ケアマネを新人のうちに辞めた理由は職場のサイコパスおばさんでした

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「ごめん。もうケアマネ辞めてもいいかな…?」
「…なんとかなるよ。大丈夫。」
朝になると勝手に震えだす身体。
息子の笑顔を見ても表情さえ作れなくなった顔。

そんな僕を妻は優しく抱きしめてくれた。
生後半年になる息子と、建てたばかりの家。
“職を失くす”
ということが、こんなにも怖いことだなんて、今まで考えもしなかった…。
29歳の夏。
ぼくは、大好きで10年間も関わった介護の仕事を辞めました。
これは、そんな僕の「これから」のはなし。

「歌う介護士にオレはなる!」

18歳の頃。
介護の専門学校に入学した僕は、ストリートライブにはまっていた。
しかも「見る側」じゃなくて、「演者側」。
当時の僕は「歌う介護士にオレはなる!」と宣言し、実習先の介護施設でもギターを片手に歌っていた。
その活動は就職後も続き、自分の働くデイサービス(通所介護サービス)でも高齢者の方々と一緒に歌うことが一つの楽しみでもあった。
そして、この音楽活動は職場だけにとどまらず、シンガーソングライターとしてライブハウスを回ったり、カフェやBarで歌ったりする日々をもう10年以上続けている。
ライブ活動をはじめた頃の当時のぼくは、お世辞にも「上手い」とは言えないレベルだったけど、「仲間」や「思い出」を与えてくれる音楽がどんどん好きになり、今では自分の人生にとって“なくてはならないもの”となっている。
だから、20代は「介護」と「音楽」、この2つのキーワードがぼくを作ってくれていたといっても過言ではない。
しかし、楽しかった日々には、もちろん悩みや不安があった。
それは…
「お金」
介護の仕事はとても給料が安く、当時働いていた職場の基本給は6万円代というびっくりする数字だったからだ。
(しかも、正社員だったのに…。)
お給料の計算は「基本給+資格手当+常勤手当+α…」みたいなかんじ。
これを合計すると一般的な20代の給料の数字になってくる…。
これ以上に基本給が安い介護の職場をぼくは知らないけれど、この給料計算の仕組みを取り入れている介護の職場はけっこうある。
だから、介護の仕事をしている人は、給料を上げるために「資格」を取りたがるという“仕組み”だ。
この仕組により、「安い介護の仕事で得たお金が、音楽に消えていく」という情けない生活を送っていたぼくには避けては通れず、生活を少しでも豊かにするために多くの「資格」を取る必要があった。
「お金」が目的になってしまった悲しい行動力ではあったけれど、これにより社会福祉主事任用資格というものを取得できたぼくは、8年間お世話になったデイサービスで生活相談員という「施設の窓口」のような業務を経験させてもらったり、最終的には管理者まで任せていただけるようになった。
でも、人の上に立つことは、経験にはなったけれど、楽しくはなかった。
だって、そもそも「お金」が目的にあった成長だったのだから、ぼくが望んで手にした地位ではなかったからだ。
余談になるが、介護業界のこの仕組は、やっぱり“よくない”と思う。
ぼくみたいな、モチベーションが伴わないやつが人の上に立っても、職場にとって良いことなんて一つもないからだ。
ぼくは、高齢者の皆さんと毎日お話をしたり、ご飯を食べたり、歌を歌ったりするほうが好きだった。
しかし、年齢を重ねるごとに「責任」が増すことくらい、今ではもう分かっているから、この考えが甘いことは理解している。
だけど、それを踏まえた上でも、人の上に立つ役には、向上心や情熱のある人になってほしいと未だに願っているところがある。
ある種「逃げる」ように資格を取り続けたぼくだったが、1つだけ大きく苦戦した資格がある。
それが「ケアマネジャー(介護支援専門員)」という資格だ。
この資格は、介護の職の中で上級資格として扱われている資格の一つで、「現場経験5年以上+とても難しい試験」をクリアしなければ手にすることができない。
中には、毎年この資格に挑戦しては落ち続けて「年中行事」のようになっている人もいるくらいだ。
実際に、ぼくもケアマネジャーの試験に挑戦して1度落ちている。
だけど、翌年は「ケアマネ試験に合格しなければ転勤決定」という状況が見えていたから、これまた「逃げる」目的でこの資格 に本気で挑んだ。
その結果、合格率11%という狭き門をギリギリでくぐり抜けることができた。
きっかけはネガティブな行動力ではあったが、ケアマネ試験に合格できたときには、素直に嬉しかったし、職場のみんなから拍手喝采を浴びたことで「どうやらすごい資格を手に入れたらしい…」ということを実感できた。
しかし、その後。
ケアマネを取れば転勤しなくて済むと思っていたのに、ぼくのところに「春から転勤」というお上からのおふれが届いた。
しかも、転勤後は「ヘルパー(訪問介護)をやりなさい。」というもの。
ヘルパーをすること自体は嫌ではなかったが、ケアマネよりは明らかに給料が劣るし、せっかく取った資格を活かせないというのも、ぼくにはちっとも面白くなかった。
そこで、思い切ってケアマネとして働くことができる職場を探すことを決意した。
社会人になってからはじめての職探しは、難航するかと思いきや、すぐに手を挙げてくれる介護施設があった。
介護業界はただでさえ深刻な人手不足状態に加え、ケアマネという資格を持っている人は重宝されるからだったのだろう…。
ご縁を繋いでくれたのは、母の知人にあたるケアマネの方。
後にぼくにとって、初めてのケアマネの先輩となって下さる方だった。
3月の末。
約8年間、袖を通した制服を返却し、ぼくはお世話になった職場を後にした。
そのときは「これからケアマネとして、ガンガン仕事をしてやるぞ!」という希望に溢れていた。
まさか、新しい職場で自分が“鬱”になるだなんて知らずに…。

