高校中退、中学以下の英語力からオックスフォード大学に入学した話
私は高校を中退後、日雇い派遣、路上スカウト、夜の仕事・・・と仕事を転々とし、荒んだ生活を送っていました。
そんな私がとあるきっかけで一念発起し、留学してアメリカ西海岸の名門カリフォルニア大学卒業、Times世界大学ランキング1位のイギリスの名門オックスフォード大学の大学院MBA(経営管理学修士)課程に入学・修了し、グローバルコンサルティングファームで経営コンサルタントとして働いた後、現在は外資系企業の戦略責任者、COO(最高執行責任者)として働いています。
この度、私の経験や勉強法などが本として出版されました↓
オックスフォード大学MBAが教える 人生を変える勉強法

https://www.amazon.co.jp/オックスフォード大学MBAが教える-人生を変える勉強法-西垣-和紀/dp/4576181211
高校での成績はずっと最底辺
京都の田舎の高校に入ると、すぐに悪い先輩や仲間とバンドを始め、バンドにのめりこんでいった。
髪は金髪、耳はピアスまみれ、シルバーアクセサリーを身に着け、バイクを乗り回したりと、すっかりヤバいヤツになっていた。
当時、いろいろと悪さやケンカをしたりして、警察のお世話になることは日常茶飯事、裁判所に呼び出されることもしばしば。当時つるんでいた友だちには鑑別所や少年院に行ったりしたヤツもいるが、私もたまたまラッキーだっただけで、そうなっていても不思議ではなかった。
とにかく調子に乗っていたので、学年で一番初めに先輩に呼び出されてボコられたり、素行が悪すぎて1年生のうちに寮を追い出された。また、とある不祥事を起こして先輩がた 30人くらいに土下座して回ったこともある。
そんなこんなで高校の授業もサボりがちで、授業にでても寝てるだけ。
当時の生活といえば、カラオケかファミレスで朝まで過ごしてしょうもないことをくっちゃべってるだけの生活。当然高校の成績はずっとビリ。
テストを受けても 0 点を取ったりするありさまだったが、1、2年はなんとかお情けで進級できた。
大学に行くことなんて考えたこともなかったので、模試なんかを受けたこともなければ、自分の偏差値も知らない。
この頃は、とにかく悪さをして親が学校に呼び出されたり、生徒指導の先生や校長によく呼び出されて怒られた。
校長にはゴミを見るような目で見られ、生徒指導の先生に至っては、もはやあきらめて「お前、いつ学校やめるんや」と吐き捨てるように言っていた。
当時複数のバンドを掛け持ちし、頻繁に大阪市内に行ってライブをしていたこともあり、「こんな田舎じゃなくて大阪でバンドをやりたい」と思っていた。
そんな思いが募って、高校を退学する。
生きるのに精一杯などん底生活
大阪では家賃の安さから、当時「日本のスラム街」とまで言われていた西成あいりん地区の近くに住んだ。
当時の私の家の周りはホームレスやシャブ中だらけだった。
公園に行くと、ホームレスがたき火をして、野良犬を焼いて食っている。
当時の西成はそんな感じだった。
家の周りはそんな環境だったが、とにかく大阪に出てきて、なんとかネットの掲示板などでバンドメンバーを募り、セッションをやったり、デモ音源を作成したりした。
大阪にきて最初の頃は本当にお金がなかった。
学歴は高校中退。金髪に大量のピアス、凶悪な目つきのヤバい奴だったため、私を雇うようなところはどこもなかった。
当時バンドをやっていたこともあって、髪やピアスはやめようとは思わなかった。
居酒屋やレンタルビデオ屋等いろいろなバイトに応募したが、ことごとく書類や面接で落とされ、たまに日雇い派遣のバイトをして1日1万円に満たない日当をもらってその日暮らしをする生活だった。
当時は派遣会社によるマージンの搾取が社会問題になっていた頃だ。
「1日2万円可能」といった求人広告を見て応募しても、実際は、新人だから最初は低い給与からのスタート。 何の役にも立たない研修ビデオを見させられ、研修費用等の名目で給料から天引きされ、派遣先までの交通費は遠いのに自腹。
まさに搾取される生活をしていた。
当時は派遣先の現場で余った弁当をもらって帰って食べたり、本当にお金が無いときは2週間くらい卵かけご飯だけを食べて暮らしていたこともある。
貧しいだけならまだいいが、更に追い打ちをかけるような出来事があった。
ある日、派遣先で小さなミスをしてしまい、社員から
「お前、使えねえな!邪魔だから引っ込んでろ!っていうかもう帰っていいよ!」
と言われた。
ちなみに同じ仕事をしていた大学生のバイトも同じようなミスをしていたが、お咎めなしだった。
私は途中で帰ったが、途中で帰ったことで派遣会社に苦情がいったらしく、派遣会社からも怒られ、日当も全額貰えなかった。
日々生きるのに精一杯で、大阪に来てから始めたバンドも自然消滅してしまった。
自分の唯一の居場所だったバンドがなくなってしまった。
また一からバンドメンバーを集めて活動を始めるような気力は無く、普通の仕事をしようにも雇ってくれるところはない。
どんどん追い詰められ、「もう強盗でもやるか。捕まったとしても今よりマシな生活ができるんじゃないか。」と考えていた。
一歩間違えれば犯罪者になっていても不思議ではない精神状態であった。
