いらない子3 小学生の頃
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母の意見で私は隣町の公立小学校に越境入学することになった。越境させると言いながら、ギリギリまでランドセルもなく、文房具も何もなかった。
さすがに入学1カ月前に見かねた祖母がランドセルや文房具を買ってくれた。また手続きもしてくれたようである。
新しい大きなランドセル…そして同じ歳の子供達に会えること。私はとても楽しみにしていた。
父もその時は戻ってきて、私たちと一緒に過ごしていた。
しかし小学校入学の前日に母に言った些細な冗談で怒らせてしまい、ランドセルを潰されてボロボロにされてしまった。
私はとても悲しかった。
入学式、笑顔で何枚も写真を撮る母とボロボロのランドセルを背負い泣き出しそうな私。それでも笑顔で写真に写らないと、母を満足させないとそこに突っ伏したまま帰らない母を知っていたから、涙を堪え、笑顔で写真に収まった。
小学校に入っても、幼稚園で人との接し方を教わった同級生とは話も合わなかった。これまで接してきたことのある大人たちと同じような話し方しか知らず、その上、ボロボロの服を着た私を先生も同級生たちも少しずつ避けるようになってきた。
そして、同級生から鉛筆で手を軽く刺されたことが原因で、それを知った母はその同級生に激昂しある日いきなり教室に乱入し、その子を殴った。
警察に呼ばれて事情聴取を受ける母。それに同行させられる私。4、5歳の頃に感じた警察官の態度は今度も変わらなかった。
「あの女の娘…」
そして祖父が取りなしし、母は無罪となって喜んでいたが、私は小学校教師からも冷ややかな目で見られるようになり、転校してほしいと言われた。そして、私は地元の小学校に転入した。
祖父からは「お前の母を無罪にしてやったんだから、感謝しろ」と何度も言われた。(この言葉は今後も何度も言われる。)
新しい小学校でも同じような状況ではあったが、母のそのような姿をみて、もう二度と言うまいと誰にもいじめのことは言わなかった。
家では風呂にも入れず、眠らせてももらえず、母から何度も同じ話を聞かされ、ペンでチェックをつけられて例えば「はい」を100回言わないと話をやめてくれない。もし途中で泣いたり、気にくわないイントネーションだと一からやり直し、これが24時間続くこともある。
そして暴力がはじまり、真冬に真水をかけられ、外に追い出される。そしてランドセルも返してもらえず、傷だらけで学校に行くと、同級生から「エイズ患者がきた!」(当時、エイズが問題となっており、エイズ患者は全身に傷ができると教育されていた。)と逃げられ、先生もそれに同調して笑う。
私は学校に行かなくなった。
そしてまた幼少の頃と同じような誰とも交流がもてない毎日がはじまった。
私は9歳になって動物を助けたいと思うようになり、どういう状況でも学校にもう一度行きたいと思うようになった。そして、その時は担任も変わり、小学校に通うことになった。
小学校の授業は難しくなく、通い始めて数ヶ月で満点を取れるようになった。(逆にこの人たちは3年間何を学んでいたのだろう?と思う)
しかし相変わらずのいじめ、そして母の暴力も日に日に強くなり、私は改めて学校に行かなくなってしまった。
小学生のときの記憶は
母からの虐待、いじめ、そして子供たちに同意する教師たち、あとは綺麗な自然という記憶しかない。
このような状況で私は中学生の年齢になっていた。
続きます。
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