今日からオレは「歌うケアマネ」だー!

4月。
まだ雪の残る地面を踏みしめながら、ぼくは心新たに職場に向かった。
「今日からオレは歌うケアマネだ!」
それはまるで、新しい能力を手にしたRPGゲームの主人公のような気分。期待に胸を弾ませた新生活がスタートした。
ぼくがケアマネになって初めて就職した職場は、「地域密着型特定施設入居者生活介護」という長い名前のついた介護サービスを提供する施設だった。
このサービスをすごく簡単に説明すると、小規模の特別養護老人ホームみたいな感じだ。
施設に入居している高齢者の方は、その施設の中で提供するサービスのみを利用して生活をしている。
この施設の入居者定員数はMAX18名。
通常、ケアマネはMAX39名まで利用者を担当できることになってはいるが、ぼくの場合はこの入居者定員数の関係で絶対に18名より多くはならない。
はっきりいって、一般のケアマネ業務にあたる人たちよりも、この人数の差で業務はかなり楽だった。
しかも、ぼくが就職した頃は、会社自体が立ち上がって間もない頃だったこともあり、職場全体に活気が満ち溢れていた。
「おっはようございまーす!」
「おおー!今日も元気だね!」
そんな笑い声がこだまする職場は、毎日通勤するのが楽しくて仕方がなかった。
もちろん、ぼくが歌を歌うのが好きなことを職場は大歓迎してくれたし、社長においては「君にとって、きっと音楽はなくてはならないものだろう?おおいにやりなさい。」とまで言ってくれた。
「介護」+「音楽」という人生を歩んできた自分自信を承認されること。
これは本当に嬉しかったし、なにより「やる気」に繋がった。
行事やレクのアイディアも沢山出したし、もちろんギターもたくさん弾いた。
なかでも、利用者さんと一緒に温泉に入って背中を流しあったことは、忘れられない思い出の一つだ。
「家族ケア」それが、当時の社長がぼくら社員に教えてくれた考え方。
「入居者様も職員も、同じ屋根の下で暮らす家族だ」という意味。
ぼくは、この考え方が大好きだった。
「ようやく、自分の本当にやりたかった介護ができる!」と強く興奮した。
飲み会に行けば「おれの職場は最高だよ!」と言っていたし、同じ介護の職に務める仲間にも「本当に良い職場と出会えた!」と自慢をした。
それくらい、毎日が輝いて見えていた。
だけど、そんな暮らしは1年ほどで少しづつ音を立てるように崩れていった。
たった一人の愛の無い言葉によって…。