ようやく見つけた自分の居場所
高校を辞めて大阪に来たものの、目的を失い、夢も希望もない、なにをしたらいいのかわからない。
大阪ミナミの街をただただ目的もなく徘徊し、日雇い派遣で稼いだ日当もその日のうちに酒に消えるという生活が続き、十代で酒浸りの生活となった。
ある日、ミナミの街を徘徊していると、金髪で坊主頭の入れ墨の入ったヤクザ風の怖いおじさんに、
「兄ちゃん、仕事してる?」と声を掛けられた。
普通であれば関わりたくないので無視するところだが、当時は何を思ったか、
「いえ、仕事は特にないです。」と答えてしまった。
怖いおじさん「兄ちゃん、稼げる仕事あるからやらへんか?」
私「はあ。 どんな仕事ですか?」
怖いおじさん「スカウトっちゅう仕事や、女の子に声かけてキャバクラとかに紹介するんや。ちなみに今時間あるんやったらちょっとやってみぃひんか?」
(スカウトとは街ゆく女性に声をかけたり、ネットで知り合った女性をキャバクラや風俗など夜のお店に紹介して紹介料を得る、綾野剛主演「新宿スワン」で脚光を浴びた職業である。)
私はなんとなくそんな仕事が存在していることは知っていたが、まさか自分がやることになるとは思ってもみなかった。
私は怖いおじさんに声をかけられ、その場でスカウトを始めることになった。
高校のときにナンパは何度かしたことがあったので、同じ要領で女性に声をかけると、なんと1回目の声掛けで運良く番号をゲットすることに成功した。
怖いおじさん「お前センスあるわ。お前やったら月100万、200万稼げるぞ!」
運良く1回目で番号ゲットができたのが幸か不幸か、この怖いおじさんの心を掴んでしまい、次の日から週5で働くことになってしまった。
次の日からスカウトとして働き、すぐに新人では考えられないくらいのペースで結果を出し、上司や社長からは期待のホープともてはやされた。
これまで、大阪にきた目的も自分の居場所も失っていた私は、自分の居場所を見つけた気がして、うれしかった。
この仕事がなくなればまた自分の居場所がなくなってしまう。
私はとにかく「この仕事に死んでもしがみつく」という思いだったので、24時間仕事の事を考え、がむしゃらに働いた。
当時の写真
警察官とあわや衝突か!
スカウトをやっていると危ない目に合うことも多々ある。
番号を聞いた女性の彼氏にツメられたり、キャバクラで既に働いている女性に声をかけると、引き抜きだと思われてお店の人からツメられることもある。
スカウト同士の縄張り争いなどのもめごとも多々ある。
もちろん私もそのようなことは何度も経験している。
スカウト会社に入って間もなく、敵対するスカウト集団10人くらいに囲まれてボコられたたこともあった。
また、警察に目をつけられるなど別のリスクもある。
当時はスカウトやキャッチが横行していたため、交番の前でもみんな気にせずスカウトをしていた。
しかし、あまりにも露骨にやりすぎて、私は警察に目をつけられ、呼び止められた。
警察「お前ここ(交番の前)でやるなよ」
私「ただのナンパですよ。何が悪いんすか?」
警察「お前警察あんまりなめんなよ。お前みたいなもんは街のダニや。いつでも潰したるぞ」
頭にきた私は、「こいつ1発殴ってやろうか?」と思い、警察官をにらみつけていた。
一触即発の中、上司が駆け寄って来て、「すいませんでした!」と言って私の手を引き、その場を立ち去り、事なきを得た。
その後上司から「お前警察にケンカ売ってどうすんねん!」とこっぴどく叱られた。
独立、失敗
ある日、知り合いにキャバクラの黒服(ボーイ)をやらないかと誘われ、スカウトをやる傍ら黒服をやることになった。
同じく知人の紹介で、人が足りないので手伝ってほしいということで少しホストをやったりもして多忙な日々を送っていた。
そんな多忙な生活を送る中、店の副店長と一緒にスカウト会社を作り、独立することとなった。
我々は新興のスカウト会社のため、紹介先の店舗は少なく、また他のスカウト会社とのもめ事も絶えず、みんな疲弊していった。
今考えるとゾッとするが、いわゆる「後ろ盾」が無い状態で我々はスカウトを行っていた。
なので、もし本格的なもめ事になったら、我々はいつ大阪湾に沈められてもおかしくないという状態だった。
そのような不安定な状態でスカウトを続けていると、ある日を境に、副店長は現場に来なくなり、連絡もつかなくなってしまった。
どうしたのだろうと心配していると、連絡が途絶えてから数日後、副店長から私に電話が掛かってきた。
「体調を崩して療養していたので連絡できなかった。 復帰するのはいつになるか分からない」
とのことだった。その電話の後、再び連絡がつかなくなった。
本当に病気だったのかもしれないが、ヤクザに拉致されたとか殺されたとかいろいろな噂が飛び交っていた。
兎にも角にも組織のトップがいなくなってしまったことに変わりない。
これまで、この副店長の求心力だけで持っていた組織である。
組織は徐々にまとまりがなくなり、現場にでてくるメンバーも少なくなっていった。
そして、悪い事が起きるときは立て続けに起こる。
同じ時期に私はある仕事でミスをしてしまい、怖い人達から追われる身になっていた。
朝起きてケータイを見ると着信が50件。
