない(おそらくいじめが始まった小学校4年程度の学力しかありません)、出席日数がゼロの子がどうやって高校受験すればいいのか。私たちは悩んでいました。そんな時、一筋の光が見えたのは今、通っているフリースクールの系列で通学型の通信制高校があるという情報を知ったのです。その高校はそのときはまだ各種学校の扱いで卒業しても大学を受験するなら高卒認定を受けなければならなかったのですが幸運なことに息子が入学した翌年から一般の高校の認定を受けたのです。つまりその高校を卒業すれば高卒資格が得られ、高卒認定試験を受けずに大学受験が可能になったのです。これは大きなことでした。とにかく息子の居場所をつくってあげたいの一心でこの高校に入学しました。部活は軽音楽部に入りギターを担当することになりました。こうして中学時代、自室で周りとの関係を一切絶って引きこもっていた息子が少しずつですが外の世界と接点を持てるようになてきたのです。こうして中学3年間全く学校に行っていなかった息子は高校へ進学することができました。このとき私は中学生というのは当たり前のことですがつくづく義務教育なんだなと痛感しました。義務教育であるからこそ、学校に行こうが行くまいが在籍していることになっているし、学年が上がれば新しいクラスに在籍しすることになっているのです。たとえ1日も通わなかったとしても。そして、卒業式までご丁寧に個別にしてもらい、卒業証書ももらう。これが日本の義務教育というものです。
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