私の物語の下書き1

とあるSTORYS.JPの記事を見かけ、なるほどこういうものもあるのかと使ってみる。

何かの切っ掛けで誰かに知ってもらえる機会があるのなら書き出しておくのもよいだろう、くらいの温度。ただの記憶の記録。出来事の一面。他者にとってはおもしろくもなんともないであろうフィクションと大差の無い話。フィクションそのものかもしれない。なるべく淡々と書くように努めるので、ギャップを強調したサクセスストーリーや、一方的な幸・不幸の畳みかけのような展開は無い(と思う)のでご容赦願いたい。







私は日本海側のとある地方で産まれ育った。
県庁所在地の辺りの都市は比較的知名度はあるが、県名を伝えても
「どのへんだっけ?」と返される事が少なくないような地。県名と県庁所在地名の齟齬は維新時の朝敵藩であった名残だ。

その県の内でさらに辺境の片隅にある温泉街の中に私の生家があった。



太平洋戦争が一段落し停戦後。
東京から北太平洋を挟んでほぼ真東へ国際日付変更線を越え8300kmあたりで着き当たる北米大陸の西海岸、カリフォルニア州サンフランシスコ市。幅10km前後の南側半島のベイエリアの先端、US-101号線(Bayshore-Freeway)沿いのサンフランシスコ市庁舎の左手前正面にある舞台芸術センターのオペラハウスで日本国を含む49カ国が著名する講和条約が締結され、終戦した。その同日、同市内の約4km北西にあったプレシディオ陸軍基地へ移動し、米国と日本国との間だけの日米安全保障条約(旧安保)が吉田茂首相の単独での著名で締結。同席していた全権委員の池田勇人(当時蔵相)の著名は吉田がさせなかった。

朝鮮戦争の特需を経て「もはや戦後ではない」が流行りだしたのちの池田内閣の時代。「国民所得倍増計画」が打ち出され「全国総合開発計画(一次)」が策定し、昭和の半ば日本全国に観光地を中心に宿泊施設がポコポコ新設されだした。現在では在って当然のようになっている交通網や物流郵送や電話通信網や放送各局などなど。元々在ったものから新たに開発されたものまで、並行的に整備発達し行き渡り始め戦後の爪痕が薄れて来、安保問題や冷戦や核の脅威を感じつつも国民に未来への展望と余裕ができはじめた日本のマスツーリズムの興り。

そうした流れで国内を中心とした大衆の旅行観光行楽ブームが巻き起こっていたらしい。話によれば私の生まれ育った温泉地は大正時代前後から既に盛況で当時は知名度もあり有数の温泉地だったらしいが、そのブームにも更に後押しされ昭和の中盤頃は非常に活況だったそうだ。その熱の残滓が漂いつつ高度経済成長期も一段落し、まだバブル景気が起きる前の寂れもし始めていない一億総中流というフィクションを多くの人々が謳歌し始めたようなそのような時期に、私は私が私である事をおぼろげながら認識しはじめた。


生まれ育った家


生家は温泉街の祭事にも使われる
メインストリートの商店街通りの只中に在り、かつて祖母が八百屋兼スーパーのような商店舗を営んでいた。私が産まれる以前にはかつて私鉄駅がすぐ傍にあったらしい。
私が物心つく頃には長年営んだその店を畳んでしまっていたので、記憶としては店をやっていない時期のほうが長い。まだ私が自身の脚で立てるようになって間もない頃、食用品を中心に所せましと商品の棚が並んでいた記憶がかすかにある。
その名残で、かつて店舗スペースとして利用され続け使い込まれてゴツゴツと滑らかになっているコンクリ床の商店街通りに面した広い空間は、父と母の車の二台ぶんの駐車場とその隙間を使った自転車や物置を兼ねた場として利用されていた。壁側には店舗だった頃の棚がそのままほとんど残されている。その中央奥に茶の間へ出入りする為の実質的な玄関があった。靴棚はその玄関の左手に階段の下のデッドスペースを使い作りつけられている。

店舗兼住居用のその生家は、周囲の店舗家屋からみれば比較的広めな敷地でした。
家の中心となっていた茶の間は、磨りガラスが嵌め込まれた2枚の引き戸で
店舗スペースと繋がっており、入ってすぐに2畳程度の板の間と8畳程度の広さとなっている。板の間(2畳程度のフローリング)には引き戸の常用しない靴棚の反対側の戸の前に灯油式のストーブが置いてあった。夏季以外は概ねそこに置いてあったように思う。その上に望むように戸の上側に大きな月間スケジュール黒板が吊り上げてある。常用されている戸にあがってすぐ左手側の壁は白いマグネットボードが全面に設置されており、駅の時刻表をはじめ色々な紙が張付けてあったと思う。元は店舗運用時の伝票やメモなどの貼り付け場だったのかもしれない。

茶の間の出入り口からすぐ正面の部屋の隅には家具調カラーテレビがずっと置いてあった。型番は不明だがHITACHI製のものだったような気がする。脚が四本垂直についたモノで、電源を入れてからちゃんと映るまで一寸待つ。幼い頃はこのテレビの下の空間に潜り込めていたような気がするが、次第に狭くなっていった。茶の間の中央には掘り炬燵式の取り外し可能な作り付けの卓が設置されており部屋の一辺は収納を兼ねた出窓のような作りになっていた。茶の間の部屋の奥には四枚の襖で仕切られた同程度の広さの床の間付の仏壇のある座敷仏間。畳の上には毛の短い模様柄の入った絨毯が一面に敷いてある。その奥には壁を隔てて洗面と大小別の汲み取り式お手洗い、そのまた奥に物置部屋。