留守電も大量に入っている。留守電を再生すると、
「指をつめろ」、「殺す」
といった暴言が大量に留守電に入っていて、これが毎日続いた。
私はさすがに気が滅入ってしまい、仕事ができるような状態ではなく、家に籠っていた。
そんな矢先、我々のスカウト会社が解散したと仲間から連絡がきた。
戻る場所がなくなり、私はまたも自分の居場所を失ってしまった。
死にかける
もめ事に巻き込まれ、スカウト会社も消滅し、私は大阪ではスカウトができないどころか街を歩くのもはばかられる状態となった。
またも自分の居場所がなくなってしまった私は鬱状態になり、家に引きこもりがちになり、家に籠って脱法ハーブなどを吸っていた。
(その後社会問題となる脱法バーブ・ドラッグであるが、当時は「合法」ハーブ・ドラッグとして、どこでも買うことのできる代物であった。それこそ繁華街の路上で堂々と販売している者もたくさんいた)
ある日、かなり「トべる」という噂のハーブを入手し、早速マンションの9Fの自宅で吸ってみた。
一口吸ったが、何の変化もない。
10分経っても何も変化がなく、さらに吸い続けた。
すると、いきなり、
「ドンッ」と、重力が10倍くらいになったように体が重くなり、空間が歪み、床に倒れこみ、立ち上がれなくなってしまった。
体が押しつぶされ、視界が狭くなり、目の前はグラグラ揺れ、ものすごい吐き気に襲われた。
意識が朦朧とする中で、なぜか私は
「このままでは死んでしまう!下に行かなければ!」
と、下に行けばこの重い重力から解放されると思い込み、なんとか這ってベランダに出た。
頭の中は「下に行かなければ!下に行かなければ!」とループしていた。
そして、なんとかベランダに這い出た。
「飛び降りれば下にいける・・・」
フェンスをまたいで飛び降りようとした瞬間、
隣の部屋のベランダから女性が「キャー!!」と叫んだ。
その金きり声を聞いて
「そうか、飛び降りたら死ぬよな」
と我に返り、フェンスにかけていた足を部屋の中に戻し、生還することができた。
脱法ドラッグは本当に危険であり、これを機にもう2度とやらないと誓った。
生まれ変わる
その日からハーブやドラッグは辞め、とりあえず働こうと思った。
しかし、業界のご法度を犯したり、もめ事に巻き込まれたりしていた私は夜の仕事はできない。
かといって日雇い派遣の搾取される生活にも戻りたくない。
とにかく、なんでもいいので何か金の稼げる方法を見つけようと、胡散臭い本を読み始めた。
当時の自宅の本棚には「ラクして儲ける」「ワルの金儲け」みたいな胡散臭い本が大量に並んでいた。
当時、読書をする習慣はまったくなかったのだが、必要に駆られて自分の興味のあることであれば読書をするものである(ロクな本は読んでいなかったが)。
本を読んでいると、世間にはいろいろなずる賢いビジネスや詐欺まがいの商法があるのだなーと感心したが、一方で自身がやりたいと思えるようなものは見つからなかった。
なかなかやることが見つからず、もんもんとしていた頃、とあるビジネス雑誌を手にとり、立ち読みした。その雑誌には、「大前研一」という人がコラムを書いており、著者の紹介を見てみると、
「マサチューセッツ工科大学博士」
「経営コンサルタント」
「元マッキンゼーアンドカンパニー会長」
「世界のグールー(思想的指導者)」
などと書かれており、
マサチューセッツ?
コンサルタント?
マッキンゼー?
グールー?
横文字の単語の意味を一つも理解できなかったが、なんとなくスゴそうで横文字の肩書がなんとなくカッコいいとも思った。
そのときは、「なんかすごくカッコよさそうな人だな」と思った程度だったが、後日、書店にいくと大前研一氏の著書が目に入った。
見覚えのある名前だったので、「ああ、雑誌に載っていた人か」と本を手に取った。
『企業参謀』という本だった。
『企業参謀』は氏が 30 歳のときに書き上げた、氏が経営コンサルタントとして学んだ理論や経験をまとめ上げた秀作である。
個人的には、当時の経営に関する「知」の集大成であると思っている。何度読んでも、今読んでもハッと思わされることがある(ちなみに私はこの本をつねに持ち歩いている。仕事をしているときも鞄のなかに入っているし、アメリカとイギリスに留学するときも持って行った)。
著書の冒頭、「戦略的思考」について書かれた章があり、これは当時の私にとって衝撃的だった。
今まで、物事を分解して論理的に考えるということを微塵もしたことがなかったので、というか人生のなかで「深く考える」といったことをまったくしたことがなかったため、「こんな風に物事を考える人がいるのか!」と感銘を受けた。
当時、冒頭の箇所以外の本の内容はまったく理解できなかったが、氏がMITを出て技術者になり、その輝かしい技術者としてのキャリアを捨て、当時日本ではマイナーだったコンサルタントという職業に就いて成功された生き様が非常にカッコいいと思ったし、氏の「経営コンサルタント」として企業を変革するスタンスとプロフェッショナリティは強く伝わってきた。
