安本豊360℃ 歌に憧れたサッカー少年 vol.10 「留学」
のどかな海沿いの小さな町に、それから2度目の春が過ぎると、クラスメイト達の会話に、どこの高校に進むかという話題が上るようになった。
豊が、初めてギターに触れたのも、この頃だった。
豊も、漠然と自分も高校へ行くんだろうなと思っていたが、その時の興味はギターに奪われて、具体的には何も手を付けないまま夏を迎えた。
相変わらず毎週のように社会人サッカーで、ボールを追いかけていた豊に、ある日、山崎氏がスペインへサッカー留学をする話を持ち掛けた。
「豊君、これ、挑戦してみたらどないや?君なら、絶対イケるで。」
豊は、すでに社会人サッカーチームで試合にも出場していて、チームで2番手になるくらいの働きをしていた。
まだ14歳の少年の成長ぶりに、山崎氏は、将来の可能性を見たのだろう。
スペインって、知ってるけど、どんな国や?
豊が、彼の情報に、現実味を感じられるようになるまでには、この「スペイン」という国の名前を何百回と反すうする必要があった。
山崎氏は、豊の母にも資料を渡し、それは熱心に説明もしてくれた。
「山崎さん、あない言うとってやけど、あんた、高校行った方がええんちゃうの?」
母の言い方は、どちらにも偏らず、ただ豊の考えを尋ねているようだった。
豊は、夢のようなその話を、真剣に考えるようになった。
学校での「転校生」扱いはまだ消えていない…豊が安心できる「居場所」はまだ見つかってはいなかった。
サッカー部に籍は残っていたが、結局のところ、豊は、半分も参加していない。
サッカーの現場ってどんなんやろ?
俺って、そんなとこにチャレンジできるレベルなんやろか?
見たことのない海外での生活も一度経験してみたかった。
サッカーをもっと好きになりたかった。
部員たちへの疑心暗鬼がずっとぬぐえないままだった豊が、いっそ日本語の通じないところへ行きたいとさえ思った事実を考えると、サッカー留学は、彼の逃げ道だといわれるかもしれないが、実際にその可能性が開けていたことは、彼の実力に他ならない。
兄の命日が近づいてくると、豊は、山崎氏のもたらしたサッカー留学の話に、人の命のあっけなさを重ねて想うようになった。
透き通るように高い空を、すじ雲が絵筆をはねたように数本流れていく。
人生、1回きりやで。
いつ死ぬか、わからへんし…
兄ちゃん、高校、行ってへんし…こんなまま高校、上がっても、何も残されへんし…
豊の気持ちは、サッカー留学に固まっていた。
気がかりなのは、母が、15歳の豊が、一人で見も知らぬ海外へ行くことを許してくれるだろうかということだった。
「あの…俺、スペイン、行きたいわ。」
その朝、豊は、母が反対したらどう言おうかとドキドキしながら、思い切ってそれだけを口にした。
母は、豊をじっと見たまま、何も言わなかった。
母がもっと反対するとどこかで思っていた豊は、そのまま、返事を聞かずに学校へ飛び出していくつもりだったのだが、母が何も言わないので、どう反応していいのかわからず、「行ってくるわ」と外へ出た。
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