あの人には気をつけろよ…

ぼくの職場には、ぼくの他にケアマネの先輩が二人いた。
僕をこの職場に誘ってくれた「Iさん」と、この施設の立ち上げ時からいる「Hさん」だ。
二人とも女性で、ぼくの母親と同じ世代だったから、まるで息子のようにとても可愛がって下さった。
「このお菓子食べてみない?」
「またカップラーメンばっかり食べて〜!ほら、私のおにぎり一つあげるから!」
お二人には本当にお世話になったし、このお二人がいたからこそ、ケアマネ1年生のぼくは、成長することができた。
しかし、残念ながらそんな楽しい日々はそう長くは続かなかった…。
ある日、僕を職場に誘って下さった「Iさん」が退職することになったのだ。
退職理由については、本人から多くを語られずともなんとなく分かるものがあった。
なぜなら、日に日に曇っていくIさんの表情を隣の席で見ていたからだ。
Iさんは、口数も少なくなり、うつむいてばかり過ごすようになり、少し前までの「明るさ」も「優しさ」もすっかり枯れ果てたようだった。
そして、職場を去る前にぼくにこう言い残した。
「Hさんには気をつけろよ。」
鈍感なぼくには、一瞬その言葉が何を意味するのかまでは、分からなかったけれど、とにかくIさんのその言葉には本当に驚いた。
あんなに優しくて、穏やかだったIさんの口から出る言葉だとは、とても思えなかったからだ。
ぼくにその言葉を投げたときのIさんの顔は、ひどく歪んでいて、まるで錆びてしまった鉄くずのように、今にも崩れ落ちそうにすら見えた。
しかし、落ち着いて振り返ってみれば、Iさんがそうなってしまったことについて、たしかに思い当たる節もあった。
それは事務所内で二人っきりになったときに、Hさんから聞かされるIさんの「悪口」だ。
Hさんは、ケアマネとしての経験も豊富だし、知識も多くて尊敬できる人だったけれど、とにかく口が悪かった。
・あいつ、ほんとに使えないよね!
・クビになればいいのに…
・あいつバカだよね?
・死○ばいいのに!!
こんな耳を覆いたくなるような言葉を日常茶飯事に浴びせられると気が狂いそうになる。
ぼくは当時、IさんもHさんも好きだったし、争いごとは好きじゃないから、いつもHさんの愚痴を「まぁまぁ。」って笑って受け流すようにしていたけれど、本当のHさんの厄介なところは、「気分の波の激しさ」にあった。
さっきまで笑顔だったのに、いきなり怒り出すのだ…。
Hさんは、この起伏の激しい性格から、裏では「サイコパスおばさん」と呼ばれていた。
Iさんが去った事務所には、ぼくとHさんだけが残った。
デスクは目の前で、Hさんとぼくを隔てるものは、PCのディスプレイが2枚だけ。
職場には他にケアマネの先輩がいなかったから「一人前になるまでに3年以上はかかる」と言われているケアマネの世界で、Hさんに見放されたら、ぼくはケアマネとしての業務の進め方すら分からなくなってしまう状況となった。
つまり、この出来事がきっかけで、事実上ぼくはHさんに逆らうことができなくなったというわけだ。
Hさんは、散々嫌っていたIさんが去ったことで、しばらく機嫌が良かったけれど、しばらくするとまた他の人の悪口を言うようになった。
そう、「ターゲットが変わった」のだ。
そして、残念ながらターゲットにされた人は、しばらくすると会社を去るようになった。
去り際には必ず、Hさんの一番近くの距離で働いていたぼくに向かってこう告げていく…
「Hさんには気をつけろよ。」
何人も辞めていく人の背中を見ていると、さすがに「このままで大丈夫なんだろうか?」と思えてきて、社長にも専務にもたくさん相談をした。
だけど、社内で最も介護保険に詳しく、最もこの業界に長く携わってきているHさんのことを社長も専務もないがしろにはできないという雰囲気が漂っていた。
ターゲットが辞めていくまで繰り返されるHさんの「悪口」。
これを毎日聞いていると「まぁまぁ。」だなんて聞き流すのもしんどくなってきて、いつからかぼくはHさんの言動に賛同するようになっていった。
Hさん:「あいつ本当にバカだよねーーー!!!」
ぼく:「あ!それ分かります!ぼくもそう思ってました。(笑)」
“火に油を注ぐ”とはよく言うが、この選択肢がまた良くない方向に進んでいく…。
仲間を見つけたといわんばかりに、Hさんの「悪口」がエスカレートしてしまったのだ。
そして一度肯定してしまうと、後戻りができない。
振り返ってみれば、きっとぼくも「嫌なやつ」になっていたんだと思う。
しかし、そんな「間違い」に気づかせてくれたのは、同僚でもなければ、社長や専務でもなかった。
その後にあった「ある出来事」がきっかけで、ぼくの人生は予期しない方向に向かうことになっていくのだった…。

あんたケアマネに向いてないよ

Iさんが退職してしばらくたった頃。
ある日、ぼくのスマホにIさんからの着信が入った。
Iさん:「おおー!久しぶり!元気にしてるかい?」
明るくて優しかったころのIさんの声だった。
あんなことがあったから、Iさんのその後が気になっていたんだけれど、Iさんは職場を変えてケアマネとしての業務を続けていた。

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