これまで夜の世界にいた私は、ビジネスなんてものは他の奴を騙 だましたもん勝ちで、ずる賢い奴がたくさん金を稼げるといった世界だと思っていた。また、巷には、「ずる賢く稼ぐ○○○」「人を操る×××」といった本が溢れていて、当時私もそういった本を読んだりして、ずる賢く人を欺くのがビジネスであり、成功の秘訣だと思っていた。
けれども、氏の本を読んで、そんなものはビジネスでもなんでもなく、本当のビジネスは非常に複雑な要因が絡んでいて、科学的なアプローチや論理を使ってビジネスを考えるといった世界があることがわかったのである。
そして、まったく理解できなかった氏の本を、「知りたい」「理解したい」という思いがふつふつと湧いてきた。
人は皆、生まれながらに好奇心を持っている。
しかし、子どもの頃に持っていた好奇心を大人になると忘れてしまう。
私の場合も、成長するにつれて知的好奇心はすっかりなくなっていたが、氏の圧倒的な「知」に触れ、「知りたい」「理解したい」という知的好奇心を取り戻したのであった。
ついに見つけた新たな目標
大前氏の影響で、いつしか「私もコンサルタントになりたい」と思うようになっていた。
当時の私の調べによると、「コンサルタントとして働いている人は、一流大学を出て、さらに欧米の大学でMBA(経営管理学修士)というものを取得して英語がペラペラに話せる超エリートで大企業の経営者や政府の要人に対してアドバイスをする人たち」ということであった。
これまでの私の人生とは真逆の職業である。
当時の私は高校中退。何の資格もなく、まともな仕事の経験も何もない。おまけに 10 代で酒びたりとなり、ここ数年悪そうな奴らとつるんで遊んでいただけだ。
コンサルタントになるには何から手をつければいいのかさっぱりわからなかったが、氏によれば、「これからの世界は国と国の境目がどんどんなくなっていく。日本のビジネスマンは積極的に海外に出ろ」という。
そして私は氏の言葉を自分なりに解釈し、あろうことかアメリカに留学しようと決意する。
実質、英語は中学で少しやった程度。しかも高校から酒びたりであったため、中学で勉強したことはほぼすべて忘れてしまっていた。そのため、当時の英語のレベルは中学生以下だったと確信を持って言える。
自分の居場所を失い、自暴自棄になり、酒びたりで、ドラッグに溺れ、死にかけたこともある。しかし、私は「経営コンサルタントになる」という新たな目標を見つけたのである。
当時、英語は1ミリもしゃべれなかったので、いきなりアメリカに行っても生活できないことは火をみるより明らかだった。ネットでいろいろ調べた結果、東京に1年弱かけて留学準備をし、その後アメリカの学校に入学することができるという専門学校のプログラムがあった。
英語の知識が1ミリもない私にとってはこれが一番の近道なのではと、高卒の資格を取った後、その学校に通うことにした。
専門学校でも落ちこぼれ
東京に行き、留学準備のための学校に通うことになった。
当然ながら、高校を中退し、高校教育をまともに受けていない私は、6クラスあるクラスのなかで一番下のクラスで、なおかつクラスで一番ビリというありさまだった。
1番下のクラスは、それこそアルファベットや「This is a pen」レベルから勉強を始めるレベルであったと記憶している。
しかしながらそのようなレベルから学習することは私にはぴったりだった。
学校に通うのは何年ぶりだろうか。何かを学ぶことがすごく新鮮で、年下のクラスメートたちと一緒に勉強するのも不思議な気分だった。
世間には「ダメだった自分が何かの転機で180度人生を変えた」というような話があふれている。
私の場合もそんなシンプルな美談であればよかったが、人間そう簡単に自分を変えられないのである。
当時、学生をやりながらバイトをして、稼いだ金を全て酒につぎ込むといった自堕落な生活は続いていた。
1回落ちるところまで落ちるとなかなか這い上がるのは難しいのである。
勉強のやり方なんてまったく分からなかったし、留学準備を行う専門学校でも、落ちこぼれていた。
それどころか、専門学校の先生から「お前は救いようがない。もう辞めろ」と言われたほどである。
授業もサボりがちであり、テストの日に寝坊してテストが受けられないなどグダグダな状態であったため、出席日数が足りず卒業できないかもしれないという事態に陥っていた。 専門学校で留年するやつもなかなか珍しい。
スクランブル交差点で土下座
ある日、新宿を歩いていると、偶然にも大阪で働いていたスカウト会社の社長とばったり会った。
聞くところによると、大阪で専属契約していたキャバクラグループと揉めて、東京へ進出してきたということらしい。そして、東京でスカウトをやらないかと誘われた。
私は当時の懐かしさと再び刺激的な生活に戻れるということで二つ返事で了承してしまった。ただ、学生なので週2、3くらいしか出勤しないという条件付きで。
再び歌舞伎町でスカウトを始めたが、私は留学という新しい目標を見つけて学校に通っていたため、仕事にまったく熱が入らず、結果は出なかった。
再びスカウトを始めて、今の私の居場所はここではなく学校だと再認識した。
不思議なものである。少し前までは夜の世界しか私の居場所はないと思っていたのに、今では遠い世界のように感じる。
私は、一切夜の世界から足を洗おうと、現場に行くのをやめ、携帯の番号も変えた。また、私と仲のよかった仲間たちも私が辞めるのと同じ時期に会社を去った。
