私の物語の下書き2


部屋の割り振りと概要

私の記憶での主要な部屋の割り当ては、一階の座敷仏間が祖母の部屋を兼ねておりかつては祖父も一緒だったのかもしれない。(聞いた事がないので推測です)茶の間側から見て部屋奥が床の間になっている。左側の一畳ぶんの床の間は廊下に対して書院組子障子の丸い簡易な飾り窓。床板をはさんで漆で光るぐねりとした床柱が真ん中に立っている。床柱の右側の床脇には、普通に上に走る長押の下に天袋収納が造り付けられており、空間をおいて下部は比較的背の高めの地袋収納だったように思う。この部屋の廊下側の障子に対する反対側は押入れが一畳分づつ2つあったかのようだが、廊下側から見て左手側の空間は祖母用の黒と金の仏壇が設置されていた。その横に父と母が常用する白と金の仏壇が並んでいた。すっぽり収まっているわけではなく10cm~20cm程度の隙間はあったような気がする。幅としては1対2くらいで祖母の仏壇のほうは控え目な大きさだ。朝と夕方過ぎに、父と母は必ずこの前に正座し読経する。祖母は宗派が異なるので父と母のペースとは異なっていたように思うが、別の短めの読経をしていた。

この部屋には床の間の前あたりに大きな黒い座卓が置いてあった。よそから人が集まるときはこれを中央に置いて使用していた。祖母はいつもこの部屋の茶の間側の押入れの前にマットレスを敷き寝床を作っていた。その辺りが基本的な祖母のパーソナルスペースだった。照明は隣の茶の間と似たようなサークルタイプの蛍光管を4つクローバーのように配したような簡易な家具調形のようなタイプを使っている時期が長かったような気がする。


二階へ向かう。
階段を上がって左手側正面の和室は父の部屋。階段の真正面くらいにその和室の一枚目の襖が目に入り数枚左側へ伸びている、その右横はモルタルのきらきら光る壁。こちらの父の和室にも床の間があり幾つかの置物や掛け軸が飾ってあった。床の間の奥側の壁には組子障子だったかは記憶があやふやだが小さな抜き窓があったと思う。廊下側から見て部屋の右手側に床の間、左手側に押入れ。正面は襖ではなくガラス嵌め込みの引き戸数枚で外側に拓いた廊下と仕切られている。この廊下の和室と隣り合った辺りが父の実質的な簡易な書斎として本棚等と机が二つ所せましと置いてあった。

戻って、階段を上がったところの次は右手側。こちらも床の間と押入れのある六畳の和室で、主に母の部屋と子供の部屋という様相だったと思う。父の和室よりも簡易的な床の間で片面だけに床の間と押入れが半々だった。私が幼い頃は母の収納付三面鏡台も主にこちらに置いてあった記憶がある。部屋の出入り口はドア式で左手側の和室とは壁で隔てられているが、奥の廊下で繋がっている。この部屋は長男以外の兄弟の出入り等に伴って割合とコロコロ使用形態が変化しており、ハッキリと思い出せない事が多い。

階段を上がって回れ右90度回ると正面に先ほどの和室へのドアがあり、そのドアに対して直角に右手にも別のドアがもう一枚ある。そこを入るとまた別の和室がある。隣の和室とは小さ目のガラスの嵌め込まれた襖のような引戸四枚で仕切られている。こちらは八畳くらいあったと思う。隣の和室に沿うように同じ辺に押入れが備えられており畳二面分あった。この部屋に入って正面側には庭に向けた窓があり、台所の上の瓦棒葺きのトタンの屋根に出られる。このトタンの上が布団等の大きなものを干す場となっていて、夏にこの上にあがると熱くて数秒も立っていられないほどだった。この部屋は常時私の兄である長男の部屋として割り当てられていたと思う。

二階のこの三つの和室についている照明器具は非常にスタンダードなものだったと思う。和室用の四角く格子が組まれた、サークル型の蛍光管と豆球をセットして垂らした紐を引いて点灯状態を切り替えるタイプのもので、おそらくはナショナル製だったのではないだろうか。


階段を上がってすぐの左手側の引き戸を開けると八畳程度のフローリングの部屋があった。窓は外側に二枚ついているが、隣家との間が狭く日中に直接日照は入らない。一階の廊下の上あたりの屋根に出る為の出入り口に繋がった戸も付いていたと思う。この部屋は基本的に叔父の部屋に割り当てられて居たが後年には次男の部屋となっていた。

次男が中学生に上がるタイミングあたりで自室が欲しいという要求をしたのだろう、一階の奥の物置部屋が整理され彼の部屋となっていた。そのさらに4,5年ほど後にどういったやりとりがあったのかは知らないが二階の叔父の部屋と一階奥の次男の部屋を交換していた。

幼少時は母の部屋とその部屋に隣接する廊下のスペースが、長男以外の兄弟(次男・三男・妹長女)の部屋も兼ねていたと思う。今こうして書き出してようやく気付いて来て特に気にも留めていなかったが、思えば長男のみが非常に優遇されていたと改めて想起されてくる。


   ※画像はイメージ演出です

この家屋が建てられた時期は不明瞭だが、おそらく戦中か戦前あたりにはすでに建っていたのではないかと思う。最終的には50数年から60年近く、或いはもっとかもしれない。それぐらいは建っていただろう。その商店街通りに居を移す以前は一家は町の反対側辺りに住んでいたという話も聞いたことがある。建てたのは私の父方の祖父ではなくそのまた前の代かと思われる。一家庭としては十分すぎる広さではあるが、戦時中では首都圏や他地方の
親戚家族が疎開してきていたらしい。複数の家族がぎゅうぎゅう詰めで皆で身を寄せ合い、協力して生活していたという話もおぼろげながら聞いたことがある。母が嫁いでくる前の話だろう。

祖父は私が産まれて間もなく亡くなったので記憶がなく、葬儀時の記憶がうっすらあるかないか程度で面影はまったく思い出せない。家族内の誰も滅多に話題にしないのでよく知らずに過ごした。後々わずかに聞いた話では、たいへんなおひとよしで地元の役所に勤めていたが同僚の尻拭いをして不利益を被った末に退職をしたり酒に逃避し呑兵衛になってしまったり他の仕事も長続きしなかったとかで、祖母との関係は良くなかったような印象を断片的に伝え聞いた。戦争にも徴兵されたはずだが詳しい事はわからない。戻ってきたことは確かだろう。


祖父と祖母とはご近所同士の見合い結婚だった。




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