それらの部屋の並びに沿って左手側に廊下が走っている。廊下を挟んだ茶の間の反対側に台所の部屋と勝手口。台所から廊下方向に沿って、庭がある。庭を挟んで物置倉庫がくっついている。台所は現在で言えばダイニングキッチン程度の広さはあったように思うが、家族が比較的多い為もありモノが多く炊事と食料品や食器類の為の部屋だった。ガスはプロパンガス。店舗スペースと庭を繋ぐように台所の傍らを通路が通っており、その中ごろにある台所へのドアが勝手口だ。

その通路は店舗だった頃の在庫棚のような名残を残し収納棚として扱われていた。通路の庭側端には二漕式のゴンゴン震える洗濯機が置いてある。少し期間を置いて乾燥機が上部に取り付けられていたと思う。間取り図的に仏間を横から見ると廊下越しに庭が見えるレイアウトで、廊下の庭に面した辺りは大きなガラス戸複数枚で仕切られている。その辺りは実質縁側のようにも機能していた。


二階へ移る。廊下を切り返すと幅も蹴上もそれほど良くない厚い木製のギシギシ鳴る階段があり、上がった二階には各部屋を繋ぐちょっとした廊下と6畳か8畳程度の部屋が4つ。道路に面した側に部屋二つを繋ぐ家の幅いっぱいに渡る廊下があった。現代風に言えば
庭付き7DK+倉庫+店舗スペースといった具合になるのか。


家の前は大きな透明のガラスが嵌め込まれた戸が10数枚くらいだったろうか、商店街通りに面して並んでおり内側から長いカーテンが引かれていた。そのガラス戸の一枚が主に玄関として常用されてはいたが、ガラス戸同士の引っ掛け式の鍵がかかっていなければそれ以外のガラス戸からも出入りは可能だった。玄関として扱われていたガラス戸には申し訳程度に小さな縦長の白い「勝手口」札が貼られていたような気もする。
敷地の左右は他の店舗住宅に挟まれ後方も裏手の住居の敷地になっており、実質上出入り口はそのガラス戸側からのみとなる。右隣の店舗住宅との間に人が一人横向きになって通れる程度の隙間があり、家の正面右端側すぐの内側に勝手口のような別の出入り口はあるにはあったが、滅多に使用されることはなく戸の前には物がドカドカと置いてあった。

郵便受けは道路からみて右手の壁にポストが取りつけられている。二階の廊下部分が出張るように一階のガラス戸の並びは敷地に対し少し内側になっている。ポストの反対側の左端には店舗だった名残で清涼飲料系の自販機が設置されていた。コカコーラボトラーズだったか。自販機はひと缶100円ではなくなった頃には撤去していたような気がする。

店舗を営んでいた頃の名残で左右いっぱいにビニールのひさしが取りつけられており、そのビニールひさしの右端側には「八百屋」の文字とカタカナで家の苗字が大きく記され店舗名を示していた。書体は独特な感じの広葉樹の葉のような形を組み合わせた印象で、色も何色か使っていたと思う。スーパーマーケットという名称は昭和半ば以降から浸透した単語なので、それ以前の食品やその他の生活雑貨を扱う商店は八百万の品物を扱うという意味でも「八百屋」と名乗っていたのかもしれない。そのひさしの上は2階の廊下の窓に白く塗った木製の縦方向のみの格子がこれもまた左から右にかけていっぱいに付いている。そのまた上は屋根だが、かつては大きな看板として利用していたのかはわからないが瓦屋根を隠すように建材が取りつけられており、商店街の表通りからは四角い印象となっていた。家屋自体の屋根は真っ黒い日本瓦で、台所と倉庫の部分は増築部分なのか鉄板系のトタン屋根だった。



日本海側なので当然ながら雨天や曇天が多く太平洋側と比較すれば灰色の空が覆っているイメージが強い。もちろん青く澄んだ晴天も無いワケではないが、太平洋側に住むようになってからは雨天をはじめ気象に対する感覚の違いを如実に感じる。冬季は普通に積雪をするので主要な道路の中央には消雪パイプが走っている。(設置されたのはだいぶ後年だったと思う)

豪雪地帯ではあるが海岸線には比較的近く特別豪雪地帯には入らない。海岸線には比較的近いが歩いてすぐというほどでもなく、車を走らせて20分から30分くらいで山越えというほどでもないが大きな地形的段差がある。海はあまり身近ではないし数えるほどしか行ったことは無い。県全体では海の幸が特産として挙がるそうだが、そのような話は実家から離れてから知る事になった程度に私は世間知らずに育った。


家の庭は台所と中央の廊下と倉庫にコの字に囲まれ、隣家とは仕切りのトタンに仕切られており広さにしてみれば5坪前後の四角い庭だった。そこへ大雪の際は一階の屋根に届くくらい積雪し、幼少時は兄らと二階から飛び降りたりして遊んだ記憶がある。雪かきの習慣も当然のようにあり、寒さ冷たさと運動で加熱する体温の拮抗する感覚はその地から離れた今でも身に染みている。


長くなったのでまた機会があれば書き出してみようと思う。(2018-09-30/随時加筆修正2018-10-13…加筆でページが伸びたので1と2の間に2ページ追加し整理しました。)

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