ある日渋谷に出かけたときのことである。
渋谷のスクランブル交差点の信号が青になるのを待っていると、辞めたスカウト会社の上司や先輩に路上でばったり会った。
何も言わずバックレたので、さぞお怒りにちがいない。スクランブル交差点の前で上司と先輩にがっしりと肩をつかまれた。
先輩「お前、なめてるやろ!」
想像以上にお怒りのようだった。
何も言わずに辞めて、かつ仲のよかった仲間も同時期に辞めたため、仲間を引き抜いたと思われていたらしい。
スクランブル交差点の信号はまだ赤である。車がビュンビュン走っていて振り切って逃げるわけにもいかない。
上司「おい、お前交差点飛び込めや。車にあたって慰謝料もらってこい。会社への迷惑料や」
私は冷や汗が止まらなかった。ここで何か言い訳をしても火に油を注ぐだけだ。
信号が青になる。
人が歩き出す。
われわれも歩き出す。
スクランブル交差点の真ん中くらいに差し掛かったとき、
私は「すみませんでしたーーーー !!!」
と言って地面に額をつけて土下座した。
先輩・上司「いや、そんなんええから。もうやめて。ほんまにええって」
お怒りになっていた先輩と上司はドン引きだった。
そのあと、社長のところにも行って謝罪をした。
私「すみませんでした!」
社長は何も言わず、私を一発殴り、椅子に座った。
私は床にうずくまっていると、先輩と上司が先ほどの土下座のことをしゃべりだした。
先輩「社長、聞いてくださいよ!こいつさっきスクランブル交差点でいきなり土下座しだして、マジで引きましたよ(笑)」
上司「オレたちが怖い人やと思われるから、ほんまやめて(笑)」
社長「お前、おもろいことするなー、ハハハ」
土下座のおかげで、笑いのネタになり、ことなきを得た。というか、むしろ和やかなムードで円満にお別れし、これで私は完全に夜の世界から足を洗ったのであった。
いろいろあったが、ようやく真面目に学校に行きだした。
ようやく真面目に勉強をし始めた中、私は尿膜管遺残症という持病を患っていたのだが、その持病が再発した。
救急車で病院に運ばれ、すぐに手術をしたが、2週間ほどは歩くにも支障をきたすほどだったので安静にしている必要があった。 当然学校にもいけなかった。
後日、医師の診断書を持って学校にいき、病欠なので欠席日数にカウントしないでほしいと頼むと、病欠であろうが欠席は欠席なので例外は認めないと言われ、留年は確定したかに思えた。
やはりクズはクズ。
人は簡単には変われない。
しかし、ここであきらめればもっとクズである。
専門学校を卒業せずとも、別の方法で留学しよう。
専門学校を辞めるにせよ留年してもう一年通うにせよ、勉強はしないといけない。
それからというもの、私は真面目に学校にいき、授業を受けた。
テストの成績も良くなり、6つあったクラスの1番下のクラスから、下から2番目のクラスに上がることができた。
不真面目だった私が懸命に努力している姿を一人の先生が見ていたらしく、病気で学校にこれなくて留年するのは可哀そうだということで責任者に掛け合ってくれ、作文と補習授業、テストを受けることで卒業、留学できる運びとなった。
アメリカの大学の学費は高額である。
私はろくに貯金もしてなかったので、アメリカで中古車ディーラーの手伝いをやったり、割のよい治験(未発売の薬の人体実験)をやったり(明らかに体調が悪くなったり吐くこともあったりしたが)、夏休みは3か月もあるので、その間日本に帰って働いたり、親や祖父母の老後の貯えを拝借したり……と、なんとか留学費用を工面した。
ようやく渡米
アメリカの大学に入学するにはTOEFLという英語テストが必要であったが、1年間留学準備をしたのにも関わらず、入学要件には遠く及ばず、アメリカの大学付属の英語学校に入ることになった。
私は、自身を律するため、授業が厳しいと言われるワシントン州シアトルから車で1時間くらいの田舎町にある語学学校に留学することになった。
しかし、私の入った寮は一言で言うと「無法地帯」であった。
どこかの部屋で毎日パーティーが開かれ、誰かが爆音で音楽を流し、みんなマリファナやドラッグを吸い、寝る時間になるとどこかの部屋でセックスしている声が聞こえ、ドラッグディーラーが寮の中でクスリを堂々と売りさばいている。たまに派手なケンカもある。
寮を巡回する警備員がいるのだが、警備員も生徒に交じってマリファナを吸っているという始末である。
私の部屋は韓国人とアメリカ人のルームメイトがいて、パーティルームではなかったものの、アメリカ人の友達のホームレスがたまに泊りに来たりして、とにかく寮は良い環境とは言えなかった。
アメリカに行って間もなく鬱になる
ある日、アジア人の友達と学校の近くを歩いていると、車が横付けされ、白人が車から顔を出し、何かを叫んでビール瓶を我々に向けて投げつけてきた。
ケガこそしなかったものの、我々はビールまみれになり、落ち込んで無言で寮に帰った。
噂によると、このあたりの地域は人種差別主義者が多く、他にも、留学生が駐車場で殴られたり、学校のトイレで殴られたりといった事件が絶えなかった。
このご時世になっても、アメリカには人種差別はどこにでもあるのだ。
この事件を皮切りに、私はアメリカに行って間もなく鬱になってしまい、勉強も全く手につかなかった。
私が留学したワシントン州の天気は一年のうち300日が雨という、陰鬱な気候であり、この気候も私の鬱を加速させた。
「もう留学なんてやめて日本に帰ろうか」
と考えていた。
私は、ついに現実逃避のため、ワシントン州から逃亡する。
光溢れるカリフォルニアへ
とにかくこの場所から抜け出したいと、授業がある中、私は洋楽・洋画好きだったため、前から憧れていたエンターテイメントの街ロサンゼルスに飛び立った。
LAの空港を出た途端、目に入ったのはまぶしい限りの日差しとパームツリーに青い空。ワシントンと違い、温暖な気候であるため、みんなTシャツにサングラス。
私は、一瞬でLAへの移住を決意した。
そして、ロサンゼルスのコミュニティカレッジに入学する。
(留学生の多くは、コミュニティカレッジと呼ばれる2年制の学校に入り、その後4年制大学に編入する)
カレッジに入ってからは、勉強一筋では私の精神がやられそうだったので、趣味でバンドを始め、LAのライブハウスやイベントなどでライブをしたりした。
自分の好きなことは趣味として続けたほうがいい。私の場合はこれをやることで精神が安定し、勉強にも身が入った。
いつしか英語も普通に話せるようになっていた。
クラスにはアメリカに1年以上いるのにほぼ英語がしゃべれない日本人もいたが、私は授業で普通に発言ができるレベルになっていた。
アメリカにいたときはテスト前は目が疲れて充血し、よく結膜炎になった。
また、テスト前は椅子やソファで寝たりしていたので、背骨が歪んだのか、留学してから身長が1-2cm縮み、帰国したときに友達に驚かれたものである。
私の勉強法
テスト勉強には戦略が必要である。
戦略とは「戦いを省略」することである。
アメリカの大学は課題図書やレポートやエッセイ等の宿題が非常に多く、効率的にやらなければ時間がいくらあっても足りない。
そのため、「何をやらないか」を選ぶことが重要である。
私がよくやったテスト勉強は「コースごとに紙一枚の授業内容のまとめを作成し、それを眺める」ということである。
紙一枚にしか情報を書けないという制限を設けることで、本当に重要なことを自身で取捨選択して書くことになる。
その過程で、この授業では何が重要で、何が重要でないのかが分かるようになる。
こうして、重要な公式や単語などが書かれたシートを作成し、それをテスト前に眺めるのである。
つまりは、このシートを作成する時間が勉強になっており、シートを眺めるのは直前の復習という訳だ。
おかげで、カレッジでの成績はクラスで常にトップクラス。成績は良い順にA~Fまであるのだが、卒業間近までは私の成績は「オールA」だった。
カリフォルニア大学時代もこの勉強方法で優秀な成績をキープしていた。
A4用紙1枚にまとめる
カリフォルニア大学に合格
私がアメリカにきた目的は経営コンサルタントになるため、英語と経営学を学ぶことである。
私が憧れていた経営コンサルタントの大前研一氏は元々は理系のエンジニアで、数理的・科学的なアプローチで国内で経営コンサルティングをやってきた第一人者である。
いろいろと大学について調べていると、カリフォルニア大学サンディエゴ校(通称UCSD)にManagement Science(経営科学)という専攻があり、これに興味を持った。
経営科学とはまさしく、「経営」を「科学」し、数理的・科学的なアプローチで問題解決をする学問体系であり、私にとっては正におあつらえ向きであった。
当時、カリフォルニアの名の知れた大学で経営科学専攻を有しているのはUCSDのみであったので、私は迷わずこれに決めた。(ちなみに、米国大学の統計を発表しているCollege Factualの専攻別のランキングによると、UCSDはマネジメント・サイエンス(経営科学)分野で全米 1 位となっている)。
アメリカの大学は専攻によって入学難易度が激しく異なる。
例えばカリフォルニア大学のトップ数校で経営学、経済学、コンピューターサイエンス等の専攻は非常に人気があり、倍率は10倍を超える。
一方、マイナーな学問領域は入学するのが比較的簡単だったりもする。
これらの大学で経営学専攻で編入するには成績がほぼオールA+ボランティアなどの課外活動で成果を出す必要があると言われていた。
しかし、私は経営科学以外は考えなかった。
また、カリフォルニア大学に落ちたときのことも考えなかった。
オールAの成績をキープしてカリフォルニア大学に入るということしか頭になかった。
しかし、ある日のことである。
足に違和感を感じ、その違和感がずっと続いていたので病院に行ったところ、腫瘍があるとのことだった。
医者に「腫瘍が大きいので摘出したほうがいい」と言われ、全身麻酔手術で腫瘍を摘出した。
幸いにも良性の腫瘍であったが、まがりなりにも全身麻酔を要する手術である。安静にして経過観察をする必要があった。
そのため、試験前に授業を1週間ほど休み、試験の対策もできなかったため、その学期、Bを取ってしまった。
前にもこんなことがあった。
専門学校のときも持病が再発して手術し、留年しそうになった。
私は勉強をすると体が拒否反応を起こす体質なのか?
カリフォルニア大学のトップ校に経営学専攻で編入するにはほぼオールAでなければ難しい。
「終わった。これではもう受からない。」と思いつつも、大学の出願の締切が迫っていたため、急いで出願をした。
出願結果を待つ間、カリフォルニア大学以外の選択肢も検討しなければ、とあきらめかけていたところ、
カリフォルニア大学からメールが届いた。
メールの出だしには、
「Congratulations!」
という文字が書かれていた。
合格通知が届いたのであった。
自分の居場所が担保された喜びと夢にまた一歩近づいた喜びで泣きそうになった。
日本で受験はしたことがないが、いきたいと思っていた大学に受かるのはこんなにもうれしいのかと感動した。
私の人生、紆余曲折あったが、経営コンサルタントになろうと決めて、なんとかアメリカの大学に入学することができた。
しかし、アメリカの大学は入学は簡単で、卒業が難しいと言われることが多い。(実際は入学も卒業も難しいのだが)
なので、ここで安心はできない。大学に入学してからはもっと努力しなければならない。
カリフォルニア大学での「知」の授業
私の大学では、「近代世界の創造」という思想の授業が必須科目になっていた。
私の学生生活で一番印象に残った授業である。
私が学びたいビジネスや経営学と何の関係もないので、最初は全く興味がなかったが、この授業は私のこれからの長い人生で「学び」を続けるための礎となった。
このクラスでは、ギルガメシュ叙事詩から聖書から、ホッブズ、ロック、ルソーといった啓蒙思想から、アダムスミスの国富論など広範なトピックを学ぶ。
そのため授業は非常に難解でタフであり、落第する生徒も多い。
このクラスは、一言で言うと、世界中の思想、哲学、文学等を学ぶ授業なのだが、授業の中で何度も出てくるキーワードがある。
それが「Wisdom(知)」である。
例えば、旧約聖書のヨブ記という話の中で、ヨブという主人公は自身の子供が死んだり、財産が全てなくなったりと、立て続けに酷い目にあい、ヨブは神に抗う。
しかし、最後には神と対峙し、神に創られた自身の存在を知覚する(「知」を得た)。 その後の余生は神を崇拝し、幸せに過ごした。
授業の中で、このようなストーリーを幾度となく読む。
物語の主人公が、世界の思想的リーダーが、或いはその信奉者が「知」を得るタイミングを幾度となく読む。
思想や哲学は、「生き方」や「学び方」といった根底にあるものを教えてくれる。
「生き方を思考する」、「学び方を学ぶ」、「考え方を考える」というような学問であるため、大学に入ったばかりの小僧が学ぶには非常に良い学問だ。
そして、この授業を教えていた教授も素晴らしかった。
私が、この授業の終わりに教授の元へ行き、授業が素晴らしかったことを伝えると、教授は私にこう言った。
教授「キミは日本人か。私は最近、「おくりびと」という日本の映画を観たんだが、君は観たことがあるかい?」
私「いえ、観たことないです。」
教授「あの映画は、主人公が納棺師という仕事をやっていて、最初は嫌々やっていたんだが、最後に父親を納棺師として送り出すんだ。 その時、父の愛や納棺師の仕事のやりがいに気づく。 つまり、物語の最後で主人公は「Wisdom(知)」を得るんだ。キミも観てみるといい。」
教授はアメリカで生まれ育ったアメリカ人である。
私は、文学や思想だけでなく、日本の映画までチェックしている教授の見識の深さに感銘を受けた。
そして、普段観る映画を教授の独特の観点で観ていることには感服するばかりである。
この授業を通じて、何かを学ぶ前段階において、「学ぶ意味を考える」、そして「学び方を学ぶ」といった根本の能力を獲得することができた。
私の大学の恩師に言わせれば、「wisdom」を獲得できた。
これは、いわゆる「知」や「知恵」と呼ばれるものかもしれないし、「悩む事」や「思考する事」、「疑問を持つ事」という事かもしれない。
または、「知覚する事」や「何かに価値を見出す事」かもしれない。
「スキル」や「技術」とは違い、磨き上げ、向上させるものというよりは、「獲得する」、或いは「気づく」ものだと思う。
振り返れば、私の人生、大前研一氏の「知」に触れ、学ぶことを志し、大学でまた新たな「知」に触れ、今後の人生学び続けることができることができるようになった。
アメリカに来て様々な授業を受け、学ぶことを続けていると、いつの間にか勉強が全く「苦」ではなくなっていた。むしろ、新たな知識を得ることに喜びや楽しみを感じるようになっていた。
学ぶことは本当に大切である。
学ぶことによって、新しい知識を得られるだけでなく、素晴らしい教授や優秀な学生との素晴らしい出会いがある。 様々な志を持った人との出会いがある。
一方、学べば学ぶほど、自身が無知であることも分かってくる。
時には自身の無知さ加減に嫌になったりもしたが、いろいろな「学び」のあった大学時代だった。
コンサルティング会社での経験
コンサルティング会社に新卒で入社する人達は名門大学を卒業した超優秀な人達だった。
新卒のコンサルタントが5人集まれば、そのうち3人が東大、2人が早慶出身といった具合である。 中には大学で首席だった人もいる。
しかも、みんな大学時代は外資系投資銀行やコンサルティング会社でインターンシップを経験し、大学のゼミや研究でバリバリ議論して鍛え抜かれた人達である。
そんな中、私は高校中退のチンピラ。
アメリカの大学で英語でのディスカッションをした経験は多少あるが、日本語で議論したことは無に等しい。
新入社員研修では、同期のみんなが経営のフレームワークやら理論やらを駆使して熱い議論を戦わせる中、私は一言もしゃべれないままに研修を終え、落ち込んだ状態でプロジェクトに放り出されたのであった。
コンサルタントは一年目から責任の大きな仕事を任せられるのが常である。
私は一年目から日米のクライアントを率いるチームリーダーの役割をやった。
アメリカオフィスのコンサルタント達との共同プロジェクトだったが、アメリカ側のメンバーはハーバードやスタンフォードなどの名門大学のビジネススクールを出た優秀なシニアコンサルタント。
一年目の新人は私だけである。
他のコンサルタント達についていくことで精一杯であったが、なんとかプロジェクトは成功に終わった。
この後も次々と責任感の大きいプロジェクトを任せられ、毎日早朝から深夜まで、時には土日や休日も働き、プロジェクトをこなしていった結果、いつしかチーム内で若手のエースとして認知されるようになっていた。
高校中退のチンピラで良かったこともある。
コンサルタントになる人達はプライドの高い優秀な人が多い。
なので一度失敗や挫折をすると落ち込んで鬱になってしまったり、会社を辞める人も多い。
私の場合、エリートとしてのプライドなんて微塵もない。失敗や挫折も何度も経験しているので痛くも痒くもない。
そして、エリートとのもう一つの違いは、私は自分の居場所を失う怖さを知っている。
自分の居場所を失わないために、しがみつくことを知っている。
時にはかなりタフなプロジェクトに携わることもあったが、私は耐えることができた。
長時間労働とクライアントからの叱責などでプロジェクトメンバーは疲弊し、家にも帰れないので家庭が崩壊して離婚したり、鬱になってしまったりするメンバーが続出したが、私は耐える事ができた。
自信が付いた私は、その後も難易度の高いプロジェクトをこなし、コアメンバーとして活躍し、順調に出世し、年収も上がっていった。
順風満帆の最中、ふと疑問が湧いた。
「このままでいいのだろうか。」
このままコンサルタントを続けていたら、三十台後半か四十台前半でパートナー(役員)になり、年収も2000万、3000万・・・と上がっていくだろう。
何不自由のない生活ができるし、社会的に意義のある仕事もできる。
「しかし、本当にこのままで良いのだろうか。」
私はこれまでの人生で、多くの人に出会い、多くの人に助けられ、多くの事を学んだ。
今の私は、私を育ててくれた社会に恩返しができているだろうか。
今、ゼロに戻って自身を見つめ直すとどう感じるだろう?
コンサルタントを続けたいと思うだろうか、あるいは別の道を歩むだろうか。
私は、これまでの人生の振り返りとこれからの人生の可能性を探るため、人生のチェックポイントという意味でも大学院に行くことに決めた。
一度会社組織を辞め、まっさらな状態で大学院に行き、
また、様々な人から「知」を得て学び、
その上で、私は何を考えるのだろうか。
オックスフォード大学に入るまで
大学院にいくのであれば、やはり、各国から様々なバックグラウンドの人が集まるMBA(経営管理学修士)プログラムに行きたいと思った。
欧米のMBAプログラムには世界中のエリートが集まり、MBA修了後には名だたる大企業の幹部候補や投資銀行、コンサルティング会社などに就職する。
日本では、楽天の三木谷社長などが海外MBA取得者として有名である。
MBA過程に入学するには、大学の成績、職歴、英語試験の成績、共通テストの成績、エッセイ、推薦状、面接などが必要で、出願してくる人達は世界中のエリートなので入学は非常に難しい。
東大を出た官僚や商社マンが受験勉強や入学準備に2~3年かけても志望する学校に入れないなんていうことはザラにある。
私はコンサルティング会社で働く傍ら、半年間集中して留学準備を行い、アイビーリーグ校(アメリカのトップ大学)を含む世界の名だたる大学から入学許可を頂いたが、
最終的にはオックスフォード大学に決めた。
オックスフォード大学とは、イギリスの最高峰の大学で、最新のTimesの「世界大学ランキング」では1位に選ばれていた。
最終的にオックスフォード大学に決めたのは、下記のような特徴があり、様々な「知」を私に与えてくれそうだったからである
1. 「社会イノベーションを起すリーダーを育てる」と謳っている唯一の学校である
2. MBAプログラムの中で、アメリカではクラスの半数がアメリカ人であるのに対し、オックスフォード大学は世界からの留学生が90%以上であり、圧倒的な多様性に触れられる
3. 世界最古の大学の一つとして、何世紀にも渡って学問を教えてきた大学である。ビジネス以外にも様々な「知」が集結、蓄積している
イギリスの生活費とビジネススクールの学費は高額であり、1年の留学で1000万円程度はかかるのだが、その大半は借金やローンで賄うことになる。
コンサルタント時代、年収は1000万円以上あったが、学生に戻るので収入はゼロになる。それどころか学費の支払いで1000万円近い借金。
このような身であるにもかかわらず、大学で学び直すという選択をしたのは、何事にも代えがたい、新しい「知」を得ることができると確信しているからにほかならない。
これまでの人生で得た「知」が私を救ってくれた。
私の活路を見出す手助けをしてくれた。
そして、私の人生を豊かにしてくれた。
大学院で学ぶと同時に、ゼロベースで自身を見つめ直し、今後の糧にしたい。
これからオックスフォード大学の「知」に触れる期待に胸が膨らんだ。
夢のスタートへ
私は、これまでの人生、学ぶことで、留学することで、或いは素晴らしい「知」を得ることで、人生を変えることができた。
人生という修行をスタートすることができた。
私自身、まだまだこの上ない未熟者である。
これからの人生、死ぬまで学び続け、修行を続けたい。
しかし、学ぶだけでは駄目で、学んだことを社会に返して、社会を良くしなければいけない。
自分自身、プレーヤーとして何かを成し遂げたいと思う一方で、
将来的には、学習やキャリアで迷っている、或いはつまずいてしまった若者の学習やキャリアを支援するようなことをやりたいと思っている。
政治家になって、私のように学校教育からドロップアウトしてしまった若者のセーフティネットを創るのもいいし、民間で学校を創ってもいい。 私塾を創るのもいい。
或いは、留学を志す若者や進路やキャリアに悩む若者の相談に乗ったり、支援をするのもいい。
また、「学ぶ」という強い意志があれば誰でも学ぶことができるように、奨学金基金を創るのもいいかもしれない。
将来やりたいことが多すぎて私の残りの人生足りるか分からないが、これからも精一杯学び、精一杯社会を良くしていきたい。
学ぶことは素晴らしい。
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